それは江戸の昔、寛永の頃でした。在木曽の山中、藁葺き屋根は朽ち崩れ、塗り壁は剥がれ落ち竹編み剥き出し、障子なぞ有って無きが如し、文字通りの荒屋より、夜も明けきらぬ未明、独りの男児が染みだらけの小さき風呂敷包みを背負って出立しました。児の名は太郎吉、齢八つ、背丈四尺一寸。太郎吉が目指すはお江戸日本橋芳町です。八つになったばかりの太郎吉が、六十里を超える行歩を遂げ、果たして日本橋芳町に辿り着けるのかすら定かではありません。しかし前途多難は覚悟の上で、太郎吉は旅立たねばなりませんでした。生来の怠け者に加えて、手の付けられない放蕩者であった父親は、太郎吉が生まれた時には既に酒毒に侵されていました。太郎吉が五つになった頃、遂に酒毒が脳味噌に廻ったか、父親は発狂し、裏の肥溜めに飛び込んで死んでしまいました。其の時、狂った父親が飛び込むのを止めんとした太郎吉の姉も、父親諸共肥溜めに落ち、哀れクソ死にとなりました。そしてかねてより同じ集落に住む人々から顰蹙を買っていた父親は、この糞死を機に味噌漬け父娘と呼ばれ、物笑いの種になりました。父親と姉を同時に失った太郎吉は、その後母子二人きり、芋粥にありつく事さえ難しい惨憺たる赤貧の暮らしに耐えていましたが、たった一人の肉親であった母親も瘧に罹り、先月の事、突如口から泡を噴き、白目を剥いて、それはそれはおぞましい形相を最期にコロリポクリと落命しました。悲運不幸が掛け合わさり、幼年八つにして天涯孤独となってしまった太郎吉でしたが、放蕩の限りを尽くしたあの父親の子とあっては、ただでさえ貧しき集落の中に食わせてくれる人など居るはずもありません。しかしそれでも、朽ち果てた荒屋の下、野草を齧っては糊口を凌ぎ、、日に日に痩せ細ってゆく太郎吉を見兼ねて、集落に住む或る男が奉公の口を取り持ってくれたのです。その奉公先が日本橋芳町の指し物職人、権造でした。他に生き延びる方途があるでなし、太郎吉は幼心に己の命運を受け入れ、草鞋を履きました。集落の厄介者であった太郎吉が居なくなると聞き、それは清々するとばかり住民は皆喜び、厄介払いの餞別に白米の握り飯、麦飯、乾飯、梅干、干し柿など、沢山の兵糧を太郎吉へ差し出しました。太郎吉はその餞別を、死んだ母親の繕い痕も痛々しい小さな風呂敷で後生大事に包み込み、背中へ廻しました。そして生家である荒屋の脇の、干上がりかけ、落ち葉が混じり、便所コオロギの死骸が浮いた古井戸の水を古びた竹筒へ満たすと、集落の一同にペコリと小さく辞儀をくれて、独り弱々しい足取りで一歩二歩と歩きだしました。生まれてこの方今日の今日迄赤貧暮らしであったせいか、その性根に染み付いた用心深さに加え、生まれ持った吝い質も手伝って、太郎吉は集落の皆がくれた兵糧になかなか手を付けませんでした。稗や粟を日頃の糧としていた太郎吉にとって、特に白米や麦の握りなぞは見るも初めて、手に取ればその神々しいばかりの重みを覚え、軽々に口に入れる事など出来ません。太郎吉は、空腹に耐えかねると餞別の乾飯をひと摘み食し、竹筒の水をひと口啜る。これを繰り返しながら一路日本橋芳町へと、ひたすら歩き続けました。荒屋を発って三日を過ぎた頃でしょうか。太郎吉は、自分の体が異な臭いを醸している事に気付きました。風呂はおろか行水も出来ず、汗と埃と脂にまみれた躰を拭くのも忘れ、歩みを継続すれば、これちと臭かろうも仕方なし、と思っていましたが、「いや、ちとおかしい」、太郎吉が己の団子鼻をひくつかせると、その異な臭いは躰からではなく、背中の風呂敷包のものであると判りました。