2011年12月

均質化なる戦慄

若者の自動車離れとやらが叫ばれて久しい。確かに、若年層の著しい低所得化が加速度的に進みつつある現在、自動車にまつわる維持費は重い負担であることは間違い無いだろうし、それがその一因であると言えない事も無い。しかし、私の身近に居る若者達を観ていると、携帯やパソコンといった、私が若い頃には考えられなかった生活コストを支払いながらも、本当に欲しいものはきちんと購入している。それがたとえ奢侈品であっても頑張って購うのである。であるなら、若者の自動車離れの主たる要因は経済的事情だけでは無い筈だ。その主たる要因を端的に述べれば、それは自動車という工業製品のコモディティ化に他ならない。コモディティ化の意味について存知しない読者の為、以下にウィキペデイアから引用しておく。『コモディティ(英:commodity)化は、市場に流通している商品がメーカーごとの個性を失い、消費者にとっては何処のメーカーの品を購入しても大差ない状態のことである。なお英語の「commodity」は日用品程度の意味しかない。これらには、幾つかの要因(後述)があるが、消費者にとっては商品選択の基準が販売価格(市場価格)の違いしかないことから市場原理の常としてメーカー側は「より安い商品」を投入するしかなくなり、結果的にそれら製品カテゴリーに属する製品の値段が安くなる傾向があり、反面企業にしてみれば価格競争で安く商品を提供せざるを得ず、結果的に儲け幅(商品として扱ううまみ)が減ることもあり、企業収益を圧迫する傾向がある。こういったコモディティ化回避の企業戦略としては、付加価値の付与による多機能化など差別化戦略がある訳だが、過剰に機能を追加しても過剰性能で消費者にアピールできない場合もあり、ブランドイメージ戦略も各々のメーカーが同程度の力を注いでいる場合は並列化するまでの時間稼ぎにしかならず、差別化戦略にも限界が存在する』ということである。「最近の車って家電製品みたいだね」と言われるのは、まさにこのコモディティ化そのものを指しているのだ。コモディティ化は、コモディティ(日用品)という言葉が示す通り、単価の安い使い捨て商品から始まる。それが、耐久消費財である自動車にまで波及してきた現状は何を意味するのか。それは究極、或いは極限まで荒みきり、その獰猛性を裸出した凄惨な資本主義社会の到来を告げているのである。たとえば貴方が小型自動車を購入する場合、ビッツであろうとフィットであろうとパッソであろうとスウィフトであろうと、結局のところ自動車のとしての性能差は、取るに足らない程度の些細なものであるわけだから、その選択基準は、色や内装そして価格といった、自動車たる機械の本質とはおよそ懸け離れた要素に収斂して行かざるを得ない。車好きの視点で見れば、これら大衆車にも僅かな差異、優劣はあろう。しかし、そんな瑣末な違いは一般の者にとってはどうでもいい事であり、選択基準足り得ない。そんな些少なことはどうでもいいから一万円でも安くしてくれ、というわけである。一見コモディティ化とは無縁に見える高級車も例外ではない。私があらゆる現行モデルの中で、その造り、性能、質感の何れをとってもこれは間違いなく本物の高級車だと認めるのは、トヨタのセンチュリーのみである。センチュリーの他は、それが如何に高額の超高級スポーツカーであってもコモディティ化している。フェラーリの現行モデルなど、我々プロの職人が見れば、呆れるばかりの粗雑な造り、構造の部位が数限りなくある。現在のフェラーリは既に単なるブランドになりさがっており、フェラーリの現行モデルの購買層は自動車を買っているのではなく、フェラーリというブランドに大枚をはたいているに過ぎない。フェラーリモデナは、フェラーリのエンブレムが貼り付いているから、フェラーリなのであって、モデナにダイハツのエンブレムが貼り付いていたら絶対に許せないのだ。馬鹿馬鹿しいとしか言いようが無い。だた、引用したウィキペディアの説明にも記述があるように、このブランド、ブランディングという抗コモディティ化とも思える泡銭を産むビジネス手法も、実はコモディティ化の大波に飲み込まれてしまうのである。コモディティ化してしまった自動車は、個性が無く、魅力が無く、面白くない。