清爽な悪

幼少の頃より、私は苦しい事や辛い事、嫌いな事、要するに精神的或いは肉体的苦痛を伴う行為から徹頭徹尾逃げ回ってきた。逃げて逃げて逃げまくってきた。少し取り組んでみて出来そうにない事は即座に諦め、面倒な事は全て他者に任せ、ちょっとでも気に入らない物は張り倒されても絶対に食べず、叱られそうになるとその場から消える。家にクーラーなる物が導入された時は衝撃的だった。私の幼時は、クーラーと言えばデパートかタクシーにしかなく、自宅にクーラーがある奴は一定度の金持ちだった。あの夏の卒倒しそうな暑さから放免され、クーラーの清涼感や快暢を我が家で味わえる事は、著しい怠け者の私にとってこの上ない僥倖であった。爾来、夏はクーラーがある部屋から殆ど出ようとせず、冬は常時炬燵に潜り込み顔だけを外に出してほくそ笑んでいた。こういった生活態度を如何にたしなめられようとも頑として譲らず、決して革める事はなかった。であるからして、自分の眼前で繰り広げられるありとあらゆる光景が不思議で仕方がなかった。何故逆上がりをやらなければならないのか。出来ないと何か問題でもあるのか。何故跳び箱を跳ばなければならないのか。跳び箱を跳ぶ事に何の意味があるのか。痩せている子供は易々とこなし、肥満児が出来ないのは当たり前であるのに、何故肥満児に逆上がりを無理強いし、跳べる訳がない跳び箱に挑ませるのか。いくらやっても出来ない事は誰が見ても火を見るより明らかなのに、それを皆の前で繰り返しやらせるという事は、単なる嫌がらせではないのか。休み時間になると校庭に飛び出し、暴れまわる友人達を教室の窓から眺め、なんの必要があってあんなに奇声を上げて暴れるのか理解できなかった。給食も嫌だった。ブタの餌を入れる様な食缶で運ばれてくる料理は、とても人間の食べ物とは思えず、使われている食器もまるで刑務所の囚人にあてがう様な物で、何故自分がこんな屈辱的な状況で食事をしなければならないのか得心がいかなかった。朝礼、運動会の練習、卒業式の練習、マラソン大会、草むしり、全て逃げた。夏休みの宿題など殆どやった事がない。担任の教師に怒鳴られようが、ビンタされようが全面拒否してやらなかった。運動会や卒業式などは、練習しなければならないような性質のものではない。式次第をトラブルなく円滑に進行させようとする先生達(大人)の都合を子供達に押し付けているだけなのだ。大量の宿題を強制される様な夏休みは、ちっとも休みではないではないか。そもそも、何故毎日毎日学校に行かなければならないのか判然としなかった。学校などというものは、読み書き算盤だけ教えてくれれば十分、あとは余計な御世話、お節介なのである。そうだとすれば週に三日も行けば十分事足りるだろう。友達が多い事は善いことで、少ないことは悪い事。勉強が出来る子は良い子で、出来ない子は頭の悪い子。そんな事は持って生まれたものなのだから仕方ないではないか。内向的な性格も、頭の悪さも動物的遺伝である。父親がヤクザだったり、母親が売春婦だったりしても、それは子供のせいではないのと同じだ。そして、ここまで述べてきたような画一的で浅短な、教育という美名のもとに遂行される洗脳を受ける事が、私は嫌で嫌でしょうがなかった。したがって、好きな事だけに注力し、苦しい事、苦手な事から逃げに逃げて来たのである。私も既にオヤジと言われて久しい齢であるから、遂に逃げ切ったと言ってもよかろう。その結果私はどうなったか。幼少の頃から、苦難を避け逃げ回ってきた事に起因する問題が何か発生したか。答えは否である。はい、特に何も問題はありませんでした。オマエは本当に救いようのないバカだ。オマエみたいな卑怯な奴はいつかきっとバチがあたるぞ。オマエの将来は野垂れ死にだ。そう言われてきたが、実際はそうでもなかった。要するに、好きな事のみに没入していれば、その他の苦難や煩雑な事象から全て逃避しても、全然オッケー!なのである。ただ、こういった私のような生き方をするには、一般的に言って少々強い精神力が要求されるようだ。他者から誹謗中傷を受けたり、批判、批難されたりするとすぐにカッとなったり、反対に憔悴したりしてしまう者には無理であるからお勧めしない。そういう者は先生の言うことをよく聞いて良い子でいるしかない。しかし、斯く申す私も実はさして強い精神力を保持している訳ではない。私の場合はやや変わっている様で、他者からの誹謗中傷罵詈雑言批判批難を難なく認めてしまうのである。バカヤロウ!と言われれば、そうだよなあ、俺はバカだよなあ、と心から思うし、この卑怯者!と言われれば、そうか、俺は卑怯な人間なんだ、と率直に認諾する。私は、自分がバカで卑怯で陰湿で狡猾で臆病な人間であることを遥か昔から自認しているから、それを他者から指弾されても黙諾するしかない。そんな分かりきった事を、子供の時から言われてきた事を、いくら面罵されても立腹の余地はないのだ。その通りなんだから。そしてそんなことよりも、私を批難する相手の思考回路や精神構造の方に興味が湧くのである。この人にはどういった背景があり、いったいいかなる事由で私を批難しているのか。その精神の奥底に、澱になり溜まっているものは果たしてルサンチマンなのか、いやそうではないのか。つまりは君主道徳に属するものなのか、奴隷道徳に属するものなのかといった事がどうしても気になってしまう。私にとってはそういう事が極めて重要なのです。私はこのブログで、世の中において社会通念上(私が最もバカにしている言葉ではありますが、大変便利な言葉ですので時々利用しています)、善とされている事を鵜呑みにし、盲信する行為の危険性を様々な角度から訴えてきましたが、「逃避」という社会通念上悪とされる行為も、実はその手法によっては大変価値あるものに変わりうる可能性を内包している事に気付くべきだと思うのです。ただしかし、東電の前社長清水正孝の様な逃げ方はいけません。カッコ悪すぎる。頭が悪すぎる。みっともないったらありゃしない。同じ逃避であってもスマートにクレバーに、気が付いたら「あれっ、アイツ居ないね」と言われるような逃げ方こそ本物の逃避なのです。さあ、貴方も逃げましょう!苦手な事から、嫌な事から、辛い事から、ドンドン逃げましょう!そして得意な事だけに専念しましょう!辛い仕事から、嫌な上司から、小遣いを3万円しかくれない妻から、勉強もろくに出来ないくせに大学に行きたがっている子供から、手切れ金を要求されている愛人から、借金取りから、警察から、逃げて逃げて逃げ切ってやりましょう。逃げ方が分からない人は、遠慮なく私にお問い合わせ下さい。喜んで御指南致します。しかしその結果、貴方が乞食になっても、匕首で刺し殺されても、地下鉄のホームから突き落とされても、私は一切責任を負いませんし、その事について関知致しません。何故なら、それは貴方に「逃避」の才能が無かっただけの事なのですから。そして、自分の行為の結果は全て自分に責任があるという態度がとれる事が大人という事なのですから。

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