休憩がてら路傍の石に腰を下ろし、風呂敷包みを解いてみると、嗚呼!なんたる無念!!行路出立の折、集落の人々から授かった餞別のうち乾飯と梅干を除いて、白米の握り飯、麦飯、干し柿の全てが腐れていたのです!太郎吉の双眸からは悲涙が溢れ、汚れた風呂敷を濡らしました。この世に生を受けてこんにちに至るまでの太郎吉の生活は、日に一度でも何か口に入れば御の字というその日暮らし。食べ物が余るなどということは一度たりともありませんでした。それ故、食べ物が腐るという事さえ、太郎吉は知らなかったのです。「なんてこった、こんなことになるのだったらさっさと食っちまえば良かった」。太郎吉は我の愚かしさに地団駄を踏みつつ、しかし一つ一つ丁寧に、黴びて異臭発するその腐れた兵糧を路辺に並べました。そうすると、太郎吉の風呂敷の中身は、残り僅かとなった乾飯と梅干、予備の草鞋、そして集落の男が書いてくれた日本橋芳町の指し物職人、権造へ渡す紹介状のみになってしまいました。太郎吉は、擦り切れ捌けた着物の袖で涙を拭い、すっかり小さくなった風呂敷包を袈裟に懸け、しょんぼりとうなだれて、また歩きだしました。歩き始めて十間も進んだ時、太郎吉が路辺に並べた黴び腐れの兵糧を、数羽の烏が争うように啄み始めました。さて、八つの児の足では一日五里も進むのが精一杯。僅かに残っていた乾飯と梅干も最早食い尽くしてしまった太郎吉は、時折道にすれ違う他人に物乞いをし、点在する民家を訪ねては兵糧の無心を重ねて遮二無二前進しました。行路の道すがら、陽が落ちるまでに土地々々の寺を探し当て、夜はその軒先を借りて雨露を凌ぎ眠ったのでした。これがもし冬月の折なれば、太郎吉は一晩と持たず凍え死んでいたでしょう。しかし暖かな時候であったとは云え、馴れぬ土地にたった独り、闇夜に響く野犬の遠吠えや鵺の叫びに、太郎吉は言い知れぬ戦慄を覚え、疲れた躰が休まる事はありませんでした。一日五里。兎にも角にも太郎吉は歩を進めました。太郎吉の母も幼少の頃、尾張の商家へ奉公していました。生前その母から、奉公暮らしの辛さ厳しさを頻頻と聞かされていただけに、太郎吉は、この辛苦極まる行路の果てに、その上なおも辛酸を嘗めるが如き累日が待ち構えているかと思えば、闇より暗く、涙も凍る心持ちになりました。それでも太郎吉は歩を緩める事はありませんでした。足の爪は割れ、豆は破れ、その傷痛に耐え、ずんずん歩きました。八つの児が自覚出来ぬにせよ、太郎吉を支えたもの、それは人間の本能である命への執着、もしくは自身の未来に対する一縷にさえ満たぬ微かな光であったのかもしれません。木曽の集落を発って半月、太郎吉はとうとう江戸へ至りました。しかし其処は日本橋芳町までもう一息の神田岩本町でした。予備の草鞋も三里を残した辺りで擦り切れ壊れ既に裸足、懐にある畳んだ風呂敷の中身は奉公先の権造に渡す紹介状だけでした。疲労困憊、精根尽き果て、太郎吉はもう一歩も動くことが出来ずその場にへたりこんでしまいました。それに加えて、江戸なる処のあまりに人の多いこと、太郎吉はただただ瞠目するばかりです。しかしそのまま道端にしゃがみ込んでいてもどうにもなりません。太郎吉は死力を振り絞り、目の前の雑踏にむかって叫びました。「日本橋芳町の権造さん!日本橋芳町の権造さん!」。