2011年10月

清爽な悪

幼少の頃より、私は苦しい事や辛い事、嫌いな事、要するに精神的或いは肉体的苦痛を伴う行為から徹頭徹尾逃げ回ってきた。逃げて逃げて逃げまくってきた。少し取り組んでみて出来そうにない事は即座に諦め、面倒な事は全て他者に任せ、ちょっとでも気に入らない物は張り倒されても絶対に食べず、叱られそうになるとその場から消える。家にクーラーなる物が導入された時は衝撃的だった。私の幼時は、クーラーと言えばデパートかタクシーにしかなく、自宅にクーラーがある奴は一定度の金持ちだった。あの夏の卒倒しそうな暑さから放免され、クーラーの清涼感や快暢を我が家で味わえる事は、著しい怠け者の私にとってこの上ない僥倖であった。爾来、夏はクーラーがある部屋から殆ど出ようとせず、冬は常時炬燵に潜り込み顔だけを外に出してほくそ笑んでいた。こういった生活態度を如何にたしなめられようとも頑として譲らず、決して革める事はなかった。であるからして、自分の眼前で繰り広げられるありとあらゆる光景が不思議で仕方がなかった。何故逆上がりをやらなければならないのか。出来ないと何か問題でもあるのか。何故跳び箱を跳ばなければならないのか。跳び箱を跳ぶ事に何の意味があるのか。痩せている子供は易々とこなし、肥満児が出来ないのは当たり前であるのに、何故肥満児に逆上がりを無理強いし、跳べる訳がない跳び箱に挑ませるのか。いくらやっても出来ない事は誰が見ても火を見るより明らかなのに、それを皆の前で繰り返しやらせるという事は、単なる嫌がらせではないのか。休み時間になると校庭に飛び出し、暴れまわる友人達を教室の窓から眺め、なんの必要があってあんなに奇声を上げて暴れるのか理解できなかった。給食も嫌だった。ブタの餌を入れる様な食缶で運ばれてくる料理は、とても人間の食べ物とは思えず、使われている食器もまるで刑務所の囚人にあてがう様な物で、何故自分がこんな屈辱的な状況で食事をしなければならないのか得心がいかなかった。朝礼、運動会の練習、卒業式の練習、マラソン大会、草むしり、全て逃げた。夏休みの宿題など殆どやった事がない。担任の教師に怒鳴られようが、ビンタされようが全面拒否してやらなかった。運動会や卒業式などは、練習しなければならないような性質のものではない。式次第をトラブルなく円滑に進行させようとする先生達(大人)の都合を子供達に押し付けているだけなのだ。大量の宿題を強制される様な夏休みは、ちっとも休みではないではないか。そもそも、何故毎日毎日学校に行かなければならないのか判然としなかった。学校などというものは、読み書き算盤だけ教えてくれれば十分、あとは余計な御世話、お節介なのである。そうだとすれば週に三日も行けば十分事足りるだろう。友達が多い事は善いことで、少ないことは悪い事。勉強が出来る子は良い子で、出来ない子は頭の悪い子。そんな事は持って生まれたものなのだから仕方ないではないか。内向的な性格も、頭の悪さも動物的遺伝である。父親がヤクザだったり、母親が売春婦だったりしても、それは子供のせいではないのと同じだ。そして、ここまで述べてきたような画一的で浅短な、教育という美名のもとに遂行される洗脳を受ける事が、私は嫌で嫌でしょうがなかった。したがって、好きな事だけに注力し、苦しい事、苦手な事から逃げに逃げて来たのである。私も既にオヤジと言われて久しい齢であるから、遂に逃げ切ったと言ってもよかろう。その結果私はどうなったか。幼少の頃から、苦難を避け逃げ回ってきた事に起因する問題が何か発生したか。答えは否である。はい、特に何も問題はありませんでした。オマエは本当に救いようのないバカだ。オマエみたいな卑怯な奴はいつかきっとバチがあたるぞ。オマエの将来は野垂れ死にだ。そう言われてきたが、実際はそうでもなかった。要するに、好きな事のみに没入していれば、その他の苦難や煩雑な事象から全て逃避しても、全然オッケー!なのである。ただ、こういった私のような生き方をするには、一般的に言って少々強い精神力が要求されるようだ。他者から誹謗中傷を受けたり、批判、批難されたりするとすぐにカッとなったり、反対に憔悴したりしてしまう者には無理であるからお勧めしない。そういう者は先生の言うことをよく聞いて良い子でいるしかない。