2011年06月

盲従する衆庶

この場で何度か触れているが、私はテレビ、新聞、雑誌といったマスメディアを全く信用していないし殆ど無視している。ラジオは日常的に聴いているが、道路交通情報と時計代わりに流しているだけである。広告収入に依存したマスメディアが垂れ流す情報の欺瞞性、悪質性を裏の裏まで知り尽くしているからだ。広告主が支払う広告料の正体が口止め料である事は暗黙の了解かつ万人周知の事実と言って差し支えないだろう。この腐敗しきったメディアの構造は今に始まった事ではない。政治と金の関係と同じように、マスメディアと広告料(金)の構造関係は、始めからそうなる事が決定づけられているものなのだ。その似非隠蔽改竄捏造情報製造企業が世論誘導を目的として流す情報を額面通りに信じている人々の多さに、私は何時も驚き、また呆れるのである。まあ、そんな私でも一応健全な社会生活を送っている訳であるから一歩外に出れば、あらゆる場所でマスメディアが吐き出すガセ情報を否応無しに耳にする。さあ皆さん!節電だそうである。バカも休み休み言えと言いたいところだが、政府と電力会社が必死になって流布する電力不足情報を大多数の国民が信じている事に、またまた私は驚いてしまう。結論から申し上げよう。今も昔も、電力各社が公表する電力の需給データは恣意的に改竄捏造された全て完全な嘘データであり、例年通りに電気を使っても、今夏に電力不足など絶対におきない。もしおきるとすれば、震災後数回に亘って関東地方において強行された計画停電(このヤラセ計画停電については、本稿で後述する)がそうだったように、それは電力会社と政府によるヤラセ電力不足だ。当たり前である。そもそも日本に原発など一基も無くても電力供給に全く問題は無く、電力は十分に供給できるからだ。此の事は専門家であれば誰でも知っている公然の秘密だ。何故日本に原発が導入されたかについては、また別の機会に述べるとして、電力会社と政府が徒党を組み、見え見えの電力不足ドラマを演ずる理由は明らかだ。東電及び政府は、福島第一原発が壊滅した以上、電力不足が起きないと非常に困るのである。原発が事故で止まっても何の問題も起きないとなると、今まで嘘に嘘を塗り固めて国民に刷り込んできた原発の枢要性が土台から崩壊してしまう。それだけは何としても食い止めたい。であるから電力各社は、一致団結し総力を挙げて電力不足劇場を開き、厚顔無恥な電力不足猿芝居を演じるのだ。それが全くの嘘、デタラメの茶番劇である事が一部の国民にバレていても、「原発が事故で止まっても電力不足は起らなかった」という事実を認める事は絶対に出来ないし、それを歴史に刻む訳にはいかない。いくら見え見えでも、明らかにバレバレでも狂ったように電力不足音頭を踊り続ける。人間の良心や倫理観、道徳心や自尊心といったものが完全に欠落した鬼畜にも劣る行為である。先述した震災数日後に強行された空々しい計画停電も噴飯ものだった。しかし同時に、国や大企業が己の組織防衛の為であれば手段を選ばないというマキアベリズムに支配されている事を再認識した。3.11の震災当日、私の仕事場もまるで何かに弄ばれているように揺れたが、全く以て停電にならなかった。揺れが収まった後は、何時も通り平然と滞り無く定時まで仕事をして帰ったのである。この時既に福島第一原発の全原子炉は、壊滅的な状態で発電不能だった筈だ。にもかかわらず停電は一切発生しなかった。数日経って、東電は思い出したようにわざとらしいヤラセ計画停電を遂行した。震災直後の対応に追われ、原発事故の情報収集に手間取り、ヤラセ計画停電劇場を開くのが遅れてしまったのだ。東電は迂闊だった。地震と同時に即停電にするべきだった。そうしていればヤラセ計画停電の信憑性もある程度保たれただろう。しかしモタモタしているうちにタイミングを逸し、誰が見てもおかしなタイミングでヤラセ計画停電をせざるを得ない状況に追い込まれてしまった。東電は詐欺師としてはまあまあだったが、役者としては三流だったのだ。震災当日の大混乱も含めて、その後暫くの間のJR東日本の対応も三文芝居のようだった。