正直な人々
私の貧家の周りにあるコンビニの店員は殆どが中国人です。そうだなぁ、数えたわけではないけれど、7割から8割が中国人といった感じです。まぁ、コンビニの店員が日本人だろうと中国人だろうと火星人だろうと北京原人だろうと、そのことそのものについては別に何とも思いません。私が必要な商品を売ってくれればあとはどうでもいい。ただ、中国人コンビニ店員は、おしなべて凄まじく愛想が悪いのです。終始不機嫌な面持ちながらも、「イラサマセ」、「アラタシタ」と言う者はまだましな方で、なかには徹底して無言を貫き、釣銭を投げるようにして客に渡す者までいます。それに比べて日本人店員は愛想が宜しい。どの店員も、ある程度ではあるが、きちんとしています。このような双極的事案を見た場合、読者の皆さんの殆どは、無愛想で投げ遣りで礼を失した中国人コンビニ店員の態度を不愉快でけしからんと感じ、最低限ではあっても一応の礼節を保持している日本人コンビニ店員を好しとするでしょう。しかし、私は違うのです。中国人コンビニ店員の態度の方が好ましく思え、買い物をしていても快適なのです。何故なら、中国人コンビニ店員は、自らの心状に対して正直である事が良く分かるからです。基本的にコンビニ店員は客に釣銭を渡し、「有り難う御座いました」と言います。ですが言うまでもなく、本当に心から感謝の気持ちが湧き出てきて「有り難う御座いました」などと言っている者などいるわけがないでしょう。コンビニ店員は経営者以外皆アルバイトです。経営者であれば兎も角、アルバイト店員が一人一人の客に対していちいち「お買い上げ頂いて有り難い」などと感じるはずはない。彼らアルバイト店員は時給で働いているのですから、客が多かろうが少なかろうが給金は変わりません。永く続けていれば時給は上がるかも知れませんが、それも申し訳程度です。忙しくても、暇でも時給が変わらないのであれば、暇で楽な方が良いと思うのは当然ではないでしょうか。ですから、本当は客なんて来ない方が良い。その結果店が潰れても、彼らは別のコンビニで、またアルバイトをすればよいだけの事です。このように、コンビニアルバイト店員にとっての仕事に臨む感覚は、日本人も中国人も何ら変わりありません。ところが、同じ状況にあっても日本人コンビニ店員は一定度の礼節を弁え、愛想が良く、中国人コンビニ店員は無愛想で失敬に見える。つまりこの事実を敷衍すれば、日本人コンビニ店員は自心に嘘をつき、笑顔を絶やさず、心にもない科白(いらっしゃいませ、有り難う御座いました)を仕事中延々と吐き続ける。一方、中国人コンビニ店員は自心に対して正直に、仏頂面で不貞腐れた態度で働く。私は、人が発する言葉というものに込められた心状をとても精緻に、大切に考えています。であるからして、有り難くもないのに「有り難う御座いました」なんて言って欲しくない。そんなの嘘なんだから。気持ちの悪い愛想笑いなんてして欲しくない。そんな日本人コンビニ店員を見ていると、「あなた、自分の心に嘘をついて、毎日毎日心にもない言葉を機械的に何百回も言い続けて悲しくなりませんか。情けなくありませんか」と言いたくなる。その意味で、中国人コンビニ店員の不貞腐れた態度は、実に正路で立派だと思います。少なくとも嘘がありません。ですから、私にとって中国人コンビニ店員の失敬な態度は大変好ましく快適なのです。毎日毎日自心に嘘をつき続け、嘘というものに対しての感覚が麻痺し、自分が礼儀という外套を羽織った虚言を弄している事実に何ら心の痛みを感じなくなっている日本人コンビニ店員より、よほど人間的です。そして、いつか中国人コンビニ店員が満面の笑みを浮かべ、心の底から「有り難うございました」と言った時、その言葉は、日本人コンビニ店員の手あかに塗れた言葉とは比較にならない重みを持つでしょう。銀座や秋葉原を闊歩する中国人観光客は一様に、必要以上に声が大きく、所作も粗野で下品に見えます。いくら私でも彼らの行動を不快に感じる事もあります。しかし、一点光る、中国人の自心に対する無様なまでの正直さには畏敬の念を覚えるのです。ここまで読んで、私の事を親中派と断じるのは些か早計です。私は、身近に散在する中国人の行動形態の一部を切り取って私見として好ましいと述べているだけです。中国に限らず、相手国が如何なる国であっても、対国家的相互理解は、永遠に不可能だと考えています。ですから、中国という国家に対しては特段何の感情も持っていません。数十年前の事を想起すれば日本人も、ニューヨークの高級ブティックに頓珍漢な出立ちで大挙して押しかけブランド品を買い漁り、マンハッタンの高層ビルを濫買するといった下劣極まりない愚行を働き現地人の顰蹙を買ったものです。