応ずる者など居るはずもありません。それどころか「なんでぇ!この泥団子みてぇな汚ねぇ餓鬼は!邪魔だ!どきやがれ!」と、急ぎ足の男に蹴飛ばされてしまいました。蹴飛ばされた弾みで地面に顔をしたたか擦り、太郎吉の左の頬は血が滲みました。太郎吉は泣きませんでした。泣くことも出来ぬほど疲れ果てていたのです。なお諦めずに、太郎吉は叫びました。「日本橋芳町の権造さん!日本橋芳町の権造さん!日本橋芳町の権造さん!」。太郎吉の声は枯れ行き、だんだん小さくなりました。その時です。雑踏の中から一人の小柄な男が太郎吉に近づき、「おい小僧!芳町の権造親方になんの用だ!俺ぁ権造親方のことなら良く知ってるぜ!」と言いました。太郎吉の目に一条の光が射しましたが、もう返事をする気力もありません。太郎吉は無言で、懐の紹介状を男に渡しました。「ほう、そういう事か。話は分った。権造親方の処まで案内してやるぜ。付いてきな、、、、、。お、てめぇ立ち上がれねぇほどくたびれてやがるのか。よし、それなら権造親方にこいつを届けてやらぁ。そこで待ってな!」。男は紹介状を手に走り去りました。するとほどなくして、大八車を引き押しした中年の夫婦が現れました。「おめぇが太郎吉か」。権造が声をかけると、太郎吉は膝を抱いてしゃがんだまま力無くコクリと頷きました。「良く来た、良く頑張った。もう大丈夫だ。安心しな」。太郎吉は筵が敷かれた大八車へ抱き上げられ、日本橋芳町の指し物職人、権造の家に向かいました。どれだけ眠ったでしょうか。太郎吉が目を覚ますと、そこは狭いながらも隅々まで掃除の行き届いた小奇麗な座敷で、枕元には権造の女房、お由が静かに正座していました。「おや、目を覚ましたかい、よほど辛い道中だったんだろう、ようく眠っていたよ。さ、粥を作ったからお食べ、ゆっくりでいいんだよ」。お由の勧めに太郎吉は躰を起こし、純白の米粥にうずらの卵を落とした茶碗を受け取りました。艱難の行路の後とあって、太郎吉の躰は其処此処に痛みが走りましたが、そのうずらを落とした米粥を一口啜った刹那、白米の芳香、うずら卵の甘みに心を奪われ、躰の痛みなど消し飛んでしまいました。結局太郎吉は米粥を五杯も平らげ、そのままバタリとまた眠ってしまいました。次に目を覚ました時、今度は権造が心配そうな面持ちで枕元に立ち、太郎吉の顔を覗き込んでいました。「よぉ太郎吉、どうだ、起きるか、御機嫌か?」。権造が声をかけると太郎吉は、慌てて起き上がり正座して、親方である権造に精一杯の挨拶をしようとしました。「太郎吉よぉ、堅い挨拶なんてぇもんは後回しだ。良く眠って腹が張って精を付けたら仕事の前に湯だ。なんてったって朝湯は気持ちが良いぜぇ。由に着替えを貰って来い。朝湯だ朝湯」。権造は、慥かな腕を持った指し物職人でしたが、堅苦しい昔ながらの仕来りを嫌う、ざっくばらんな男でした。権造と一緒に湯屋を出てきた太郎吉は、まるで殻をむいたばかりのゆで卵の様に、ツルリときれいになっていました。権造とお由は実に気立ての良い夫婦で、時に厳しく、時に優しく、太郎吉を我が子の如く可愛がり、育てました。それもその筈、権造夫婦は二年前、最愛の倅を不慮の事故で失っており、その倅が生きていれば今の太郎吉と同い年なのでした。太郎吉は太郎吉で、母親が生前語っていた奉公の苦労話に比して、今の自分の境遇が如何に恵まれたものであるか、その望外の幸せに感謝せずにはいられませんでした。