2011年10月15日

悪魔との対話

月に何度か仕事の後に訪れている児童養護施設での事である。子供達に器楽演奏の指導をしている私の背後で、一人の男子が施設の先生に叱喝されていた。「何か悪戯でもしたのだろう」、私はさほど気にする事も無く、指導を続けていた。すると程なくしてその先生が男子に向かって、「お前は自分さえ良ければそれでいいのか!」、と怒声を上げたのである。これはいけない。聞き捨てならない。私の耳に入る様な状況で、こいういった愚昧で決まり文句の様な科白を吐いてはならない。思慮が浅く愚かなこの先生は、私の逆鱗に触れてしまったのである。「皆さん、一所懸命に練習しているところ申し訳ありませんが、手を止めて私の話を聞いて下さい。世の中には、音楽などよりもずっと大切な事があります。今、私の後ろで、先生が赦し難い嘘を言っているのが聞えました。それを聞き流す事はできませんので、今日は楽器の練習をやめてその話をします」私は愚かなる先生に詰め寄り、「貴方は今、その子供にとんでもない嘘をつきましたね!聞えてしまった以上、私はそれを赦す事が出来ません。貴方の様な低劣な思考回路しか持たない人間に子供を教育する資格などありません。頭を丸めて明日にでも出家したら如何ですか」 「何をいきなり失礼な!Yさんはこの子が何をしたか知っているんですか!余計な口出しはしないで下さい!」  嗚呼、哀れなり。この蒙昧先生は自分か如何にバカな事を子供に言っているのか全く解っていない。このレベルで脳の発達が止まってしまった大人と話をしても不毛である。 こういう人は社会に対して何の疑問も抱かずに生きてきたのであろう。 「お前は自分さえ良ければそれでいいのか!」 そうである。それでいいのである。何故なら日本は資本主義国家だからである。市場原理に基づく資本主義社会とは、「自分さえ良ければいい」 という原理原則によってのみ成立しうる。「自分さえ儲かればいい」 「他人などどうなっても構わない」。甚だ残念ではあるが、これが資本主義社会の正体であり、動かし難い現実だ。そもそも資本主義とは、数の決まった椅子を奪い合う椅子取りゲームではないか。誰かが儲かれば、必ずそれより多くの人が損をしている。資本主義経済社会において共存共栄など完全な絵空事、全く以て不可能なのだ。聞こえの良い、しらじらしい社是を対外的に掲げている企業も、常にライバル企業を蹴落とす事に血道を上げ、あわよくば潰れる事を願っている。会社の中でもそうだ。大企業の社長ともなれば、平社員の数百倍の給与を手にしている。F1レーサーや売れっ子の芸能人であるなら兎も角、一人の人間の労働力など大して差は無い筈であるのに、これはちょっと貰い過ぎだろう。社長自ら、社員と一丸となって汗を流して働いている中小零細企業の社長は別として、大企業の社長は、「自分さえ良ければいい」という原理原則で動いている資本主義社会に最も上手く適応した人間であり御手本なのである。私の親族にもそういう社長がいた。仕事が出来、人望もあり、ここぞという時には大胆な決断を下し、そつなく成果を上げる。豪放磊落でありながら時折細やかな気遣いを見せるという嫌らしい人誑しの術も勿論身に付けている。部下をとても可愛がると同時に慕われている。しかし、如何にこういった好人物を装ってはいても、腹の底では「自分さえ良ければいい」と思っているのだ。何故なら、彼は自社の社員が毎日満員電車に揺られて痛勤している事を知りながら、自分は運転手付きのレクサスで悠々と出勤しているからである。昼休みに社員が吉野家に行列しているのを尻目に、自分は取引先の社長と旨い物を食っているからである。社員が立ち呑み屋で憂さを晴らし、終電に駆け込まんとしている時に、自分はレクサスのコノリーレザーのリヤシートに身を沈めて鼻提灯を膨らまし、目が覚めれば世田谷の豪邸に着いているからである。こういう行為は、普段から「自分さえ良ければいい」と思っているからこそ出来るのであるし、レクサスのスモークガラスの向こうに、土砂降りの中傘をさして歩く社員を認めても「俺は社長で奴は平社員だ。悔しかったら社長になってみろ。だからこれでいいのだ。自分さえ良ければそれでいいのだ」と言えるからこそ出来るのである。或るラーメン屋は、向かいのラーメン屋に行列が出来ている事を妬み、ある鮨屋は、向かいの鮨屋が食中毒を出すと喜ぶ。受験とてそうだ。「自分さえ東大法学部に合格すればいい」のであり、「自分さえ慶応の経済に受かればいい」のであり、「自分さえ早稲田の理工に合格すればいい」のだ。「えっ、貴方も東大の法学部受けるんですか。