故に、現在日本に押し寄せる中国人に眉を顰め、小馬鹿にしてせせら笑う一部の日本人は、自分達の過去の醜行を省観する事も出来ない大バカ者と言えるでしょう。我々日本人も、礼節という婉曲で、いやらしく、無意味で、単なる嘘でしかない鎧を脱ぎ棄て、無愛想で、無礼で、失敬な中国人の言動を少しは見習うべきではないでしょうか。相手の健康の事など何の心配もしていないのに「皆様の御健康を心よりお祈り申し上げます」とか、全然有り難くもないのに「誠に有り難う御座いました」とか言うのはやめましょう。そしてしかし、私が相手に「有り難う御座いました」と言う時、それは本当に心から「有り難や」と思料しているのです。 おしまい。
同化という楽土
前稿で僅かに觝触した日本人における組織への帰属意識について考察したい。ある集団、或いは組織に、精神的及び物理的な帰属行為を執る場合、孤立(疎外)→不安(疎外感による)→同化(周囲への)→帰属(安心)、といった4段階の過程に定式化される事は誤りではないだろう。私は一日本人の一傍観者として、この日本社会における日本人の帰属行動を観察するに、劇甚な違和感を覚えるのである。論じるまでもなく、私はあらゆる意味で自分が社会の中での少数派である事を十分に自覚している。然しながら敢えて言えば、全ての事象にあまねく内在する本質は、多数決によって決定づけられている訳ではない。従ってこの際、論者がマジョリティであるかマイノリティであるかは、一切無視しても何ら問題が無いものと勘決する。また、そうであってもこの考察は、マイノリティ(私を含む少数派)の視点からマジョリティを視たものであることは順当とする。さて、まずは第一段階である孤立(疎外)から考究したい。人間が自らの主体性を徹底的に追求した場合、社会から疎外され、孤立するのはこの日本社会では極めて自然である。主体性の追求と社会的孤立度(疎外性)の上昇は正比例の形をとる。(この時、社会的孤立度を社会的帰属度に置き換えれば、当然ながら反比例となる)。ところが、日本では当然の帰結である主体性追求による社会的孤立という困難な関係性が、適度に調和されている国がある。それは私が嫌忌する米国である。例えば米国のとある組織で、「今夜皆で呑みに行くんだけど君も来ないかい」「ヤダよ」「そうか。じゃっまたな!」。数日後「今夜皆でカラオケに行くんだけど君も一緒に来ないかい」「カラオケは好きじゃないんだ。やめとくよ」「なるほど、君はカラオケが嫌いなんだな。わかったよ。またな!」。またまた数日後、「明日の休日は皆でテニスのトーナメントをやるんだけど、君も参加しないかい」「僕は休日はゆっくり読書をしたいんだ。それに休日まで仕事仲間と一緒に居たくないよ」「それもそうかもな。それじゃ月曜日に会社で会おう!」。この様な、勧誘→拒絶という対立行為を何度となく反復しても、米国社会ではこれを理由に組織内で孤立したり排除されたりする事は殆ど無い。これは、米国が個人の主体性を最大限に容認する事を良しとする、この点に関しては極めて洗練された社会である事を意味している。米国嫌いの私もこれに限定しては高く評価せざるを得ない。一方、我が国日本の組織内で同様の行動を執ればどう言う結果をまねくか。一度や二度なら兎も角、勧誘→拒絶を繰り返すうちに、「あいつは変わったやつだ」「付き合いが悪い」から始まり、「協調性が無い」「もう相手にするのはやめよう」となり、マジョリティによる陰鬱な排除行動に移る。そして徐々に仕事の流れから外されてゆくのである。こうなると、仕事に関してどんなに優れた能力があろうと、もう出世は望めない。組織人としては絶望だ。まさに孤立(疎外)したのである。であるから日本社会のマジョリティは孤立(疎外)を恐れる。組織内において何らかの事由で孤立しそうになった瞬間、恐怖に襲われ、不安という蟻地獄に突き落とされる。これが第二段階の不安である。では何故日本社会のマジョリティは孤立を恐れ、不安に陥るのか。その元凶は幼少時からの公教育であると考える。日本の公教育が人間の主体性を悉く踏蹂していることは疑いようがない。そもそも公教育とは本質的に、暴力(精神的であれ肉体的であれ)を伴う強制行為によって国家に隷属する人間を育て、社会に排出する事が本分なのであるから、被教育者の主体性を全て許容するのは不可能である。問題なのは、その主体性たるものの許容範囲なのだ。日本の義務教育課程では、個人の主体性の許容範囲が異常とも言えるほど狭い。