地震によって影響を受けたと思われる線路設備等の安全確認が済めば、すぐにでも電車を走らせる事が出来た筈だ。何故なら、JR東日本は原発で作られた電気を一切使用していないし、仮に何らかの事情で電力供給が途絶えたとしても、完璧とも言える自家発電システムを保有しているからである。JR東日本は電車を走らせたかった。困り果てている客を一人でも多く運びたかった。しかしそれは出来なかった。言うまでもないだろう。電車を走らせようとするJR東日本に対し、政府と東電から凄まじい圧力がかかったのである。ここまで説明すれば判って頂けたのではないだろうか。今、節電に協力するという事は、監督東電、演出政府によるヤラセ電力不足劇場に加担するという事であり、犯罪的ですらある。読者諸賢!何の心配もありません!原発が止まっていても電力供給は十分に足りています!節電など一切せず、例年通りふんだんに電気を使い、先進国ならではの快適な夏を過ごしましょう!私も例年通り、エアコンの設定温度を18℃にして過酷な夏を乗り切る所存です。仕事場のスポットクーラーも常に最強でつけっぱなしにしようと思います!そして政府と東電が繰り広げる電力不足節電キャンペーンが、インチキ、デタラメ、ヤラセである事を白日の下にさらしましょう!先進国とは名ばかりの、国家と企業が結託して国民を欺き続ける社会に生きている事が、私は本当に悲しい。悲しくて惨めでどうにもなりません。読者諸賢も悲しくありませんか。あまりにも悲しいので私は今、呑み屋に予約の電話を入れました。今日は小鯛とシマ鯵のとびきり良い奴が入っているそうです。ウシシ。悲しい悲しい。左様なら。

日出づる国欺瞞に満たされり

「被災された皆様を心より御見舞い申し上げます」とか「お亡くなりになられた方々に慎んで御悔み申し上げます」などという軽薄かつ安直で不真面目で、人心絶無な定型文を、これ当然とばかり平然と吐きだす企業や個人に、私は喩えようの無い憤怒を覚える。私は今回の震災に関してこの場で言及するつもりはさらさらなかったのであるが斯くの如き非人間的な定型句を無意識に発する愚か者があまりに多い為、ここで怒りを爆発させる事にした。果たして、これ程までに相手を侮蔑する欺瞞に満ちた言葉がこの世にあるだろうか。誰かが死ぬと、すかさず馬鹿の一つ憶えの如く「御冥福を御祈り致します」(これは故人の宗教を確認してからでなければ、絶対に言ってはならない言葉である)と言うノータリンが多いが、これも全く以て同類の、正視に堪えぬ吐瀉物の様な賤句である。こんな糞尿の並みの定型句を言う事で、言われた相手が喜ぶとでも思っているのだろうか。私のこの批判に対し、「こういう言葉は単なる挨拶の様な定型句だから、そもそもあまり意味は無いものだし、そんなことをいちいち気にする方がおかしい」という声が今にも聞こえてきそうだが、こういったまるで養殖動物の様な隷属的思考回路に陥った反論を私は相手にするつもりは無い。これら、又はこれらに類する定型卑句を軽はずみに発する者ほど、実は被災者や死亡者の事など何とも思っていないのである。そして、何の心配もしていないが、とりあえず何か言わないと対外的に体面を保てない為、さも心配そうに「心より云々、慎んで云々」とほざくのだ。「本当は、こんなこと別に何とも思ってないし、どうでもいいんだけど、なんか言っとかないと体裁が悪いからさ、一応言っただけなんだよな。へへへ」と言う訳である。なんと安っぽい、低次元のいやらしい自己保身的言動だろうか。私はこれを指弾しているのだ。今回の震災を見て何とも思わないのであれば、何も言わなければ良い。何も感じなければ知らんぷりしていれば良い。そしてそれは悪い事でも何でもない。人の感受性は常に人それぞれであり、如何に危機的な状況に直面しても、それを外圧によって一つの基準に統一しようとする事は絶対に許されないし、あってはならない。心配する人は好い人で、心配しない人は悪い人、というカルト的二元論に迷い込むのは、近代社会において最も危険な大衆心理とさえ言える。人間は、皆がマザーテレサにはなれない。