しかし、斯く申す私も実はさして強い精神力を保持している訳ではない。私の場合はやや変わっている様で、他者からの誹謗中傷罵詈雑言批判批難を難なく認めてしまうのである。バカヤロウ!と言われれば、そうだよなあ、俺はバカだよなあ、と心から思うし、この卑怯者!と言われれば、そうか、俺は卑怯な人間なんだ、と率直に認諾する。私は、自分がバカで卑怯で陰湿で狡猾で臆病な人間であることを遥か昔から自認しているから、それを他者から指弾されても黙諾するしかない。そんな分かりきった事を、子供の時から言われてきた事を、いくら面罵されても立腹の余地はないのだ。その通りなんだから。そしてそんなことよりも、私を批難する相手の思考回路や精神構造の方に興味が湧くのである。この人にはどういった背景があり、いったいいかなる事由で私を批難しているのか。その精神の奥底に、澱になり溜まっているものは果たしてルサンチマンなのか、いやそうではないのか。つまりは君主道徳に属するものなのか、奴隷道徳に属するものなのかといった事がどうしても気になってしまう。私にとってはそういう事が極めて重要なのです。私はこのブログで、世の中において社会通念上(私が最もバカにしている言葉ではありますが、大変便利な言葉ですので時々利用しています)、善とされている事を鵜呑みにし、盲信する行為の危険性を様々な角度から訴えてきましたが、「逃避」という社会通念上悪とされる行為も、実はその手法によっては大変価値あるものに変わりうる可能性を内包している事に気付くべきだと思うのです。ただしかし、東電の前社長清水正孝の様な逃げ方はいけません。カッコ悪すぎる。頭が悪すぎる。みっともないったらありゃしない。同じ逃避であってもスマートにクレバーに、気が付いたら「あれっ、アイツ居ないね」と言われるような逃げ方こそ本物の逃避なのです。さあ、貴方も逃げましょう!苦手な事から、嫌な事から、辛い事から、ドンドン逃げましょう!そして得意な事だけに専念しましょう!辛い仕事から、嫌な上司から、小遣いを3万円しかくれない妻から、勉強もろくに出来ないくせに大学に行きたがっている子供から、手切れ金を要求されている愛人から、借金取りから、警察から、逃げて逃げて逃げ切ってやりましょう。逃げ方が分からない人は、遠慮なく私にお問い合わせ下さい。喜んで御指南致します。しかしその結果、貴方が乞食になっても、匕首で刺し殺されても、地下鉄のホームから突き落とされても、私は一切責任を負いませんし、その事について関知致しません。何故なら、それは貴方に「逃避」の才能が無かっただけの事なのですから。そして、自分の行為の結果は全て自分に責任があるという態度がとれる事が大人という事なのですから。

悪魔との対話

月に何度か仕事の後に訪れている児童養護施設での事である。子供達に器楽演奏の指導をしている私の背後で、一人の男子が施設の先生に叱喝されていた。「何か悪戯でもしたのだろう」、私はさほど気にする事も無く、指導を続けていた。すると程なくしてその先生が男子に向かって、「お前は自分さえ良ければそれでいいのか!」、と怒声を上げたのである。これはいけない。聞き捨てならない。私の耳に入る様な状況で、こいういった愚昧で決まり文句の様な科白を吐いてはならない。思慮が浅く愚かなこの先生は、私の逆鱗に触れてしまったのである。「皆さん、一所懸命に練習しているところ申し訳ありませんが、手を止めて私の話を聞いて下さい。世の中には、音楽などよりもずっと大切な事があります。今、私の後ろで、先生が赦し難い嘘を言っているのが聞えました。それを聞き流す事はできませんので、今日は楽器の練習をやめてその話をします」私は愚かなる先生に詰め寄り、「貴方は今、その子供にとんでもない嘘をつきましたね!聞えてしまった以上、私はそれを赦す事が出来ません。貴方の様な低劣な思考回路しか持たない人間に子供を教育する資格などありません。頭を丸めて明日にでも出家したら如何ですか」 「何をいきなり失礼な!Yさんはこの子が何をしたか知っているんですか!余計な口出しはしないで下さい!」  嗚呼、哀れなり。この蒙昧先生は自分か如何にバカな事を子供に言っているのか全く解っていない。このレベルで脳の発達が止まってしまった大人と話をしても不毛である。 こういう人は社会に対して何の疑問も抱かずに生きてきたのであろう。 