それは言ってみれば石鹸やトイレットペーパーと同質の商品になってしまった事であり、手が洗えて尻が拭ければそれで良いということなのである。而して、真の車好きは魅力溢れるビンテージカーに走る。ビンテージカーの、あの工芸品とも言える凝った造りの部品群。そしてその部品を瞼に映し、指先で触れるたびに、それを拵えた職人の矜持を感じる愉しみ。更には、時間という厳しい試練に耐え忍び、生き残ってきた本物だけが持ちうるその圧倒的な存在感に、敬意にも似た感情を覚えるのだ。これは決して安直な懐古趣味ではあり得ず、現状に対するアンチテーゼとして心中に存し、カタルシスとして作用するものなのである。コモディティ化は自動車業界より遥か以前から、食品、外食産業で始まっていた。牛丼、ファミレス、居酒屋といった外食チェーンにおいて日々繰り返されている激烈な価格の叩き合いを目の当たりにすれば納得できよう。何処の外食チェーンに行っても出てくる料理は化学調味料塗れの冷凍食品ばかり。客もそれを百も承知で行くわけであるから、安いに越したことは無い。もう既に外食チェーンという存在は、酒や料理を提供することが主なる業務ではなく、その本質は単に場所を提供することに変質しているのだ。これは、ペットボトルビジネスと同位である。ペットボトル飲料は、実は中身である飲料を売りたいわけでは全く無く、あれはペットボトルを買ってもらいたいだけなのだ。ただ、空のペットボトルを買ってくれる客はいないであろうから、仕方なく何らかの飲料を入れる。少しでもペットボトルが売れるように中身を工夫する。そういうビジネスである。外食チェーンも全く同様になっている。衣料品業界のコモディティ化も激しい。今や高級ブランドの衣料品でさえ、その殆どが中国製だ。コモディティ化が進んだ結果、ブルックスブラザースのポロシャツとユニクロのポロシャツの品質は全く変わらなくなった。むしろユニクロの方が明らかに品質が良い物さえある。数年前、私が、ある知人からプレゼントされたブルックスブラザースのレザーグローブはイタリア製であったが、一ヶ月で破けた。流石イタリア製だと一笑に付したが、その後、別の知人から頂いたユニクロのグローブは数年の時を経てもなんとも無い。要するに、現在のブルックスブラザースは、コモディティ化にすら付いて行けなくなっているのである。コモディティ化の波は、恐ろしいことに人間そのものまでも飲み込もうとしている。いや、既に飲み込まれてしまっていると言ってもいいだろう。現代社会においては、就職や経済的将来性という視座で見れば、大学を卒業することに意味が無くなりつつある。もう少し精確に述べれば、東大、京大、慶応(経済)、早稲田(政経、理工)以外の大学を卒業しても就職に有利性が発することは殆ど無い。何故なら、労働者の労働力のコモディティ化が進んでしまった結果、極めて単純化して言えば、中途半端な能力の労働者は、企業から全く必要とされなくなったのである。苛烈を極める現在の市場競争の中で足掻く企業には新入社員を丁寧に教育し育てる時間的、コスト的有余は無い。企業が欲しいのは即戦力のみだ。組織体系もどんどん変わっている。自社商品がコモディティ化している企業は従来型のヒエラルキーを保つことは出来ない。前述した東大、京大、慶応、早稲田、などを出た小数のエリートが頭脳となり、それ以下の全ての労働者はマニュアル化された、いわば誰でも出来る単純労働に従じるというひょうたん型の組織体系をなす。なんの技術も身に付かない単純労働を続けていても、収入は一向に上がらず、年齢だけを重ねてゆく。就職の際に少しでも有利になればと考えて頑張ったTOEICも全くの無意味だ。日本人より低賃金で働く英語ぺらぺらの中国人は無尽蔵に居る。そう、労働力のコモディティ化により、名の通った企業でも外国人との就職戦争が始まっている。このままであれば、人間の生活全てがコモディティ化される日もそう遠くはないだろう。ホンの一部のエリートを除く全ての人が、朝起きると山崎パンを食べ、ユニクロの服を着て仕事に出掛ける。誰でも出来る単純労働をし、吉野家に行列して昼食の牛丼を食べる。午後も単純労働を繰り返し、帰路の途中コンビニで弁当を買って夕食とする。発泡酒を片手に「家政婦のミタ」を観る。仕事の後、たまに同僚と呑みに行くのは人数が多ければ和民、少数であればお疲れ様セット1000円の立ち飲み屋と決まっている。