若者の自動車離れとやらが叫ばれて久しい。確かに、若年層の著しい低所得化が加速度的に進みつつある現在、自動車にまつわる維持費は重い負担であることは間違い無いだろうし、それがその一因であると言えない事も無い。しかし、私の身近に居る若者達を観ていると、携帯やパソコンといった、私が若い頃には考えられなかった生活コストを支払いながらも、本当に欲しいものはきちんと購入している。それがたとえ奢侈品であっても頑張って購うのである。であるなら、若者の自動車離れの主たる要因は経済的事情だけでは無い筈だ。その主たる要因を端的に述べれば、それは自動車という工業製品のコモディティ化に他ならない。コモディティ化の意味について存知しない読者の為、以下にウィキペデイアから引用しておく。『コモディティ(英:commodity)化は、市場に流通している商品がメーカーごとの個性を失い、消費者にとっては何処のメーカーの品を購入しても大差ない状態のことである。なお英語の「commodity」は日用品程度の意味しかない。これらには、幾つかの要因(後述)があるが、消費者にとっては商品選択の基準が販売価格(市場価格)の違いしかないことから市場原理の常としてメーカー側は「より安い商品」を投入するしかなくなり、結果的にそれら製品カテゴリーに属する製品の値段が安くなる傾向があり、反面企業にしてみれば価格競争で安く商品を提供せざるを得ず、結果的に儲け幅(商品として扱ううまみ)が減ることもあり、企業収益を圧迫する傾向がある。こういったコモディティ化回避の企業戦略としては、付加価値の付与による多機能化など差別化戦略がある訳だが、過剰に機能を追加しても過剰性能で消費者にアピールできない場合もあり、ブランドイメージ戦略も各々のメーカーが同程度の力を注いでいる場合は並列化するまでの時間稼ぎにしかならず、差別化戦略にも限界が存在する』ということである。「最近の車って家電製品みたいだね」と言われるのは、まさにこのコモディティ化そのものを指しているのだ。コモディティ化は、コモディティ(日用品)という言葉が示す通り、単価の安い使い捨て商品から始まる。それが、耐久消費財である自動車にまで波及してきた現状は何を意味するのか。それは究極、或いは極限まで荒みきり、その獰猛性を裸出した凄惨な資本主義社会の到来を告げているのである。たとえば貴方が小型自動車を購入する場合、ビッツであろうとフィットであろうとパッソであろうとスウィフトであろうと、結局のところ自動車のとしての性能差は、取るに足らない程度の些細なものであるわけだから、その選択基準は、色や内装そして価格といった、自動車たる機械の本質とはおよそ懸け離れた要素に収斂して行かざるを得ない。車好きの視点で見れば、これら大衆車にも僅かな差異、優劣はあろう。しかし、そんな瑣末な違いは一般の者にとってはどうでもいい事であり、選択基準足り得ない。そんな些少なことはどうでもいいから一万円でも安くしてくれ、というわけである。一見コモディティ化とは無縁に見える高級車も例外ではない。私があらゆる現行モデルの中で、その造り、性能、質感の何れをとってもこれは間違いなく本物の高級車だと認めるのは、トヨタのセンチュリーのみである。センチュリーの他は、それが如何に高額の超高級スポーツカーであってもコモディティ化している。フェラーリの現行モデルなど、我々プロの職人が見れば、呆れるばかりの粗雑な造り、構造の部位が数限りなくある。現在のフェラーリは既に単なるブランドになりさがっており、フェラーリの現行モデルの購買層は自動車を買っているのではなく、フェラーリというブランドに大枚をはたいているに過ぎない。フェラーリモデナは、フェラーリのエンブレムが貼り付いているから、フェラーリなのであって、モデナにダイハツのエンブレムが貼り付いていたら絶対に許せないのだ。馬鹿馬鹿しいとしか言いようが無い。だた、引用したウィキペディアの説明にも記述があるように、このブランド、ブランディングという抗コモディティ化とも思える泡銭を産むビジネス手法も、実はコモディティ化の大波に飲み込まれてしまうのである。コモディティ化してしまった自動車は、個性が無く、魅力が無く、面白くない。それは言ってみれば石鹸やトイレットペーパーと同質の商品になってしまった事であり、手が洗えて尻が拭ければそれで良いということなのである。而して、真の車好きは魅力溢れるビンテージカーに走る。ビンテージカーの、あの工芸品とも言える凝った造りの部品群。そしてその部品を瞼に映し、指先で触れるたびに、それを拵えた職人の矜持を感じる愉しみ。更には、時間という厳しい試練に耐え忍び、生き残ってきた本物だけが持ちうるその圧倒的な存在感に、敬意にも似た感情を覚えるのだ。