一方、仕事の面でも太郎吉は、真面目にせっせと下働きに勤めながら、親方である権造の巧みな指し物技を覚えてゆきました。元々勤勉実直だった上に、自分でも今まで気付かなかった指先の器用さという天賦の才も手伝って、太郎吉はみるみる腕を上げました。太郎吉が権造の下で指し物職人の修行に入って三年が経った頃、芳町近くの堀留町に、二郎助といういかにも目付きの悪い少年が八丁堀から移り住んできました。二郎助は太郎吉より三つ上、目付きも悪ければ性根も曲がったヤクザ小僧。どこでかすめて来たか、いつも左手に三寸煙管を弄び、夜ともなれば小僧だてらに酒場に出入りし、酒を食らっては呑み逃げを繰り返す甚だ質の悪い愚連者でした。二郎助は、親方の遣いに町を歩く太郎吉を見つける度に悪事に誘い、自分の子分にしようと画策しましたが、真面目一本意志堅固の太郎吉がそんな話に乗るはずもありません。ある夜、いつものように二軒三軒と呑み逃げを重ね、追手から逃れた二郎助は、首尾良くただ酒を呑めた事に気を良くしたか、「掘留の二郎助がこれしきの酒で酔ってたまるか!どうだこの通りだ!」などと独りうそぶいて、江戸橋の欄干に躍り上がりました。二郎助は更に図に乗り、その欄干の上を綱渡り宜しく歩きだし、二歩三歩、、、五歩目までは良かったが、六歩目がいけなかった。六歩目で足を滑らせた二郎助は、日本橋川にこそ落ちなかったものの、その江戸橋の欄干に己の股間をしたたかと打ち付け、哀れ片玉となってしまいました。片玉になって以降の二郎助は、すっかり大人しくなり、時によっては女言葉をチラホラと話す様になりました。そして巷で、二郎助の事をカマ二郎と呼ぶようになった頃、二郎助改カマ二郎は、悲しいかな男色の苦界に身を堕としたのでした。はてさて、太郎吉は昼も夜も無く働きました。権造親方の下、芳町での暮らしは小僧という立場にありましたが、木曽山中の、あの食うや食わずの貧寒とした日々に比すれば、極楽と言っても良いものでした。しかし、太郎吉は現状に甘んずることなく、心を引き締め己を律し、職人修行に励みました。その太郎吉の働きぶり、指し物の才を聞きつけ、近頃芳町界隈では、権造の弟子に太郎吉あり、とまで言われるようになりました。そして太郎吉が権造の弟子となって八年も過ぎると、その指し物師としての力量は、既に名人権造親方に比肩する域に達していました。そんなある日、太郎吉が小箪笥の天版に使う欅材に一心不乱と鉋を引いている時、並んでホゾ組みをしていた権造親方が声をかけました。「太郎吉よぅ、ちょいと手を止めろ」。「はい、何か仕事に手抜かりが御座いましたでしょうか」。太郎吉が居住いを正して権造親方に向き直ると、「いや、そうじゃねぇ、おめぇの仕事に手抜かりなんぞあるはずもねぇ事は俺が一番分かってらぁ。そんなケチな話じゃねぇ」、権造親方は続けました。「桃栗三年柿八年ってのは、ありゃ本当だ。おめぇも俺の処へ来てもう八年。何処の誰が見たってもう俺と殆ど変わらねぇ仕事をするじゃねえか。もうおめぇに教えることは何も無え。柿の実がなったってこった。あとは経験を積むだけよ。そろそろ独り立ちしちゃあどうだ」。太郎吉は膝の拳を固く握り締め、「親方、そりゃあ身に余るお言葉です。有り難う存じます。でも、でも、、親方も先刻承知の通り、あっしは木曽の山奥から身一つで出てきた山出し小僧。江戸で店を開くような金銀はびた銭一枚ありゃしませんし、此処を出されたら往くところも無え。