悪事無くして事業は拡大ならず

連年招待状を拝戴しながら、一度も会場に足を運んだ事が無い催事がある。東京モーターショーだ。もとより、祭りや催事を厭悪している私ではあるが、それに加えて、新しいものに全く興味が無いということも大きな因由と言える。20年程前からであろうか、自動車であれ他の工業製品であれ、大規模製造業に属する大企業が生産する製品の殆どは、多大な社会的責任を負う大企業にあるまじき、「ただ売れれば良い」 「ただ儲かれば良い」という近視眼的営利に溺没した土左衛門の如きものばかりで、露ほどの魅力も感ずることはない。至当であろう。現在の大メーカーは、自らが世に送り出した製品を消費者に末永く大切に使ってもらうという、モノ造りに携わる者が本来持って然るべき精神を完全に消滅せしめている。大メーカーは、消費者に新製品を購わせ、あとは如何に早く廃棄させ、買い替えサイクルを短縮させるかに悪知恵を絞るばかりだ。こんなことでは製造現場で腕を揮う職人の矜持など保てるはずも無く、企画立案者にしても己の生み出した製品に営利以外の意義素を見出すことすら困難であろう。それもこれも、グローバリゼーションなる似非看板を背負ってはいるが、その正体は他者利益強奪型アメリカナイゼーションの根幹である市場原理主義とやらの所行に他ならない。工業製品だけではない。外食産業界のとある経営者は、「美味しいものが売れるのではない。売れるものが美味しいのだ」と全く悪びれる様子も無く言い放ったそうな。なるほど、この経営者に代表される、自職に関する倫理観や自負心を微塵も持ち合わせていないような人物が蔓延る現実を直視すれば、本当に良い車、永きに亘って多くの人に愛される魅力的な車など出来よう筈もないことが容易に理解できるのではなかろうか。ある自動車メーカーは、下請け業者に極限までのコストカットを求め、限界を超えた納入価格を強要する。下請け企業の社長は悩み苦しんだ挙句、自尽して果てる。メーカーの担当者は、下請け社長の失命を前にしても眉毛一つ動かすことも無く、代わりの下請け業者に仕事を移すのみである。結果、メーカーの内部留保は膨張を続ける。人命を犠牲にしてでもコストカットを要求する、その鉄面皮とも言える飽くなき営利追及は留まる所を知らない。いかに法律的には合法組織であっても、この様な大企業の横暴野蛮極まりない振る舞いはマフィアと同断だろう。現代では当然のビジネス手法となっているが、後進国との通貨格差を奇貨として悪用する海外生産の実態も凄まじいものだ。驚くなかれ、スニーカーブランドのナイキが生産委託するインドネシア工場における末端労働者の日収は1.25ドル(なんと約100円!)である。いくら後進国といえども、日給100円とは信じられようか。まともな労働法も整備されていない後進国に、市場原理主義に毒された先進国大企業が進出すれば、こうなるのは当然の帰結ではないか。有力企業の海外進出は現地の雇用創出の源泉であるなどと尤もらしい事が言われるが、そんなものは見え透いた口実であり、その実態は奴隷労働の温床なのだ。昔から、東京のカフェでコーヒーを一杯飲むとブラジルのコーヒー農園で働く奴隷が一人増えると言われてきた。まさに現代は、この悪しき産業構造が全世界的に波及し、なおかつ正当化されてしまったのである。東京でナイキのスニーカーを一足買えば、少なく見積もってもインドネシアの奴隷労働者が3人は増えるだろう。中国製の服を買えば中国人奴隷労働者が一人増えるだろう。ベトナムでタイでインドでカンボジアで全く同様の事態が広がりつつある現実を正視すべきだ。しかし、こういったマフィア大企業商法にもどうすることも出来ない欠点がある。それは前述した様に、出来上がった製品にモノとしての魅力が全く無いのである。