これは決して安直な懐古趣味ではあり得ず、現状に対するアンチテーゼとして心中に存し、カタルシスとして作用するものなのである。コモディティ化は自動車業界より遥か以前から、食品、外食産業で始まっていた。牛丼、ファミレス、居酒屋といった外食チェーンにおいて日々繰り返されている激烈な価格の叩き合いを目の当たりにすれば納得できよう。何処の外食チェーンに行っても出てくる料理は化学調味料塗れの冷凍食品ばかり。客もそれを百も承知で行くわけであるから、安いに越したことは無い。もう既に外食チェーンという存在は、酒や料理を提供することが主なる業務ではなく、その本質は単に場所を提供することに変質しているのだ。これは、ペットボトルビジネスと同位である。ペットボトル飲料は、実は中身である飲料を売りたいわけでは全く無く、あれはペットボトルを買ってもらいたいだけなのだ。ただ、空のペットボトルを買ってくれる客はいないであろうから、仕方なく何らかの飲料を入れる。少しでもペットボトルが売れるように中身を工夫する。そういうビジネスである。外食チェーンも全く同様になっている。衣料品業界のコモディティ化も激しい。今や高級ブランドの衣料品でさえ、その殆どが中国製だ。コモディティ化が進んだ結果、ブルックスブラザースのポロシャツとユニクロのポロシャツの品質は全く変わらなくなった。むしろユニクロの方が明らかに品質が良い物さえある。数年前、私が、ある知人からプレゼントされたブルックスブラザースのレザーグローブはイタリア製であったが、一ヶ月で破けた。流石イタリア製だと一笑に付したが、その後、別の知人から頂いたユニクロのグローブは数年の時を経てもなんとも無い。要するに、現在のブルックスブラザースは、コモディティ化にすら付いて行けなくなっているのである。コモディティ化の波は、恐ろしいことに人間そのものまでも飲み込もうとしている。いや、既に飲み込まれてしまっていると言ってもいいだろう。現代社会においては、就職や経済的将来性という視座で見れば、大学を卒業することに意味が無くなりつつある。もう少し精確に述べれば、東大、京大、慶応(経済)、早稲田(政経、理工)以外の大学を卒業しても就職に有利性が発することは殆ど無い。何故なら、労働者の労働力のコモディティ化が進んでしまった結果、極めて単純化して言えば、中途半端な能力の労働者は、企業から全く必要とされなくなったのである。苛烈を極める現在の市場競争の中で足掻く企業には新入社員を丁寧に教育し育てる時間的、コスト的有余は無い。企業が欲しいのは即戦力のみだ。組織体系もどんどん変わっている。自社商品がコモディティ化している企業は従来型のヒエラルキーを保つことは出来ない。前述した東大、京大、慶応、早稲田、などを出た小数のエリートが頭脳となり、それ以下の全ての労働者はマニュアル化された、いわば誰でも出来る単純労働に従じるというひょうたん型の組織体系をなす。なんの技術も身に付かない単純労働を続けていても、収入は一向に上がらず、年齢だけを重ねてゆく。就職の際に少しでも有利になればと考えて頑張ったTOEICも全くの無意味だ。日本人より低賃金で働く英語ぺらぺらの中国人は無尽蔵に居る。そう、労働力のコモディティ化により、名の通った企業でも外国人との就職戦争が始まっている。このままであれば、人間の生活全てがコモディティ化される日もそう遠くはないだろう。ホンの一部のエリートを除く全ての人が、朝起きると山崎パンを食べ、ユニクロの服を着て仕事に出掛ける。誰でも出来る単純労働をし、吉野家に行列して昼食の牛丼を食べる。午後も単純労働を繰り返し、帰路の途中コンビニで弁当を買って夕食とする。発泡酒を片手に「家政婦のミタ」を観る。仕事の後、たまに同僚と呑みに行くのは人数が多ければ和民、少数であればお疲れ様セット1000円の立ち飲み屋と決まっている。これが一億総コモディティ化である。既にそうなっているではないか、という声が聞こえてきそうだ。その通り、日本はそうなっている。後はどれだけコモディティ化人が増えるかだけの問題である。人間がコモディティ化し均質化することはなんたる恐怖であろうか。人間のコモディティ化から逃れるには、中国製品を買わないこと、コモディティ商品を生産している企業に就職しないこと、牛丼を食べないこと、ペットボトル飲料を買わないこと、テレビを見ないこと、新聞を読まないことから始めるのがよかろう。こんなことを言うと、「え、なんで?ユニクロの服いいじゃん、吉野家だって旨いじゃん、コンビニだって便利だよ、家政婦のミタなんて凄く面白かったよ」という反駁があろう。この反駁に、私は返す言葉を知らない。宛がい扶持の低劣な幸福感に甘んじ,それを十全としている人間に、どんなに大きな姿見を与えようが、己の醜行は映らないのだ。