皆同じようなランドセルを背負い、同じような帽子をかぶり、似たような靴を履いて、通学班という集団で隊列を組んで登校する(この場合私立学校は除く)。この状況が、私には極めて異様に映る。子供(個人)の好みは多様な筈であるのに、なぜそろいもそろって同じような格好で登校するのか。それを強制されているならば、なぜ抵抗しないのか。それは、服装や持ち物という、取るに足らない表面的な要素であっても、周囲から孤立するのが怖いのである。他の子と違う物を持っているといじめられやしないか、仲間外れにされないかと、親は心配する。親もそういった教育を受けてきたのであるから当然だ。昼食(給食)も個人の好みを一切無視し、一律の料理を無理やり食わされる。好き嫌いなく何でも食べる子供は良い子とされ、好き嫌いの多い子はわがままな悪い子とされる。食べ物の好みと人間性など何の関連性もない筈なのに。義務教育機関での昼食は、全てカフェテリアにし、各自メニューの範囲内で好きな料理を食べさせれば良い。子供が野菜嫌いでも、魚嫌いでも、肉嫌いでも、全く心配無い。人間は好きなものを飲み、食べるのが一番体に良いのだ。少なくとも私は、偏食によって子供が死んだという事は聞いた事が無い。休み時間に、一人静かに読書に勤しんでいると協調性が無いとされる。遠足が嫌いだと拒否すれば変な奴だと言われる。運動会を嫌がれば元気のない子供だといわれる。きちんとした医学的な説明もないままに、決まり事だからと予防注射と称する訳のわからない薬物を打たれる。こういった次元の低い管理教育に嫌気がさし、登校そのものを拒否すれば、登校拒否児(異常児)という烙印を押され親と学校が一丸となって、何としても登校させようとする。ほんの少し考えてみればすぐに分かる事であるが、人間を含め地球上のあらゆる動物は他者に管理される事を嫌うのが最も自然であり極めて至当だ。本来的に他者に管理されることを喜ぶような動物がもし居るのであれば、是非見てみたいものだ。つまり正しくは、管理される事を嫌がり、登校を拒否する子供こそが真に正常で、力強い主体性を持った者なのであり、学校が楽しいなどと言って喜んで、自ら進んで他者に管理されに(学校に)行く子供の方が異常なのである。義務教育という暴力を纏う学校と称する刑務所(実際の刑務所よりやや規則は緩いが)の中で、徹底的に主体性を蹂躙され、削ぎ落とされた人間の大多数(マジョリティ)は、如何なる意味においても孤立を恐れ、疎外される事を死に物狂いで回避し、その孤立に起因する不安から逃れようとする。そして必要以上に自分自身を抑圧し、第三段階である同化(周囲への)行為を模索するようになる。ネクタイはなるべく地味なものを選ぶ。勤務時間外に拘束される理由は全くないにも関わらず、嫌な上司や同僚と呑みたくもない酒を呑む。大切な休日を犠牲にして同僚や部下の結婚式に出席する。結婚というものは完全に個人的な事象であって、元来仕事とは全く関係ない筈だ。顔も見た事が無いような者の葬式に出席する事も、実はかえって故人に失礼にあたるのではないか。毎年毎年、ただ形式的に繰り返される新入社員歓迎会や送別会。くだらない、馬鹿馬鹿しいと思ってもそれを公言すれば孤立する。時代遅れの社員旅行に連れて行かれる。うんざりするが、こういった事を全て拒否すれば、「あいつは自己中心的だ」「協調性が無い」「まったく大人げない」「わがままだ」と、お定まりの科白を投げつけられ、確実に疎外される。これこそが、大間違いなのである。正銘の協調性とは、対人関係において、他者が自身とは全く別の人格である事を率直に認め、なおかつお互いの主体性を最大限に許容しつつ業務上の目標に向かって協力関係を築く力である。これが真の協調性というものであり、本物の独立した大人の態度なのだ。孤立を恐れ、疎外という脅迫に屈し、何とか周囲に同化しようとする姿勢は、日本社会におけるマジョリティの幼稚性と悲哀が極大化したものに他ならない。日本の外交力が著しく脆弱な事実も、この日本社会マジョリティの精神性と無関係ではないだろう。佐藤優のような本物の実力者は結局排除されてしまうのである。かくして、この同化行為を経てマジョリティは集団(組織)にべったりと帰属(第四段階)し、人間の根幹をなす主体性と引き換えに、至上の安心感を獲取する。私の様に社会的マイノリティの視点に立ち、このような事実を目の当たりにする度に、広義での人格の陶冶というものが如何に困難であるかを痛感するのである。読者諸賢、私はまたまた理屈をこねてしまったようです。失敬致しました。御読了に感謝申し上げます。