これが一億総コモディティ化である。既にそうなっているではないか、という声が聞こえてきそうだ。その通り、日本はそうなっている。後はどれだけコモディティ化人が増えるかだけの問題である。人間がコモディティ化し均質化することはなんたる恐怖であろうか。人間のコモディティ化から逃れるには、中国製品を買わないこと、コモディティ商品を生産している企業に就職しないこと、牛丼を食べないこと、ペットボトル飲料を買わないこと、テレビを見ないこと、新聞を読まないことから始めるのがよかろう。こんなことを言うと、「え、なんで?ユニクロの服いいじゃん、吉野家だって旨いじゃん、コンビニだって便利だよ、家政婦のミタなんて凄く面白かったよ」という反駁があろう。この反駁に、私は返す言葉を知らない。宛がい扶持の低劣な幸福感に甘んじ,それを十全としている人間に、どんなに大きな姿見を与えようが、己の醜行は映らないのだ。

悪事無くして事業は拡大ならず

連年招待状を拝戴しながら、一度も会場に足を運んだ事が無い催事がある。東京モーターショーだ。もとより、祭りや催事を厭悪している私ではあるが、それに加えて、新しいものに全く興味が無いということも大きな因由と言える。20年程前からであろうか、自動車であれ他の工業製品であれ、大規模製造業に属する大企業が生産する製品の殆どは、多大な社会的責任を負う大企業にあるまじき、「ただ売れれば良い」 「ただ儲かれば良い」という近視眼的営利に溺没した土左衛門の如きものばかりで、露ほどの魅力も感ずることはない。至当であろう。現在の大メーカーは、自らが世に送り出した製品を消費者に末永く大切に使ってもらうという、モノ造りに携わる者が本来持って然るべき精神を完全に消滅せしめている。大メーカーは、消費者に新製品を購わせ、あとは如何に早く廃棄させ、買い替えサイクルを短縮させるかに悪知恵を絞るばかりだ。こんなことでは製造現場で腕を揮う職人の矜持など保てるはずも無く、企画立案者にしても己の生み出した製品に営利以外の意義素を見出すことすら困難であろう。それもこれも、グローバリゼーションなる似非看板を背負ってはいるが、その正体は他者利益強奪型アメリカナイゼーションの根幹である市場原理主義とやらの所行に他ならない。工業製品だけではない。外食産業界のとある経営者は、「美味しいものが売れるのではない。売れるものが美味しいのだ」と全く悪びれる様子も無く言い放ったそうな。なるほど、この経営者に代表される、自職に関する倫理観や自負心を微塵も持ち合わせていないような人物が蔓延る現実を直視すれば、本当に良い車、永きに亘って多くの人に愛される魅力的な車など出来よう筈もないことが容易に理解できるのではなかろうか。ある自動車メーカーは、下請け業者に極限までのコストカットを求め、限界を超えた納入価格を強要する。下請け企業の社長は悩み苦しんだ挙句、自尽して果てる。メーカーの担当者は、下請け社長の失命を前にしても眉毛一つ動かすことも無く、代わりの下請け業者に仕事を移すのみである。結果、メーカーの内部留保は膨張を続ける。人命を犠牲にしてでもコストカットを要求する、その鉄面皮とも言える飽くなき営利追及は留まる所を知らない。いかに法律的には合法組織であっても、この様な大企業の横暴野蛮極まりない振る舞いはマフィアと同断だろう。現代では当然のビジネス手法となっているが、後進国との通貨格差を奇貨として悪用する海外生産の実態も凄まじいものだ。驚くなかれ、スニーカーブランドのナイキが生産委託するインドネシア工場における末端労働者の日収は1.25ドル(なんと約100円!)である。いくら後進国といえども、日給100円とは信じられようか。まともな労働法も整備されていない後進国に、市場原理主義に毒された先進国大企業が進出すれば、こうなるのは当然の帰結ではないか。有力企業の海外進出は現地の雇用創出の源泉であるなどと尤もらしい事が言われるが、そんなものは見え透いた口実であり、その実態は奴隷労働の温床なのだ。昔から、東京のカフェでコーヒーを一杯飲むとブラジルのコーヒー農園で働く奴隷が一人増えると言われてきた。まさに現代は、この悪しき産業構造が全世界的に波及し、なおかつ正当化されてしまったのである。東京でナイキのスニーカーを一足買えば、少なく見積もってもインドネシアの奴隷労働者が3人は増えるだろう。