マーケットリサーチを最重視し、必要以上に消費者の顔色を窺い、媚び諂って造られた現行車は、開発者が懸命に熱弁を振るおうと、私の目にはユニクロの商品と同程度にしか映らない。そんなユニクロレベルの安物を並べ立てているだけの東京モーターショーなど誰が行くものか。いや、高級車も並んでいるではないか、と言われる向きもあろう。黙りなさい、私はプロなんである。時価数千万円のイタリア製スーパーカーの作りや精度が国産の軽自動車以下であることも、一千万円オーバーの国産高級車ブランドが、実は100万円台の大衆車用部品を多数流用していることも知っている。東京モーターショーの「公称」観客動員数は、自動車各社と電通の担当者が東奔西走し、死に物狂いでタダ券をバラマキまくって作り上げられた数字であって、自らチケットを購買し、自発的に来場している者など、タダ券を入手する術を知らないホンの一部のニューモデルマニアにすぎないのである。更に、私があの手のモーターショーで吐き気を催すほど嫌忌するのは、イベントコンパニオンと呼ぶのだろうか、あの毎度おなじみの、女を侍らすという前時代的で品性下劣な演出だ。何故モーターショーに女を侍らす必要があるのか。何故展示車に女をしな垂れかからせる必要があるのか。しかもそのコンパニオンとやらは、今にもパンツが見えそうな短いスカートを穿き、新大久保の立ちんぼの様な、性根が腐り、堕ち切った視線を観客に送る。バカじゃないだろうか。催事では、とにかく肌を露出させた若い女を侍らせば、場が華やかになるという猥褻で下品で貧困な発想から抜け出せないのだ。結局、自動車メーカー幹部の品性やメンタリティは未だにこの程度の、時代錯誤も甚だしい低次元で下賤なものでしかない。そんなに女が好きならば、今すぐにキャバクラか淫売屋でも行けばよいではないか。まさに閉口頓首、辟易とする。私がこんなことを言うと、「もしかして、、、、、」と良からぬ事を考える者もあろうが、私は断じてホモではない。オカマバーは好きであるが断じてホモではない。ノンケである。何故私はオカマバーが好きなのか。それは、オカマは知的水準が高いからである。オカマバーに行ったことがない者は知る由も無いだろうが、彼ら社会的マイノリティーの思考は深い。被抑圧者特有の鋭敏な視座、思考の深さとインテリジェンスを併せ持ち、しかも決して卑屈になることなく、あらゆる悲哀を発笑に転換する機知に富んだ切り返しを身に付けている。オカマ話芸の意外な切り口と、辛辣さと口の悪さは、この私と互角に渡り合うレベルのものであり、とどめに、日陰者ならではの妙な迫力を伴う説得力も持ち合わせている。私は鋭利な刃物を更に研ぐが如く、即時的論理構築能力を鍛えんが為にオカマバーに通うのである。さて本題に戻るが、自動車メーカーは「若者の自動車離れ」などと見当外れな事を言って嘆いているが、現実を知らないバカの極みである。クルマが大好きな若者はまだまだ沢山いる。メーカーがつまらぬクルマばかり造るから、現行車に興味が失せているだけだ。トヨタが「86」というネーミングでFRのニューモデルを出すそうである。過去の名車のネーミングを再利用するようでは、既にトヨタの発想力が硬直化し、腐乱ていることを臆面も無く晒しているのと同篇と言えよう。水面に屍が浮いてもコストカットの手を緩めない様なマフィアの如く冷酷非情な組織に、客が心から満足するようなクルマを造ることは絶対に出来ない。東京モーターショーなどという馬鹿げた下らぬ、女侍らし系お祭り騒ぎを何度繰り返そうが、棄擲してしまった、モノづくりの原点に立ち返るという可逆反応は、もはや永遠に観られないであろう。さあ、そろそろ私も終業時刻が近付いてきました。今宵は行きつけの洋食屋で腹を満たした後、オカマの鈴香ママに論戦を挑む所存です。激しい夜になりそうです。

 

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