2012年10月

儚き金言

マハトマ ガンジーは、『7つの社会的罪』として、以下の言葉を遺したそうである。1.理念なき政治 2.労働なき富 3.良心なき快楽 4.人格なき学識 5.道徳なき商業 6.人間性なき科学 7.献身なき信仰。ガンジーのような聖人君子に、私は憑信の念を抱く事が出来ない。何故なら、ガンジーとて、やはり結局のところ権力志向特有の怪しさを纏った人間であり、またその怪しさが放つ一種異様な臭気に感応せずにはいられないからだ。しかしながら、そうは言ってもこの7つの言葉を現代社会に当てはめた時、それはもう物の見事に的を射た指摘と言わざるを得ないのではなかろうか。この上なく美しい音楽を奏でる演奏家の心が、必ずしもその音楽と同様に美しいわけではないように、人心を震わせる言詞を紡ぎ出す詩人が、必ずしも人格者ではないように、この7つの至言が、ガンジーのような幾許かの胡乱な芳香を漂わせる人物によるものであってもなんら不思議はなく、それは甘受すべきであろう。これらの金言に一定度の批判を加えつつ、ここに考察してみたい。1.理念なき政治。果たして、人類史上政治に理念なるものがその支柱として屹立していたことがあったか。国家の本質が暴力であることは真理として疑いようもなく、それが指し示す暴力に論理的整合性を持たせんがために、また言い換えれば正当化せんがために国民を欺き、奴隷化、家畜化を図るのが政の役儀であることを率直に認めるのであるならば、この1つ目の指摘はあまりにも至当と言えよう。内閣総理大臣をはじめ、現在の閣僚の面々を思い浮かべるがよい。まともな感性を保った人間が、彼らの醜く歪んだ顔貌、その濁りきった汚らわしい眼球を視界に認めた時、吐き気を催すと共に失笑を禁じえないであろう。政を好んで離合集散を繰り返す者などは、押し並べて人格破綻者としか言いようがなく、その異常人格者の集団に理念を希求することそのものが、甚だしい誤りなのである。よって、ガンジーのこの1つ目の指摘は、社会的罪というより、糞尿にたかる蛆、蝿の所業と断じたい。いや、こう言っては蛆、蝿に失敬か。2.労働なき富。ガンジーの謳うところのそれは、具体的に何を指すのか。究極の不労所得とは、やはり土地所有によって利益を上げる行為であろう。土地という極め付きの有限物質を奪い合い、占有することによって得られる利沢は、たとえそれが一国内の個人のうちに合法的ではあっても、それを巨視化した場合、国家間の土地の奪い合い━領土紛争、侵略、植民地化━と、戦争に直結する本質を根源的に孕んでいる以上、倫理的、健康的とは言えまい。土地であれ何であれ、何物かを占有して利金を手中にせんとする専行は、人間という愚かな生物に普く内在するさもしさを剥き出しにしたものに他ならない。3.良心なき快楽。これはこの7つの格言の中で最も説得力に乏しい。そもそも、良心に満ちた快楽などというものがあるのだろうか。人間が嗜好する如何なる快楽も、それは絶対的に悪を内包する。私が愛して止まない酒、煙草はもとより、美食に溺する快楽、惰眠を貪る快楽、動物を愛する快楽、釣りを愛する快楽、花を愛でる快楽、音楽に酔う快楽、スポーツを愛する快楽、読書を愛する快楽、愛車を疾駆させる快楽、女性(男性)を愛する快楽、更には子供を産み育てる快楽、これら何れにも間違いなく、その細部に悪は宿っているのである。快楽とは、人間のエゴイズムが変容を遂げた一形態であり、良心に満たされた快楽などというものは、人間生活において全く存在し得ない。おそらくガンジーの言わんとするところは、たとえれば「酒も煙草も遊びもほどほどに」といった程度のものなのだろう。しかし冷徹な私は、こういったガンジーの思考の浅さと、哲学的視座の欠落をここに見るのだ。4.人格なき学識。これはガンジーの言葉を待つまでもなく、学識者における人格なぞ遥か昔日に崩壊している。学問と資本主義が昵懇 nononoののnの仲となって以来、人格なるものは学問の世界から、塩を浴びたナメクジの如く消滅せしめたのである。今や学問は殆ど例外なく、産業界への技術転用を目的とした、たんなる技術開発機関としての存在意義しか有しておらず、そこに人格を定置することは不可能に近い。5.道徳なき商業。商いとは、当然私の仕事も含めて元来卑しいものだ。100円で仕入れたものを150円で売り捌くのであるから、如何なる弁明をしようとも、そこに卑しさがつきまとうのは避けられない。もちろんガンジーはその卑しさに気付いていたであろう。であるからこそ、商い特有の卑しさの暴走を抑制せんと道徳の楔を打ち込むことを訴えたのだ。しかしそれも叶わなかった。我々が生活を営む日本社会を省みれば、消費税をびた銭一文納めていないトヨタ(消費税を納めていないのはトヨタだけではないし、それは一応合法である)が日本を代表するお墨付きの優良企業であると胸を張っている。笑止としか言いようがない。道徳や倫理を徹底的に遺棄した制動不能な市場原理主義に抗おうにも、鉄面皮という言葉を投げつけるのがせいぜいなのだろう。6.人間性なき科学。全ての科学技術の源泉は軍事開発でしかない。我々の日常生活における利便性を支える工業技術のもとは、人殺しの技術である。日本における原子力技術開発が、発電を隠れ蓑にした核開発であることが好例として見て取れるように、仮に科学に人間性を感じる事があっても、それは殆どの場合、軍事技術を民間転用したに過ぎないのだ。7.献身なき信仰。私のような折り紙付きの俗物は信仰について語る資格は無い。 以上見てきたように、ガンジーが遺したこの社会的罪という金言に厳然と通底するものがある。それはカネだ。福島第一原子力発電所が爆発したことの原因も、地震ではなく、津波でもなく、その正体はカネである。「カネより大切なものがある」 「世の中カネが全てではない」。こんなありきたりな美辞麗句を並べ立てようとも、残念ながら世の中のほぼ全てのかけがえの無いものが、いつの間にか、我々がうかうかしているうちに、カネというインチキ紙切れにすり替えられてしまった。信用創造という悪辣な詐欺にまんまと引っかかってしまった。ガンジーほどの人物をもってしても、資本主義の暴走を食い止めることは出来なかった。我々は、放射能より遥かに恐ろしいカネに汚染され、カネの奴隷にされてしまったのである。我々は、放射能より、戦争より、天変地異より、カネを恐れ、カネの魔力から遠ざかるべきだったのだ。

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