敢えて言えば、マザーテレサの博愛主義的慈善活動がホントのホントのホントに彼女の慈悲心によって突き動かされたものであったとしても、その慈悲心は、人間の最も醜い自己愛の変成物であると断ぜざるを得ない。であるから、津波に呑まれる街の映像を見て何も感じず、何とも思わない人は、それについて他者から問われても正々堂々と胸を張って「私は何とも思いませんし、私には関係ありませんね」と言えばいいのである。大して心配もしていないのに、被災者を按ずるような言句を発する者の方が余程品性下劣である事は間違いない。たとえ相手を傷つけようとも自分の心情を正路に相手に伝えようとする真摯な姿勢こそが人間として根源的に崇高で典雅な振る舞いなのだ。今回の震災は私の死生観を根底から覆す程の衝撃であった。津波に襲われ、全てを奪われた被災地の土埃の中に立った時、気が小さい私は膝の震えが止まらなかった。しかし帰京すれば、何時もの様に夜な夜な竹露を舐める日々を過ごしているのである。脆弱で矮小で小賢しい私の精神は、被災地の事を継続して考え続ける事に辛すぎて耐えられない。あれほどの惨状を目の当たりにしながら己の生活を優先してしまう。我ながら内心忸怩たるものがあるが、事実だから仕方が無い。私もファザーテレサにはなれなかった。そして、被災地に立って筆舌に尽くしがたい衝撃を受けた私でも、未だに無辜の人々が日々虫けらの様に殺され続けているイラクやアフガニスタンのニュースを聞いても、中国によるチベット弾圧を知っても、「本当に理不尽だなあ」と思う程度であって痛痒は感じないのだ。所詮私のヒューマニズムなどこんなものなのである。それでも、私は前述した賤しい定型句を口にするような下品な人間ではない。低劣な定型句を連発する者が多いのは、既に述べた理由の他にもう一つある。それは、自分の頭でしっかりものを考えていないと言う事だ。傷ついた人には、とりあえず「心より御見舞い云々」、死んだ人にはとりあえず「慎んで御悔み云々」と何も考えず自動的に言っているだけなのである。賤しくも人間であるなら言葉を発する時はせめて自らの脳でしっかり考えるべきではないだろうか。こんな上滑りな言葉が埃の様に舞う世の中に、私は言い知れぬ倦怠感を覚える。現代に生きる者は私も含めて、国家に属し、会社に属し、家庭に属し、地域に属している。一見この複雑で豊かに見える構造そのものが、実は個人の主体性を極限まで減退させ、著しく抑圧しているのだ。言いたい事も言えず、正しい事を正しいとも言えず、離婚したくても出来ず、間違いを指摘して正す事も出来ない。こういった環境に長期間身を置いていれば自ずと人間は、金儲け以外の事を自分の頭で考えなくなる。国家権力の思う壺だ。国家にとって一番都合のよい人間とは余計な事は何も考えず、一心不乱に金儲けに専念し、一銭でも多くの税金を大人しく納める人なのである。とどのつまり、金儲けに夢中になっている者は、国家教育が最も上手くいった優秀な奴隷に他ならない。自分の置かれている社会状況を深く真剣に考えない者は権力の走狗、或いは家畜にに成り下がるのみだ。無思考的定型文が蔓延る社会は、主体性剥奪型無思考社会に直結する。そしてこの国は既に見事なまでにそうなってしまっている。今や日本中に降り注いでいる放射性物質が、その何よりの証左ではないか。国民が主体性を失った社会は、畢竟このお粗末なザマとなる。身を挺して反原発運動に携わってきた人々は憤死せんばかりの怒りに打ち震えていることだろう。アメリカの恫喝に怯んだ正力松太郎を始めとするこの国の原発政策にかかわった者全て、そしてこの事故を引き起こした当事者である東電の勝俣、清水の罪万死に値す、と断じておこう。

紫煙の行方