どうかこの太郎吉をこのまま此処に一生置いてくんなせえ。どうかこの通り願います」と懇願しました。すると権造は目を細めて、「太郎吉、おめぇはどこまでも堅気な野郎だな。俺あますます安心したぜ。おめぇに銭金が無えなんてことは百も承知よ。芳町の権造を見損なっちゃぁいけねえ。おめぇの独り立ちの用意ぐらい真っ平調い済みよ。神田紺屋町の空き店を買ってよう、なんなら明日からでも仕事が出来るように道具も何もあらかた揃ってるぜ」。太郎吉の拳は小刻みに震え、つむった瞼から溢れる涙が止まりませんでした。左様目出度く独り立ちと相成った太郎吉は、決して気を弛める事なく、職人は一生修行とばかり、止むことなき研鑽を積み続けました。指物師として、太郎吉の作った品物の評判は高まるばかり。注文が次から次へと舞い込みます。独り立ちして二年が過ぎた頃、ひょんな事から太郎吉は、在板橋村出身、おわい屋の娘お百合と知り合いました。お百合は、「あの面提げて百合を名乗るたぁお笑い種だ!」と近所で馬鹿にされるほどの不器量娘。まあ何と申しましょうか、破れ提灯に目鼻を付けたような、甚だ醜き女でした。しかし気立ては良く正直な上、働き者でした。太郎吉はお百合の不器量など全く意に介さず、その心の美しさに惚れ込み、ほどなく祝言をあげました。さあ!仕事も家内も順風満帆!太郎吉の作った、小箪笥、や長火鉢は、「百年使っても不具合無し」と下町中で言われるほどになり、注文に手が追いつかない日々が続きました。それから幾年経ったことでしょう。幸せは永く続かないのが世の常。ある時を境に、太郎吉の指し物は全く売れなくなってしまいました。何故なら、太郎吉の作る指し物は評判通りの品物で、いくら使っても全く壊れないため、買い換える必要がありません。そして殆どの所帯に行き渡ってしまった結果、もう新たに買ってくれる人がいなくなってしまったのです。太郎吉は困りました。困り果てました。お百合に話したところでどうにもなりません。そこで太郎吉は、芳町の権造親方の処へ相談に行きました。しかしその頃権造は、長年放置していたイボ痔が悪化し寝込んでおり、何を聞いても「尻が痛い、、、尻が痛い、、、」と嘆くばかりで話になりません。権造の女房、お由はと言えば、これがなにをトチ狂ったか、いい年をして外に男を作り、権造がイボ痔に苦しんでいる隙を見て、その男と出奔してしまったのでした。太郎吉は仕方なく自家に戻って何時もの作業場に座り、「一所懸命に仕事をすると何故飯がくえなくなるんだ!手を抜かず丁寧に良い品物を拵えると何故仕事が無くなっちまうんだ!」と悔しがりながら、鉋を引きました。注文が入らずとも、ひたすら鉋を引き続けました。ほどなくして権造親方は、イボ痔が破裂し、流血過多にて絶命しました。権造が死んで三日後の事、仕事場の真ん中で、太郎吉が仕事用のノミを胸に突き立て、自害に斃れているのをお百合が見つけました。太郎吉は品物の天版に使う欅材に突っ伏し、その髪には沢山の鉋屑が付いていました。太郎吉が自害して百年後、江戸庶民の家では太郎吉の拵えた指し物がまだまだ現役で使われていました。そして神田、日本橋界隈の人々は、「太郎吉の拵えた小箪笥の天版に耳を当てると鉋を引く音が聞こえてくる」と言って、いつまでもいつまでも大切に使い続けたそうです。 以上、浮世の不条理は常のこと、江戸の昔から平成に至るも、この世は何の進歩も無きが如し、というまこと哀しき物語でした。 おしまい。