「お前は自分さえ良ければそれでいいのか!」 そうである。それでいいのである。何故なら日本は資本主義国家だからである。市場原理に基づく資本主義社会とは、「自分さえ良ければいい」 という原理原則によってのみ成立しうる。「自分さえ儲かればいい」 「他人などどうなっても構わない」。甚だ残念ではあるが、これが資本主義社会の正体であり、動かし難い現実だ。そもそも資本主義とは、数の決まった椅子を奪い合う椅子取りゲームではないか。誰かが儲かれば、必ずそれより多くの人が損をしている。資本主義経済社会において共存共栄など完全な絵空事、全く以て不可能なのだ。聞こえの良い、しらじらしい社是を対外的に掲げている企業も、常にライバル企業を蹴落とす事に血道を上げ、あわよくば潰れる事を願っている。会社の中でもそうだ。大企業の社長ともなれば、平社員の数百倍の給与を手にしている。F1レーサーや売れっ子の芸能人であるなら兎も角、一人の人間の労働力など大して差は無い筈であるのに、これはちょっと貰い過ぎだろう。社長自ら、社員と一丸となって汗を流して働いている中小零細企業の社長は別として、大企業の社長は、「自分さえ良ければいい」という原理原則で動いている資本主義社会に最も上手く適応した人間であり御手本なのである。私の親族にもそういう社長がいた。仕事が出来、人望もあり、ここぞという時には大胆な決断を下し、そつなく成果を上げる。豪放磊落でありながら時折細やかな気遣いを見せるという嫌らしい人誑しの術も勿論身に付けている。部下をとても可愛がると同時に慕われている。しかし、如何にこういった好人物を装ってはいても、腹の底では「自分さえ良ければいい」と思っているのだ。何故なら、彼は自社の社員が毎日満員電車に揺られて痛勤している事を知りながら、自分は運転手付きのレクサスで悠々と出勤しているからである。昼休みに社員が吉野家に行列しているのを尻目に、自分は取引先の社長と旨い物を食っているからである。社員が立ち呑み屋で憂さを晴らし、終電に駆け込まんとしている時に、自分はレクサスのコノリーレザーのリヤシートに身を沈めて鼻提灯を膨らまし、目が覚めれば世田谷の豪邸に着いているからである。こういう行為は、普段から「自分さえ良ければいい」と思っているからこそ出来るのであるし、レクサスのスモークガラスの向こうに、土砂降りの中傘をさして歩く社員を認めても「俺は社長で奴は平社員だ。悔しかったら社長になってみろ。だからこれでいいのだ。自分さえ良ければそれでいいのだ」と言えるからこそ出来るのである。或るラーメン屋は、向かいのラーメン屋に行列が出来ている事を妬み、ある鮨屋は、向かいの鮨屋が食中毒を出すと喜ぶ。受験とてそうだ。「自分さえ東大法学部に合格すればいい」のであり、「自分さえ慶応の経済に受かればいい」のであり、「自分さえ早稲田の理工に合格すればいい」のだ。「えっ、貴方も東大の法学部受けるんですか。そうですか、、、ただでさえ倍率高いですからね、じゃあ私は受けるのやめますから貴方どうぞどうぞ」なんて言う人は居る訳ないのである。私だって、貴方だって、「自分さえ良ければいい」人として生きている。貴方は宝くじを買う。そう、「自分さえ当たればいい」。外れた人に「貴方外れたんですか。御気の毒に。可哀そうだから私の当選券差し上げますよ」とは絶対に言わない。私は目当ての人気割烹に走る。そう、「自分さえ呑めればいい」。後から来て入れなかった客に「あれ、満席みたいですね。それでは私は遠慮しますので、貴方ゆるりと呑んで下さい。ささっ、如何にも」とは口が裂けても言わない。「自分さえ一流企業から内定をもらえればいい」し、「自分さえ高収入の男と結婚できればいい」。「自分さえ良ければいい」から、戦争がおこる。真実や本質を覆い隠し、建前や理想だけを子供達に押しつける事は、到底教育とは言えない。人間とは美しいものでも崇高なものでもなく、下品下劣で醜く、利己的で身勝手な惨たらしい生き物である事を子供達に徹底して叩き込むのが教育の第一歩なのである。そして大人達がライバルの不幸を願い、金に振り回され、欲得ずくで見苦しく這いずり回る資本主義社会のさもしい実態やその惨状を嫌と言うほど見せつけるのだ。