こんな私でも実は意外と多忙な日々を送っています。仕事、酒、酒、仕事、酒、酒、酒と言うように繁劇を極めているのです。しかしながら、こうも極度に定型化された生活を執拗に反復していると、自らの脳細胞が逓減しているのではないかとの懸念を抱き、さてどうしたものかと思い悩むのもまた事実である。一方で、思い悩む事そのものが思考を深化させ、脳細胞の弱体化を食い止め、むしろ脳細胞の活性化を促進しているのだという甚だ姑息で狡猾な結論を導き出すのも私の得意技だ。このインチキパラドクス的手法を用いれば、大抵の事は表面上ではあるが正当化する事が可能となる。と言う事で更に酒を呑むのです。さて、話は変わって私は愛煙家であります。頃来の嫌煙ブームを、冷笑を以て睥睨しているが、この極めて馬鹿げた嫌煙ブームを例に挙げ、如何に世の人々が何の根拠もない風説に翻弄されているかという事を明らかにしてゆきたいと思う。誤解を避けるために留意されたい点がある。私は、煙草の煙や臭いを生理的に厭嫌する人に全く同意であるし何ら異存はない。それは私が女性の香水の匂いや、親父の整髪料の匂いや、呑み屋でバカ騒ぎする戯け者を極度に嫌うのと同列であり人間として当然の反応である。然るに、例えば呑み屋で隣客の麗しき女性(大原麗子似)に「御今晩は。わたくし煙草の煙の臭いがたいそう苦手ですの。出来れば控えて頂けませんこと」などと言われれば「ははっ。これは気が付きませんで甚だ失敬致しました。今を以て、貴姉の面前でケムを出すは某の心ノ臓が果てるまで必定禁制とするを御誓い申し上げます」と詫びを入れバケツで水を掛けて煙草を消すでしょう。しかししかし、これが香水臭い醜女(もたいまさこ似)で、「ちょっと!タバコの煙がアタシの方に流れて来るんだけど!迷惑だから止めてくんない!」とでもほざこうものなら「なにぃ!このヒョットコ面のお多福ババァ!てめぇの香水こそ、べったら漬けよりくせぇじゃねえか!クサヤの方がまだましだ!てめぇなんざ芳香剤代わりに雪隠にぶら下がってろ!」ってな具合にカウンターを食らわし、フィデルカストロ御用達コイーバを一度に10本吹かして店内を煙で充満させてやります。この2例の様なやりとりは、お互いの心情を主張した結果の譲歩、あるいは対立であり、人間の行動としては極めて健全で至当な反応だ。この場合の争点は、煙草に対する好悪、香水に対する好悪のみであるからして甚だ簡素で爽やかでさえある。こういった感情の対立を言語でぶつけ合う事こそが実は真物の対話であることは間違いないし、たとえイガミあっていても、私は好感がもてるのである。すなわち、好きか嫌いかで自らの主張を激しく繰り広げる人は、人間の行動原理に照らせば何処まで行っても正しいし、私はそういう人が間接的(直接的には関わりあいたくないが)に好きなのである。他方で、惨毒な問題を孕んでいるのが、「体に悪いから煙草はやめたほうが良いよ」とか「受動喫煙による健康被害を受けたくないから側で煙草を吸わないでくれ」などと言う人達だ。私は斯様な人々をつくづく心の底から、実に哀れでバカな人々だと思う。地球上のあらゆる生物は、生まれた瞬間から死に向かって猛進しており、生きている事自体が体に悪いのだ。これを聞いてくだらぬ屁理屈だと感じる読者は、私がこの場で折に触れて述べている様に、自らの脳を使い物事を判断する事を諦めた思考停止者である。広告収入に依存した詐欺メディアと御用学者が垂れ流す受動喫煙云々説を無批判に盲信する低偏差値型嫌煙論者にズバシ申し上げよう。感染症を除く病気の疾病原因を特定する事は絶対に出来ない。これは原理的に不可能なのである。地球上の生物、就中人間は高度に発達し複雑化した生活を送っている為、その疾病原因はあらゆる不確定要素が混交し、特定することなど益々にして永久に不可能なのだ。如何に学者が死に物狂いで研究しようとも、その結論は「もしかすると、煙草を吸うと肺癌になるかも知れないとも言えない事もないと考えられないとは言えない」という程度のものしか導けない。残念ではあるが、この悲しき現実は工学系以外の全ての学問に通底する原理なのである。最近やたらと流行りの坂本竜馬など、私の目には野卑で粗暴な山出し者が粋がっているだけの、肥溜め臭い田舎侍としか映らないが、その昔この肥溜め田舎侍が具体的に何をしたのかという事は、本人に聞いてみなければ精確な事実は証明出来ない。歴史学者が声を張り上げて自説を主張しても、それは残存する資料(その資料でさえ確実に本物であるという事は絶対に証明出来ない)を基にその学者が練り上げた仮説と言う名の淡い予測に過ぎないのである。昔々、コーヒーを一日何杯以上飲むと胃癌になるとか、コカコーラを飲むと骨が溶けるとか、座りっぱなしの職業の人はイボ痔になるとか、読者諸賢も聞いた事があるのではないだろうか。