中国製の服を買えば中国人奴隷労働者が一人増えるだろう。ベトナムでタイでインドでカンボジアで全く同様の事態が広がりつつある現実を正視すべきだ。しかし、こういったマフィア大企業商法にもどうすることも出来ない欠点がある。それは前述した様に、出来上がった製品にモノとしての魅力が全く無いのである。マーケットリサーチを最重視し、必要以上に消費者の顔色を窺い、媚び諂って造られた現行車は、開発者が懸命に熱弁を振るおうと、私の目にはユニクロの商品と同程度にしか映らない。そんなユニクロレベルの安物を並べ立てているだけの東京モーターショーなど誰が行くものか。いや、高級車も並んでいるではないか、と言われる向きもあろう。黙りなさい、私はプロなんである。時価数千万円のイタリア製スーパーカーの作りや精度が国産の軽自動車以下であることも、一千万円オーバーの国産高級車ブランドが、実は100万円台の大衆車用部品を多数流用していることも知っている。東京モーターショーの「公称」観客動員数は、自動車各社と電通の担当者が東奔西走し、死に物狂いでタダ券をバラマキまくって作り上げられた数字であって、自らチケットを購買し、自発的に来場している者など、タダ券を入手する術を知らないホンの一部のニューモデルマニアにすぎないのである。更に、私があの手のモーターショーで吐き気を催すほど嫌忌するのは、イベントコンパニオンと呼ぶのだろうか、あの毎度おなじみの、女を侍らすという前時代的で品性下劣な演出だ。何故モーターショーに女を侍らす必要があるのか。何故展示車に女をしな垂れかからせる必要があるのか。しかもそのコンパニオンとやらは、今にもパンツが見えそうな短いスカートを穿き、新大久保の立ちんぼの様な、性根が腐り、堕ち切った視線を観客に送る。バカじゃないだろうか。催事では、とにかく肌を露出させた若い女を侍らせば、場が華やかになるという猥褻で下品で貧困な発想から抜け出せないのだ。結局、自動車メーカー幹部の品性やメンタリティは未だにこの程度の、時代錯誤も甚だしい低次元で下賤なものでしかない。そんなに女が好きならば、今すぐにキャバクラか淫売屋でも行けばよいではないか。まさに閉口頓首、辟易とする。私がこんなことを言うと、「もしかして、、、、、」と良からぬ事を考える者もあろうが、私は断じてホモではない。オカマバーは好きであるが断じてホモではない。ノンケである。何故私はオカマバーが好きなのか。それは、オカマは知的水準が高いからである。オカマバーに行ったことがない者は知る由も無いだろうが、彼ら社会的マイノリティーの思考は深い。被抑圧者特有の鋭敏な視座、思考の深さとインテリジェンスを併せ持ち、しかも決して卑屈になることなく、あらゆる悲哀を発笑に転換する機知に富んだ切り返しを身に付けている。オカマ話芸の意外な切り口と、辛辣さと口の悪さは、この私と互角に渡り合うレベルのものであり、とどめに、日陰者ならではの妙な迫力を伴う説得力も持ち合わせている。私は鋭利な刃物を更に研ぐが如く、即時的論理構築能力を鍛えんが為にオカマバーに通うのである。さて本題に戻るが、自動車メーカーは「若者の自動車離れ」などと見当外れな事を言って嘆いているが、現実を知らないバカの極みである。クルマが大好きな若者はまだまだ沢山いる。メーカーがつまらぬクルマばかり造るから、現行車に興味が失せているだけだ。トヨタが「86」というネーミングでFRのニューモデルを出すそうである。過去の名車のネーミングを再利用するようでは、既にトヨタの発想力が硬直化し、腐乱ていることを臆面も無く晒しているのと同篇と言えよう。水面に屍が浮いてもコストカットの手を緩めない様なマフィアの如く冷酷非情な組織に、客が心から満足するようなクルマを造ることは絶対に出来ない。東京モーターショーなどという馬鹿げた下らぬ、女侍らし系お祭り騒ぎを何度繰り返そうが、棄擲してしまった、モノづくりの原点に立ち返るという可逆反応は、もはや永遠に観られないであろう。さあ、そろそろ私も終業時刻が近付いてきました。今宵は行きつけの洋食屋で腹を満たした後、オカマの鈴香ママに論戦を挑む所存です。激しい夜になりそうです。

 

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