このように、人間が根源的に内包する浅ましさや破廉恥性を子供達に強烈に自覚させ、その上で、地獄の如き浮世を如何に生きるべきかを自分の脳で考えさせる事こそが真の教育とは言えないだろうか。思いやりや謙譲といった、似非教育者が金科玉条の如く宣う精神は、自分と極近しい対人関係の範囲でしか通用しない。全ての人を思いやり、全ての人に先を譲れば自分が生きる方処は無くなる。この世に正義など存在しない。欺瞞と裏切りで充満している。だからこそ、人間とはどうあるべきなのかを、子供であっても誰に頼る事無く、自身の脳で勘考し考え尽くさなければならない。こういう話を、私は子供達が何とか理解出来るレベルまで噛み砕き、時間をかけて話した。一時間くらい話したであろうか。私が話をしている間、子供達は最後まで一言の私語も発せず、真剣な眼差しで話を聞いていた。話が終わると子供達は私に問いかけてきた。「大人は大変なんだね」 「うん、凄く大変だよ」 「生きてて楽しい?」 「楽しくなんかないよ」 「苦しい?」 「苦しくて苦しくて逃げ出したくなるよ」 「なんで逃げないの?」 「何処へ逃げても結局同じだからだよ」 「どうしたら苦しくなくなるの?」 「死ぬしかないね」 「じゃあ死んじゃえば?」 「そうだね、別に今すぐ死んでも良いんだけどもう少し後にするよ」 「どうして?死んだら苦しくなくなるんだったら今すぐ死んじゃった方がいいじゃん。なんで後にするの?」 「今すぐ死ぬのは怖いからだよ」 「死ぬのが怖いから生きてるの?」 「その通りだよ。おじさんは死ぬのが怖いから、死ぬ勇気がないから生きてるだけなんだよ。ただね、もう少し色々な事を勉強すれば、死ぬのが怖くなくなると思うんだな。それで死ぬのが怖くなくなったら、おじさんは死ぬね」 「死ぬと楽なの?」 「そりゃあそうだよ。全ての苦痛から解放されるんだからね」 「解放ってどういう意味?」 「自由になるってことだよ」 「自由って楽しいの?」 「どうだろう、それはおじさんにも解らないよ」 「どうして?」 「おじさんは死んだ事がないからだよ」 「大人になるの嫌だな」 「おじさんも嫌だよ」 「だっておじさんはもう大人でしょ?」 「そう、だから自分が嫌なんだよ。でもね、君達子供だって悪魔なんだよ。君達はまだ未熟だから大したことは出来ないけれど、頭の中では悪い事を一杯考えているだろう?ズルイ事ばかり考えているだろう?おじさんは知っているよ。おじさんだって昔は子供だったんだからね」 「僕はズルクないよ!!」 「いや、君はズルイね。ズルイ筈だ」 「なんで!!ズルクなんかないし、悪い事もしていないよ!!」 「気をつけた方がいいね。自分が正しいなんて思いこむ事は最も恐ろしいことだよ。人間は皆ズルイし悪いものなんだ。だからね、そのズルサや悪さをどうやって押さえ込むかが大切なんじゃないかな」 「どうすればいいの?」 「それはどんなに時間がかかっても自分で考えるしかないね」 「教えてくれないの?」 「嫌だね」 「おじさんは意地悪だね」 「そうだね、とても意地悪だね」 「友達に嫌われるよ」 「友達はいないよ」 「ふーーーん」      おわり。 

屑の一分

東京電力前社長清水正孝は、人類史上最大最悪の福島第一原子力発電所メルトスルー事故を発生させておきながら、事故当時、刻々と悪化の一途を辿る事故現場から事故収束作業員を全員撤退させようとした。メルトダウンどころか既にメルトスルーという人類が嘗て経験した事の無い驚駭の事態に陥っている事実を知った清水は事故を放擲し、東電社員諸共、尻尾を巻いて現場から逃げ出そうとしたのである。「無責任」、「卑怯者」といった言葉は、正に清水正孝の為に存在するのであろう。これを聞いた前首相菅直人は激昂し、東電本社に乗り込み「撤退などありえない。命がげでやれ」と東電幹部社員を一喝した。この一件は、各メディアによって広く報道されただけに、読者諸賢も須く存知している事だろう。この一点のみをとっても、私は菅直人という男に首相としての及第点を与えたい。加えて、福島第一原子力発電所メルトスルー事故という未来永劫取り返しのつかない大人災と引き換えにしても、脱原発を宣言した事は大きな足跡として一定の歴史的価値を認めても良いのではないだろうか。私は常々、政治家とは一人の例外も無く全て人間のクズだと断じているから、菅直人とてそのクズの一員としか思っていない。