先般、私書箱に郵便物を取りに行くと、様々な請求書やDMの中に一枚の往復葉書きが混ざっておりました。見れば、それは結婚式の招待状でした。私は折に触れ、各様なところで、冠婚葬祭を嫌厭し絶対に出席しないことを声を大にして強力に訴えてきたにもかかわらず、未だにこの様な失敬千万な輩が招待状と言う名の脅迫状を送りつけてくるのです。そうです。結婚式やパーティーに他者を招待すると言う事は恐喝なのです。想像してみましょう。ある日突然一枚の葉書きが届きます。それには、「某月某日の某時に、それなりの金子を持って某所に現れよ。もし来なかったらもう友達じゃないかんな。絶交だかんな。わかってんな。」という主旨を婉曲に認めてあります。これを恐喝と言わずして何を恐喝と言うのでしょうか。私に届いたその招待状の差出人を検めると、比較的親しい知友の姓氏がありました。私は恐喝された恐怖に戦き、震える手で本人に電話しました。「貴方はどうして私を恐喝するのですか。嫌がることを知っている筈の貴方が、どうして私を無理矢理出席させようとするのですか。幸せの押し売りはやめて下さい。」「そうかあ。俺の結婚式だったら流石のお前も出席してくれるかと思ったんだがなあ。甘かったなあ。参った参った。わかったよ。諦めるよ。お前には敵わんなあ。落ち着いたらどこかで一杯やろう。悪かったな。じゃあ。」私は、恐喝を止めてくれた知友に感謝すると共に、心少し安堵しました。誤想してはなりません。私がこういった催事を極度に嫌悪するのは、出席するのが面倒だとか、金子を差し出すのが厭だとかいうケチな事が理由なのではない。幼少の頃より、私は、不特定多数の者が特定の場所に集合し、一事に向かって邁進する行為が生理的に受け入れられないのである。どうしてもダメなんだなあ。それは、入学式であり、遠足であり、運動会や体育祭や学園祭であり、林間学校であり、修学旅行であり、卒業式であり、大人になってからは、冠婚葬祭、歓迎会、送別会、社員旅行、訳のわからないパーティーなどであります。無理に参与すると、ものの5分も経たないうちに脱走したくなってしまうのです。透徹した個人主義である私の視点からすれば、これらの催事は、蒼海を浮泳する鰯の群れ、或いはまるでマスゲームの様に映るのです。嗚呼、厭だ厭だ。恐ろしい。何ゆえに人生は、私の厭な事ばかりがつきまとうのでしょうか。そういえば過日、戦慄すべき制度が施行されました。裁判員制度です。これも、結婚式の招待状と同様に、恐喝以外のなにものでもありません。ある日突然見慣れぬ郵便物が届きます。それには「、某月某日某時に、某地方裁判所に来られよ。まあ、金子を持参せよとまでは申さぬが、何としても来られよ。来なかったら10万だかんな。貴様の氏名も住所も知ってんだかんな。憶えとけよ。」っとこんな感じの恫喝文が記されています。怖いですね。本当に怖い。裁判員制度に関して、ある反対派には、人が人を裁くことは出来ないとか、人を裁く事は信条に反するから10万円を払ってでも辞退する。などともっともらしい事を大真面目に主張している諸人がいるが、正真正銘のオメデタ野郎である。彼らは、前稿で述べたマスメディアの狡猾で巧みな、事物の本質を覆い隠す世論誘導の罠に、見事にはまった人々である。裁判員制度の恐ろしさの本質は、なんら違法行為も犯罪も犯していない善良な市井の臣を、国家権力によって強制的に隷従させる事にある。裁判員制度は、言わば現代の赤紙なのだ。オソロシヤ、オソロシヤ。赤紙来たらヤダな。逆らえないもんな。10万円払うのもヤダな。そもそも現在の日本の裁判制度は無数の重大な欠陥や問題を内包し硬直化している。公正性など全く期待できない。刑事裁判の有罪確定率が99パーセント以上という事実が全てを物語っている。そんな現状において裁判員制度などというちゃちな(でもひたすら恐ろしい)制度を導入したところで絶対になーんにも変わらない。もともとの企図が刑事裁判に民意を反映させる事ではないんだから。なんかホントにこの国は日々刻々と危ない嫌な国になってゆきますね。さて、私はそろそろ修行の時刻です。さらばじゃっ!