2012年07月

愛すれば鈍する

「突然のメール失礼致します」とか言う書き出しで始まるメールを頂く事があるが、著しい違和感と怒りを覚える。メールであれ電話であれファックスであれ、それは如何に相手を気遣おうとも「突然」送りつけるしか術の無い性質のものであって、「さりげなく」メールを送るとか、「そこはかとなく」メールを送るとか、「忍び寄るが如く」メールを送るとか、「申し訳なさそうに」メールを送るなどという事は物理的技術的に不可能なのであるから、「突然の」を付加する事は、自らが発する言句の旨意を理解していない事に他ならず、己の脳が思考停止している証跡であろう。相手の事情など露程も考えていないくせに、言葉面だけで如何にも対者を慮っているような素振りを見せんとするこの痴行は、その人格の底の浅さと婉曲な厭らしさ露呈するものでしかない。つまりは、「私はここまで謙って貴方に気を遣っているのだから、貴方も私の要求に対して誠意を持って応えてね」と言う訳だ。何ともまあ浅はかであざとく厭らしい言い回しではないか。これと本質的に同様なのが結婚式の招待状である。この拙文の読者の年齢層は比較的高いと感じているが、晩婚化が進んだ現在、果敢にもこれから結婚しようとしている勇敢なる冒険家もいるかも知れない。その軽率無謀な冒険家の方々には、これから先を特に精読して頂きたい。まず、貴方が結婚しても貴方と貴方の極近しい身内以外、誰も嬉しくないし、何とも思っていない。束の間の儚くも虚しい、絶望と隣り合わせの喜びに浸っているのは貴方だけであり、その姿は他者が見た場合滑稽以外の何物でもない。次に、親族以外の他人を結婚式に招待(恐喝)するのはやめなさい。招待された者がどれほど迷惑に感じているか想像して欲しい。ついさっきまで葬式仏教を名乗って憚らなかった者が、式の直前に形ばかりのインチキ洗礼を受け、まるで子供の学芸会の如き稚拙なキリスト教式の結婚式を挙げる事のバカバカしさに皆心底ウンザリしているのである。披露宴になれば、出てくる料理は見掛け倒しの冷めた物。腹が減ったからといって自分だけ料理をパクつくわけにもいかず、皆あまり食べない。更には自己満足押付け型お色直し。「オカメが何回着替えたって大して変わんねえんだ!色直しなんてしてる暇があったら韓国行って整形してこい!このヒョットコ花嫁!」こんなヤジが飛ばないのが不思議なくらいだ。祝儀というものも、はたまた不思議な慣習だ。幸せ一杯感極まる二人に、何故更に金をくれてやらなければならないのか。金なんかくれてやらなくても二人は幸せ一杯なのだからそれで十分ではないか。祝儀とは寄付の一種であろう。であるならば、寄付というものは普通、余裕のある者が不幸な人々にするものだ。それをあろう事か自分達は瞬時の幸福に身を委ねながら、更に他人様から金子を奪取するとはなんたるふてぶてしさ。これは完全に幸せ強盗であり、盗人猛々しいにも程がある。とどめの迷惑は、これは私が頻通する洋食店の方々も糾弾していたが、あのガラクタとしか言い様の無い引き出物だ。あんなガラクタは質に入れても一文にもなりはしない。おまけにそれが新郎新婦の名入り品だったりしたら目も当てられない。即刻ゴミ箱行きである。ではこのような結婚式という恥も外聞も討ち捨て、我を失った愚行に人を暴走させるそのエネルギーの源泉たるやなんなのであろうか。それはズバシ「愛」である。「愛」という低級呪術に罹った人は、もはや正常な判断能力を喪失しているのだ。結婚式の招待状を送りつけられた人達が、「ちぇっ!またかよ。どうせ2,3年で別れるんだからこんなもん送ってくるなよ!迷惑だなあ!」と舌打ちしている事に気付きはしない。「愛」とは実に恐ろしいものである。私は「愛」を知り尽くしているからこそ「愛」を信じないし殆どの物事を愛さない。私に所謂愛国心は無い。この国がどうなろうが私にとってはどうでもよい事だし、良くなって欲しいとも思わない。ただ、私の周りで私にとって不愉快な事がなるべく起こらないと良いなと思うだけだ。