日出づる国欺瞞に満たされり

「被災された皆様を心より御見舞い申し上げます」とか「お亡くなりになられた方々に慎んで御悔み申し上げます」などという軽薄かつ安直で不真面目で、人心絶無な定型文を、これ当然とばかり平然と吐きだす企業や個人に、私は喩えようの無い憤怒を覚える。私は今回の震災に関してこの場で言及するつもりはさらさらなかったのであるが斯くの如き非人間的な定型句を無意識に発する愚か者があまりに多い為、ここで怒りを爆発させる事にした。果たして、これ程までに相手を侮蔑する欺瞞に満ちた言葉がこの世にあるだろうか。誰かが死ぬと、すかさず馬鹿の一つ憶えの如く「御冥福を御祈り致します」(これは故人の宗教を確認してからでなければ、絶対に言ってはならない言葉である)と言うノータリンが多いが、これも全く以て同類の、正視に堪えぬ吐瀉物の様な賤句である。こんな糞尿の並みの定型句を言う事で、言われた相手が喜ぶとでも思っているのだろうか。私のこの批判に対し、「こういう言葉は単なる挨拶の様な定型句だから、そもそもあまり意味は無いものだし、そんなことをいちいち気にする方がおかしい」という声が今にも聞こえてきそうだが、こういったまるで養殖動物の様な隷属的思考回路に陥った反論を私は相手にするつもりは無い。これら、又はこれらに類する定型卑句を軽はずみに発する者ほど、実は被災者や死亡者の事など何とも思っていないのである。そして、何の心配もしていないが、とりあえず何か言わないと対外的に体面を保てない為、さも心配そうに「心より云々、慎んで云々」とほざくのだ。「本当は、こんなこと別に何とも思ってないし、どうでもいいんだけど、なんか言っとかないと体裁が悪いからさ、一応言っただけなんだよな。へへへ」と言う訳である。なんと安っぽい、低次元のいやらしい自己保身的言動だろうか。私はこれを指弾しているのだ。今回の震災を見て何とも思わないのであれば、何も言わなければ良い。何も感じなければ知らんぷりしていれば良い。そしてそれは悪い事でも何でもない。人の感受性は常に人それぞれであり、如何に危機的な状況に直面しても、それを外圧によって一つの基準に統一しようとする事は絶対に許されないし、あってはならない。心配する人は好い人で、心配しない人は悪い人、というカルト的二元論に迷い込むのは、近代社会において最も危険な大衆心理とさえ言える。人間は、皆がマザーテレサにはなれない。敢えて言えば、マザーテレサの博愛主義的慈善活動がホントのホントのホントに彼女の慈悲心によって突き動かされたものであったとしても、その慈悲心は、人間の最も醜い自己愛の変成物であると断ぜざるを得ない。であるから、津波に呑まれる街の映像を見て何も感じず、何とも思わない人は、それについて他者から問われても正々堂々と胸を張って「私は何とも思いませんし、私には関係ありませんね」と言えばいいのである。大して心配もしていないのに、被災者を按ずるような言句を発する者の方が余程品性下劣である事は間違いない。たとえ相手を傷つけようとも自分の心情を正路に相手に伝えようとする真摯な姿勢こそが人間として根源的に崇高で典雅な振る舞いなのだ。今回の震災は私の死生観を根底から覆す程の衝撃であった。津波に襲われ、全てを奪われた被災地の土埃の中に立った時、気が小さい私は膝の震えが止まらなかった。しかし帰京すれば、何時もの様に夜な夜な竹露を舐める日々を過ごしているのである。脆弱で矮小で小賢しい私の精神は、被災地の事を継続して考え続ける事に辛すぎて耐えられない。あれほどの惨状を目の当たりにしながら己の生活を優先してしまう。我ながら内心忸怩たるものがあるが、事実だから仕方が無い。私もファザーテレサにはなれなかった。そして、被災地に立って筆舌に尽くしがたい衝撃を受けた私でも、未だに無辜の人々が日々虫けらの様に殺され続けているイラクやアフガニスタンのニュースを聞いても、中国によるチベット弾圧を知っても、「本当に理不尽だなあ」と思う程度であって痛痒は感じないのだ。所詮私のヒューマニズムなどこんなものなのである。それでも、私は前述した賤しい定型句を口にするような下品な人間ではない。低劣な定型句を連発する者が多いのは、既に述べた理由の他にもう一つある。それは、自分の頭でしっかりものを考えていないと言う事だ。傷ついた人には、とりあえず「心より御見舞い云々」、死んだ人にはとりあえず「慎んで御悔み云々」と何も考えず自動的に言っているだけなのである。賤しくも人間であるなら言葉を発する時はせめて自らの脳でしっかり考えるべきではないだろうか。こんな上滑りな言葉が埃の様に舞う世の中に、私は言い知れぬ倦怠感を覚える。現代に生きる者は私も含めて、国家に属し、会社に属し、家庭に属し、地域に属している。一見この複雑で豊かに見える構造そのものが、実は個人の主体性を極限まで減退させ、著しく抑圧しているのだ。言いたい事も言えず、正しい事を正しいとも言えず、離婚したくても出来ず、間違いを指摘して正す事も出来ない。こういった環境に長期間身を置いていれば自ずと人間は、金儲け以外の事を自分の頭で考えなくなる。国家権力の思う壺だ。国家にとって一番都合のよい人間とは余計な事は何も考えず、一心不乱に金儲けに専念し、一銭でも多くの税金を大人しく納める人なのである。とどのつまり、金儲けに夢中になっている者は、国家教育が最も上手くいった優秀な奴隷に他ならない。自分の置かれている社会状況を深く真剣に考えない者は権力の走狗、或いは家畜にに成り下がるのみだ。無思考的定型文が蔓延る社会は、主体性剥奪型無思考社会に直結する。そしてこの国は既に見事なまでにそうなってしまっている。今や日本中に降り注いでいる放射性物質が、その何よりの証左ではないか。国民が主体性を失った社会は、畢竟このお粗末なザマとなる。身を挺して反原発運動に携わってきた人々は憤死せんばかりの怒りに打ち震えていることだろう。アメリカの恫喝に怯んだ正力松太郎を始めとするこの国の原発政策にかかわった者全て、そしてこの事故を引き起こした当事者である東電の勝俣、清水の罪万死に値す、と断じておこう。

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