そうですか、、、ただでさえ倍率高いですからね、じゃあ私は受けるのやめますから貴方どうぞどうぞ」なんて言う人は居る訳ないのである。私だって、貴方だって、「自分さえ良ければいい」人として生きている。貴方は宝くじを買う。そう、「自分さえ当たればいい」。外れた人に「貴方外れたんですか。御気の毒に。可哀そうだから私の当選券差し上げますよ」とは絶対に言わない。私は目当ての人気割烹に走る。そう、「自分さえ呑めればいい」。後から来て入れなかった客に「あれ、満席みたいですね。それでは私は遠慮しますので、貴方ゆるりと呑んで下さい。ささっ、如何にも」とは口が裂けても言わない。「自分さえ一流企業から内定をもらえればいい」し、「自分さえ高収入の男と結婚できればいい」。「自分さえ良ければいい」から、戦争がおこる。真実や本質を覆い隠し、建前や理想だけを子供達に押しつける事は、到底教育とは言えない。人間とは美しいものでも崇高なものでもなく、下品下劣で醜く、利己的で身勝手な惨たらしい生き物である事を子供達に徹底して叩き込むのが教育の第一歩なのである。そして大人達がライバルの不幸を願い、金に振り回され、欲得ずくで見苦しく這いずり回る資本主義社会のさもしい実態やその惨状を嫌と言うほど見せつけるのだ。このように、人間が根源的に内包する浅ましさや破廉恥性を子供達に強烈に自覚させ、その上で、地獄の如き浮世を如何に生きるべきかを自分の脳で考えさせる事こそが真の教育とは言えないだろうか。思いやりや謙譲といった、似非教育者が金科玉条の如く宣う精神は、自分と極近しい対人関係の範囲でしか通用しない。全ての人を思いやり、全ての人に先を譲れば自分が生きる方処は無くなる。この世に正義など存在しない。欺瞞と裏切りで充満している。だからこそ、人間とはどうあるべきなのかを、子供であっても誰に頼る事無く、自身の脳で勘考し考え尽くさなければならない。こういう話を、私は子供達が何とか理解出来るレベルまで噛み砕き、時間をかけて話した。一時間くらい話したであろうか。私が話をしている間、子供達は最後まで一言の私語も発せず、真剣な眼差しで話を聞いていた。話が終わると子供達は私に問いかけてきた。「大人は大変なんだね」 「うん、凄く大変だよ」 「生きてて楽しい?」 「楽しくなんかないよ」 「苦しい?」 「苦しくて苦しくて逃げ出したくなるよ」 「なんで逃げないの?」 「何処へ逃げても結局同じだからだよ」 「どうしたら苦しくなくなるの?」 「死ぬしかないね」 「じゃあ死んじゃえば?」 「そうだね、別に今すぐ死んでも良いんだけどもう少し後にするよ」 「どうして?死んだら苦しくなくなるんだったら今すぐ死んじゃった方がいいじゃん。なんで後にするの?」 「今すぐ死ぬのは怖いからだよ」 「死ぬのが怖いから生きてるの?」 「その通りだよ。おじさんは死ぬのが怖いから、死ぬ勇気がないから生きてるだけなんだよ。ただね、もう少し色々な事を勉強すれば、死ぬのが怖くなくなると思うんだな。それで死ぬのが怖くなくなったら、おじさんは死ぬね」 「死ぬと楽なの?」 「そりゃあそうだよ。全ての苦痛から解放されるんだからね」 「解放ってどういう意味?」 「自由になるってことだよ」 「自由って楽しいの?」 「どうだろう、それはおじさんにも解らないよ」 「どうして?」 「おじさんは死んだ事がないからだよ」 「大人になるの嫌だな」 「おじさんも嫌だよ」 「だっておじさんはもう大人でしょ?」 「そう、だから自分が嫌なんだよ。でもね、君達子供だって悪魔なんだよ。君達はまだ未熟だから大したことは出来ないけれど、頭の中では悪い事を一杯考えているだろう?ズルイ事ばかり考えているだろう?おじさんは知っているよ。おじさんだって昔は子供だったんだからね」 「僕はズルクないよ!!」 「いや、君はズルイね。ズルイ筈だ」 「なんで!!ズルクなんかないし、悪い事もしていないよ!!」 「気をつけた方がいいね。自分が正しいなんて思いこむ事は最も恐ろしいことだよ。人間は皆ズルイし悪いものなんだ。だからね、そのズルサや悪さをどうやって押さえ込むかが大切なんじゃないかな」 「どうすればいいの?」 「それはどんなに時間がかかっても自分で考えるしかないね」 「教えてくれないの?」 「嫌だね」 「おじさんは意地悪だね」 「そうだね、とても意地悪だね」 「友達に嫌われるよ」 「友達はいないよ」 「ふーーーん」      おわり。 

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