2013年01月

喜劇王曰く

この場で屡次申し上げているように、累宵の酒場通いは私にとって篤学の頃刻である。独酌を旨とし、酔いに負けじと苦海の万象を掘り下げる。考えて考えて、掘り下げて掘り下げて掘り下げ過ぎてブラジルの地面を突き破って顔を出してしまうのではないかと気を揉むほどだ。大抵の場合、「過去と現在と未来の境目はどこにあるのか」とか、「〔点〕や〔線〕というものは本当に存在するのか」とか、「インコとオウムはどう違うのか」とか、「犬の嗅覚は著しく発達していると言われているが、それならどうして他所の犬のウンコにあれほど鼻を近づけて臭いを嗅ぐのか」とか、「市場原理は本当に良いモノを生むのか」などの普遍的課題について沈思黙考している。そんなことを考えながら夜毎杯を傾けていると、何処の誰かが私の隣に坐すのは尋常だ。或る夜、宮仕えと思しき二人連れが私の隣を占めた。両人どちらも素面には見えず、既に何処かで引っ掛けて来たようだ。が、決して不愉快な客ではなく、適度な声量で会話していた。その座談を聞くでもなく聞かぬでもなく、私がぼんやりと竹露を舐めていると、彼らはそれぞれ熱燗を一つずつ空け、小一時間にてそそくさと店を出た。彼らの次に私の隣に現れたのも二人連れ。一人はやはり背広を着た宮仕えらしき男、一人はバージニアスリムライトにカルティエのライターを近づけ、気だるそうに火を点す水商売風の女。歳の頃なら四十過ぎ、馬喰町辺りのションベンスナックのママといったところか。彼らもまた、私の不興を買うようなこともなく、私も彼らの雑談を聞こえてくるがままにしていた。深夜の呑み屋にありがちなこの士女が引けるとその夜は、しぶとくカウンターにしがみ付く私のみとなった。〆の山葵茶漬けを待っている少時、当夜私の隣で回転したその二組の客の会話を思い返していると、驚愕の事実に気付いたのである。私はそれを確認せんと、その後暫く来る夜も来る夜も様々な隣客の話に耳を澄ました。愚にも付かぬ酔客談義に辟易としながらも、辛抱強く耳をそばだてた。果たして、私の逆賭に狂いは無かった。酒場での客の会話をよくよく聞いてみるとほぼ例外なく、なんとなんと!私の計測で平均して10分に一度は皆カネに纏わる事に言及していたのだ!円ドルレートがどうの株価がこうのといった経済情勢から、あそこの弁当屋は確かに旨いが御代がちと高い、あの野球選手の年俸は幾らだ、あそこであれを買ったら幾ら引いてくれた、給料が上がらない、小遣いが少ない、客単価が落ちた、売り上げが云々、まあホントにカネの話ばかりしているのである。今の今まで気付いていなかったが、これには心底仰天したと同時に、言い知れぬ苦々しさと、どんよりとした虚無感が脳内に充満した。現代を生きる人間の心胸は、これほどまでカネに侵食されてしまっていたのか。私ももはや旧い人間と云われる齢に達したことは否定しない。私は、人前でカネの話をすることは下品下劣で、さもしく賎しい行為だと厳しく断ずる家庭教育を受けた。カネは人間の生活に物質的豊かさを齎すことは間違いないだろう。しかしその一方でカネは、それによって享受した物質的豊かさを遥かに上回る勢いで、人間が長い歴史の中で築き、磨き上げてきた倫理観や道徳心を蝕み、呆気なく崩壊させる恐るべき負の力を帯びている。であるから、必要以上にカネを欲しがらず、必要以上にカネに近付かず、稼いだカネは全てさっさと使ってしまう。それこそが、一人の人間が清廉の士たらんとする鉄則だと、私は双親に口を極めて言われてきた。それがどうであろう、私が縁としてきたものは、ことごとく、徹底的に否定される社会となってしまった。もはや私の様な者は、時代遅れと嘲笑されそうな、その縁に囚われておずおずと生き、じめじめと死んでゆくしか道は残されていないのであろう。かつて、『地獄の沙汰も金次第』という言葉は、懐寂しい庶民が冗談混じりに自嘲の笑いをもらすものであった。それが冗談混じりの自嘲の笑いではなく、額面通りの現実に成り果てたのだ。現在も色褪せぬ魅力を保ち続ける多くの名作を遺した喜劇王チャールズチャップリンは、「人生に必要なものは勇気と想像力、そしてほんの少しの金だ」との名言を吐いた。この言葉に初めて触れた時私は、チャップリンとはなんという嘘つきなんだろうと感じた。今でも彼の子孫が悠々と暮らしてゆけるだけの莫大な資産形成を成し遂げた人物が、のうのうと「ほんの少しの金だ」などと奇麗事、絵空事をよくも言えたものだと憤慨した。しかしその後私は、チャップリンのこの言葉が、彼の心根から生まれた全く正直なものであることに気付き、そして得心したのである。極貧の中に生れ落ちたチャップリンは、その非凡な才能と行動力を武器に、更には奇跡的とも言える幸運も手伝って貧困から自力で這い上がり数多の富を手中に収めた。そしてチャップリンは覚醒したのだ。あれほど欲しかったカネが、貧しかった時にあれほど必要だったカネが、己の眼前に札束になって山と積まれている。その前に立った時、彼はそのカネというモノが、人間性をも殲滅しかねない猛毒であることを悟ったのだ。そして「たくさんはいらない、ほんの少しであれば良い」と言ったのだ。カネは麻薬だ。中毒になってしまえばそこから抜け出すのは容易ではない。今後もこのカネまみれの社会は更に加速するだろう。しかし少なくとも、酒の席でなんら恥じる事も無く恬然とカネの話をするような鉄面皮は、私の目の前から消えて頂きたい。

 

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