しかし、東電とドブン、ザブン(官僚が使う隠語。意味は文脈から解りますね)の関係にある他の民主党議員が内閣総理大臣であった場合、果して菅と同様の決断が可能だったであろうか。ましてや、党自体が東電と切っても切れないズブズブの愛人関係にある自由民主党が政権を担っていたとしたら、如何なる手段を講じても東電を原発を擁護したに違いない。このような事実を鑑みれば、菅直人というクズもまあ少しは気概を見せたのだと考えてもあながち間違ってはいないだろう。さて、過日出張先で投宿した安旅籠にて、寝台に転がりながらテレビのスイッチを入れると、引き摺り降ろされたばかりの菅直人が、利口そうに見えて実はノータリンの女性キャスターから単独インタビューを受けていた。インタビューの内容自体は実の無いものであったが、私はなんとなく見続けていた。すると或る時菅の顔がアップになったのだが、その時私は息を呑んで飛び起きた!なんと、菅の左の鼻の穴から申し訳なさそうに太い鼻毛と細い鼻毛が一本ずつ計二本飛び出していたのである!菅の鼻の穴は大層小さく、その飛び出していた二本の鼻毛も、常人であれば何ら気付かず見落としてしまうレベルであったが、私はそれを毅然として赦さなかった。なにしろ、実は私は全三巻の大著『鼻毛飛び出し論』の著者であり、鼻毛飛び出し論そのものの創始者なのである。私の鼻毛飛び出し論を知らぬ者は、己の無知を恥じて欲しいところだが、寛大な私は簡潔に御説明差し上げる。『鼻毛飛び出し論』の主題は、自分が相対する者の鼻の穴から鼻毛が飛び出ていた場合に、どう対処する事が道徳的善、及び倫理的善であるかを哲学的見地から精緻かつ徹底的に分析し論じたものである。そのスケールたるや極めて壮大で、ヘーゲル体系をもあっさりと凌駕する程の比類なき広がりを持っている。また、その難解さも極め付きで、カントの「純粋理性批判」に比肩、或いは凌駕する水準と言われており、『鼻毛飛び出し論』を読み解くには、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル等のドイツ観念論は勿論、フォイエルバッハ、エンゲルス、マルクスの唯物論やクロポトキン、プルードン、バクーニンといったアナーキズムまでを精確に理解し、身に付けていることが最低条件となる。そして、『鼻毛飛び出し論』は従来の哲学的常識を遥かに超越している。観念論と唯物論の間を縦横無尽に行き来し、その時の都合の好い方にめまぐるしく主張が変節する為、その哲学的立場も曖昧模糊としている事や、論理の飛躍が著しく、少しでも気を抜いて読もうものなら何を言っているのかさっぱり分からなくなってしまい、支離滅裂に感じてしまうのだ。更に、『鼻毛飛び出し論』は、私が最も得意とするスワヒリ語で書かれている事も、その難解さに輪をかけている。『鼻毛飛び出し論』とは、斯くも厳しく激しい超難解書なのである。菅直人の僅かに飛び出た鼻毛を断じて見逃さなかった私は、自らの犀利で機敏な心神が保持されている事を自負したと同時に、自身の胸中に『鼻毛飛び出し論』に対する熱い情念が、未だぐらぐらと滾っている事実を改めて自覚した。旅先で見たテレビの中に、元宰相の飛び出し鼻毛を目敏く発見するという偶発的な事象ではあったが、これを奇貨とし、遂に私は『鼻毛飛び出し論』を更に発展させ、『鼻毛飛び出し論』とは対極的視座からそれを論ずる『実践鼻毛飛び出し論批判』(『鼻毛飛び出し論』第四巻にあたる)の執筆に着手する事を決意したのである。これは持論を自ら批判するという無謀とも言える挑戦であり、悲惨な結末になるのではないかと按ずる向きもあるかと思うが、どうか私を止めないでほしい。何年かかろうと、艱難辛苦を乗り越えて、何としても私は脱稿する所存である。そして、私の『鼻毛飛び出し論』に対する情熱を再燃させてくれた前内閣鼻毛飛び出し総理大臣、菅直人に万謝を捧げたい。菅直人の飛び出した二本の鼻毛に、私は屑の一分を見たのである。皆さん、私は自分が何故こんな事を書いているのか解らなくなってきました。そういう事情でありますから、本稿はこれにて仕舞と致します。ごきげんよう。

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