これらは全て当時の学者、研究者が言い放った言説であるが、今ではその全てがデタラメである事が証明されている。その他にも、犬を始めとする夜行性動物は色盲であると永い間信じられてきたが、よくよく調べてみると犬はしっかりと色を識別している事が判明した。絶対に安全だ安全だと言われ続けてきたこの国の原発がどういう事になったか、もはや説明の必要は無いだろう。一見厳密に見える学問の世界も実はこの程度のいい加減なものなのである。では何故こういったあくまで予測の範疇でしかない不安定な仮説がいつの間にか、或いは突如として定説化するのか。それは偏に、学者、研究者の賤しい功名心が原因だ。学問とは実に厳しくなかなか結果の出ないものである。殆どの学者の生涯は、先人の遺した基礎研究の上に、自分が心血を注いで調べ上げた研究データを積み上げるだけで、目立った成果もあげられずに終わる。本来如何にも、学問とは辛く厳しいものなのである。この苛虐な現実に耐えきれなくなった目立ちたがり屋の学者、研究室よりもテレビ局が好きな研究者は、自らの研究成果が不確かで疑わしい事を自覚しつつも、己の永年の研究がなかなか実を結ばないという焦燥感に苛まれ、あたかもそれが定説であるかの如く世に発表し、大ボラを吹いてしまう。そして無批判な大衆は、その仮説と言う名の予測を定説として信じ込んでしまうのだ。現代社会で其処此処に散見されるこの勘違い企業代表電通型アプローチによる連鎖反応に見事に合致するのが、煙草有害嫌煙論と言える。煙草有害論の草分けであり大家でもあるリチャードドールは嘗て「煙草を吸うと寿命が10年縮まる」と大見得を切った。天下のリチャードドールにあるまじき粗雑なこの放言を聞いた時、私はリチャードドールでさえ、やはり「学者の勇み足」という粗相をしてしまう事に、人間という生き物の愚かさを垣間見た気がした。こんなバカげた主張はなんの疫学知識も持たない私でも一瞬で論破出来る。読者諸賢であれば既にお分かりかと思うが一応説明しよう。例えば、私があと何年生きられるかは、絶対に誰にも判らない。自分でも判らない。今晩人形町通りでタクシーに轢かれて死ぬかもしれないし、三年後に不老不死の薬が発明され百年以上に亘って煙草を吸いながらしつこく生き続けるかもしれない。私の残りの寿命があとどのくらいかも判らないのに、私が愛煙家だからと言って、その判らない寿命がどうして10年短くなると言えるのだろうか。つまりは、寿命が10年短くなるという時間軸の起点がそもそも存在しえないのである。また、日本での煙草有害論の代表的人物であり受動喫煙なるスーパーヒステリックワードを一般化した平山雄による研究は、永年に亘るその研究データが「平山データ」と呼ばれるほどで、日本国内の煙草有害論者の多くが彼のデータを基礎データとして引用している。ところが、此のデータを少し調べてみると、受動喫煙有害論において、煙草の煙が大気によって薄まる希釈率をあからさまに殆ど無視しているのだ。こういったいい加減極まりない流言蜚語にあっさりと騙される社会は本当に憐れだ。「煙草は癌になる」「受動喫煙が怖い」と戦きながら、煙草より遥かに健康を害する食品添加物、化学調味料まみれのファストフードを全面禁煙の店内で我が子に食わせている御母堂の姿はまるで落語そのものである。煙草は、その商品としての性質上、社会に与える経済的影響が低い為に、スケープゴートにされているだけなのだ。まあとにかく皆さん、煙草を吸う私に対して「煙草の臭いが厭だからやめろ!」と言うのは宜しい。その相手によっては即座に火を消すし、お詫びもする。だが「煙草は肺癌になるから」とか「受動喫煙云々」と言う者は断じて排除する。そういう健康大好きヒステリー病に侵された痴人には、雷門二葉のマコガレイの薄造りに添えてある紅葉おろしをたっぷりと鼻の穴に詰めてやるからな!憶えとけよ!二葉の紅葉おろしは滅法辛いんだぞ!ホントだぞ!

 

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