2010年07月07日

引き籠れニッポン

地下鉄の中で優先席に座りながら、目の前に老人や障害者、妊婦が立っていても席を譲らない若者に怒りを覚える大人は極めて低いレベルで思考停止している相当深刻な馬鹿である。私は斯様な光景を見るに、「なるほど、至当だな。譲る訳ないよな。やっぱり若者は正直で正しいな」と安堵する。覇気のない若者、労働意欲の無い若者、些細な事ですぐに挫け、何をやっても長続きしない若者、義務を拒否し権利ばかり主張する若者を「そうだそうだ、君たちは論理的且つ徹底的に正しい。そのままでいいんだ。何も変える必要などない。素晴らしいぞ!」と心から助勢したくなる。言うまでもなく、子供から若者まで(つまりは大人未満の人間)の生活態度や行動形態を決定づけるのは家庭教育、公教育そして社会情勢である。高度経済成長期を奇貨として、当時の愚昧な宰相が発した所得倍増計画などという安手の言句に翻弄され、何ら批判的精神を持たずに唯々諾々と国家に隷属してきた今の老人(当時の大人)が前述の若者達を生み出したのだ。今の若者の親の世代、そのまた親の世代がやってきた事の結果が今の若者といえる。若者に全く責任はない。全ての責任はその時代の親、或いは大人にある。優先席を譲らない若者に怒る老人や大人は、自分のやってきた事の結果に怒っていることになる。本物の馬鹿だなあ。馬鹿の極みとしか言えない。この現実を目の当たりにしても、少なくとも自分の子供はあんな若者ではない、正しい教育をしてきたと胸を張る親がいる。確かにそうかもしれない。あなたの子供は優先席でなくとも率先して弱者に席を譲るかもしれない。努力家で働き者かもしれない。そして通俗的には好感の持てる若者として評価されるだろう。しかし、実はあなたがいわゆる良い子を育てたところで残念ながら殆ど社会的意義はないのである。問題の本質はあなたが現役時代に、社会に対して主体性を持って何をどう働きかけてきたのかということなのだ。この問いに自矜を持って応じられる人は私も含めて殆どいないであろう。ではどうすればよいのか。全く何もしなくてよいのである。自らを原因とする行いの結果は、あるがままを潔く甘受するのが正しい。優先席を譲らない若者を見ても決して怒ってはならない。公共の場で傍若無人に振る舞う若者に文句を言ってはならない。批判してはならない。しかと見届け自省するべきである。その光景はまさにあなたがやってきた事の結果なのだから。他方、当の若者はどうすればよいのか。どうせ生きる意欲がないのなら、思う存分引き籠りましょう。私は引き籠りが悪いとは全く考えない。むしろ引き籠りとは、現代社会において最もスタイリッシュでソフィスティケイトされた対社会レジスタンスだと断じる。一切の生産活動を拒絶し、自室に閉じこもってひたすら親の財産を食い潰すその画期的且つ強力な戦略は、自然発生的とはいえ実に見事であり称賛に値する。家族以外の他者に直接的被害を及ぼす事もない。さらに引き籠りは、最終的には自己破滅を招く事を覚悟の上で遂行されており、この点においても極めて清廉で精神的美学を感ずるのである。引き籠りは、対社会レジスタンスにおける至高の完成型であり金字塔なのだ。以上の美点を鑑みて、私は若者に引き籠る事を強く勧める。些か齢をを重ねすぎたが、私もそのうち必ずや引き籠ってみせる。多くの若者が引き籠ればそのうち税収は減じ、ただでさえ多い外国人労働者が増え、貧富の差はますます拡大し、治安は悪くなり、日本は加速度的に荒廃し衰退し、崩壊する。すでに日本は間違いなく斜陽国である。斜陽国の何が悪かろう。何の因果か、自分が偶然生まれおち、一時は隆盛を極めた国家が老いさらばえ、朽ち果て、崩壊してゆく様をゆったりと眺めるのも悪くないではないか。私は是非ともその瞬間に立ち会いたい。枯れ木の姿にも味がある。そもそも資本主義国家が永遠に経済発展を続けるなどということはありえないのだ。そして全ては前時代を無責任に生きた大人のせいなのだから。ここは一つ、潔く現実を受け入れませう。
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