私は、たまたま日本に生れ落ちただけであり、私が自身で日本に生まれる事を望み選んだわけではない。自らの意志と無関係に与えられた物や環境に愛を感ずる方が異状に見える。だから、オリンピックなんぞで一喜一憂している人が不思議でならない。だいたい国家間で優劣を競うという前時代的で野蛮な行事は直ちに中止すべきとさえ思っている。私には愛郷心も無い。自宅からの徒歩圏内に美味しい店が増えると嬉しく、大手飲食チェーン店が侵略してくると悲しい。それだけである。このように考察してゆくと、純然たる博愛主義者を除いて、通常、愛とは己の帰属集団によって育まれるものであることがわかる。国家、会社、大学、地域、家族、これらは全て其処に含まれる者の帰属意識によって成立している。この帰属意識の強弱が愛の温度に比例するのである。アメリカ人が日本人をイエローモンキーといって馬鹿にした場合、髪の毛を逆立てて怒りをあらわにする人もいれば、少し不愉快になる程度の人もいる。この怒りが強ければ強いほど、国家に対する帰属意識が強く、愛国心も強力になる。私は国家という帰属集団に対する帰属意識が極めて薄弱、というよりほぼゼロであるから米国人に黄色猿と嘲笑されてもなんら痛痒は感じない。リチャードギアと田村正和が並べば、リチャードギアに軍配があがるのは火を見るよりも明らかな訳だから、米国白人は日本人が猿に見えて至当にもかかわらず、殆どの日本人はその紛れも無い事実を否定せんと怒る。「愛は盲目」との言葉通り、愛なるものは異性間の情愛に留まることなく、あらゆる事象に対しての、人間が本来もって然るべき鋭敏な感覚を自壊させる。音楽鑑賞を愛する者は、それがたとえミケランジェリのピアノであったとしても、周囲の者にとっては単なる雑音に過ぎないことに気付きはしない。スポーツを愛する者は、熱狂的でありながら実のところ空虚なその行為が、対社会的憤怒のはけ口にすり替えられ、己の思考深化を妨げていることに気付きはしない。釣りを愛する者は、魚の体に針を突き刺し、それを喜びとする残虐性を認めようとはしない。犬を愛する者は、特定の動物を偏愛するという人間のエゴイズム剥き出しの愚行が、エコテロ組織であるシーシェパードと同列の選民思想に帰結することなど思いも及ばない。そして国を愛する者は、その卑小な愛国心そのものが、悉皆、国家間紛争の火種として常に燻り、ひいては火種に油を注ぎ煽り立てる首尾となっている現実を見ようともしない。どうだろう。愛とはこうも人士から現実を、真実を、本質を遠ざけるものなのだ。ただ、ここで例にあげ、厳しく断じた行為を、私が全否定しているものとして捉えるのはあまりにも稚拙な軽断と言えよう。音楽も、スポーツも、釣りも、犬も、さらには国家も、私はそれを愛する事を否定するものではない。この世において愛とは、著しく無根拠かつ無責任なものであって、そして無根拠無責任な無主物とはいうものの、激烈な反作用を有しており、その反作用に対し極限までの留意を高めよと表しているのだ。音楽を愛する者は、ミケランジェリの演奏が騒音にしか聞こえない者に詫びなければいけない。スポーツを愛する者は、スポーツを愛すれば愛するほど己が低能化してゆく事を自覚し、それを食い止める行為も同時に遂行しなければならない。釣りを愛する者は、自らの行いを強引に正当化することなく、人間の精神の深奥に潜む極めて無慈悲な残忍性を率直に認めなければならない。犬を愛する者は、動物の自由を強奪、拘束し、己の偏愛を一方的に押付けるという醜いエゴイストであることを猛省しつつ犬を飼わなければいけない。国を愛する者は、その愛国心と同量の敵を生み出している事実を鑑みることが責務ではないか。そして実は、愛によって解決可能なものなどこの世に殆ど存在しない。私は愛というものについて、人間が解決しえぬ事実を、また自己にとって甚だ都合の悪い真実を覆い隠す、安手のカツラのようにしか思えないのである。

 

 

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