2010年07月20日

ケーサミーノの実際

私にとって酒を呑むという行為は、滅法峻厳な研鑽であると、以前この場で何度か述べた。しかしながら甚だ不本意な事に、私のこの主張を質直に信用せず、不信感や疑念を抱き、邪推する無礼極まりない読者が多く潜んでいる事実が判明した。判明した以上、この失敬千万な状況を放置しておくわけにはいかない。毎夜毎晩自らを律し、酷烈な修行に忍の一字で耐え抜いている私に対し何たる非礼であろうか。そのような非礼で想像力に欠けた読者の為に、その修行が如何に厳しいものであるか、ここに逐一述べてゆく事とする。まず始めに、その伝説とも言える飲酒道の銘は「ケーサミーノ道」である事を宣言する。それでは以下に、「ケーサミーノ道」の実際を記すが、襟を正し、厳粛な心持を保ち、細大漏らさず理解し修得する努力をして頂きたい。また、ケーサミーノ道には、極めて高い技術が要求される、或いは家庭崩壊や身の危険が伴う内容も含まれている為、初心者は決して無理をせず、まずは自分にとって可能な範囲でケーサミーノ道を励行されたい。一方、それらの危険を一切顧みず、難攻不落のケーサミーノ道に身を投じる覚悟のある者はこの限りではない。ではその実際に移る。目途の店(頻通する店と仮定する)の前に到達する。既に左手には、そこばくの痙攣症状が顕れているが、焦ってはいけない。一度深呼吸をし、沈着に呼吸を整え、年季の入った暖簾をくぐりつつ静かに引き戸を引いて店内に入る。早くもここからが難関である。店内に入ると同時に、板場に立つ主人に目礼する。大声で「こんちはー」とか「こんばんはー」とか「ようっ!」とか「あー、暑い暑い!」など、厳禁です。あくまで目礼。この目礼をする一瞬によって、その日の主人の機嫌を見抜きます。目礼に続いて流れるような所作で眼球のみを動かし店内を一瞥し、客の入りを確認します。続いて着席となる訳であるが、何時もの自分の席に見慣れぬ先客が陣取っていても、慌てたり、取り乱したり、不機嫌になったりしてはいけません。このレベルでうろたえるようでは、ケーサミーノ道では門前払いとなります。たまには違う席も好いもんだと考え動揺を抑制します。冷静に、おもむろに、先客の二つ右隣に着席します。さて、ここまでの段階で、その日の店の状況を完璧に把握しなければなりません。この状況把握の良否が、その晩の全てに影響してくるのです。ケーサミーノ道の入門試験では、ここまでの制限時間が7秒とされています。一秒の遅れも許されません。厳しいでしょう。かなりの才能を持った者であっても、初めはどうしても19秒位かかってしまうようです。たゆまぬ鍛錬によって少しずつ時間を縮めてゆくしかありません。ちなみに私の様な酒神(ケーサミーノ道では究極の最高位で「しゅじん」と読み、その下位には酒鬼、酒霊、酒魂、酒聖、酒星、酒雷、酒皇、酒王、酒臣、酒賢、酒凡、酒獣、酒牙、酒畜、酒堕、酒貧、酒卑、酒屑、酒糞、と続き、更にその下位には10段から20級までの段位が設定されている)ともなると、暖簾をくぐった瞬間から着席までに必要な平均時間は、約2秒です。まさに電光石火の所業と言えるでしょう。また酒神である私の身のこなしは敏捷なだけでなく、著しく滑らかな為、店内の空気を殆ど揺らしません。であるからして、私が入店し着席した事に店員が気付かない場合が良くあります。この歴然たる事実一つを採っても、私が練達の酒神である証左となりましょう。第二段階に移行しましょう。カウンター席に着席しても、箸、ボトル、氷、通しがなかなか出てきません。ここでもやはり機嫌を損ねてはなりません。店で働く人達にも様々な事情があるのです。眉毛一つも動かさずに煙草に火をつけ紫煙を燻らせます。この時っ!!ジッポーは駄目です。ダメダメです。ジッポーのあの開閉時に発生する金属音はいけません。耳障りです。ダンヒルやカルティエ、デュポンなら及第点、サロメの蓋なしガスライターあたりであればモアベターです。さあ、一式がそろったところで、いよいよ一品目の肴の注文です。この時に、先程の第一段階での状況把握が生きてくるのです。板場の主人の体調、或いは機嫌が悪そうな時、また店が混雑している時は、手間のかからない簡単で値の張る肴を注文します。主人の機嫌も良く、店も空いている場合、遠慮なく好きな料理を頼みましょう。この程度の事は、少し呑み慣れている御仁であれば実行されているかも知れません。この先がケーサミーノ道の本領である。主人の機嫌は良いが、店が混雑している場合、串物を注文する。何故か。串物は焼いている間、手を離す事が出来、その焼け具合を横目で見ながら別の料理を同時進行させる事が可能だからです。主人の機嫌が悪く、店が空いている時、こんな場合は迷わず一番値付けの高い料理を御願いしましょう。主人の機嫌も少しは回復する事でしょう。どうですか。ここまで読んで読者諸賢も少しはケーサミーノ道における細やかな気配り、厳しさを感じとれたかと思います。そうなんです。呑み屋では、何時でも自分の好き勝手に料理を注文出来る訳ではないのです。店内に飛び交うありとあらゆる情報を全て瞬時に把握し、永年の経験に基づいた完璧ともいえる判断によって注文する料理を決定せねばならないのです。端的に言えば、店主以下、従業員と私は一致団結し、その日の営業を盛りたててゆくのです。ここまで気を使うと本当に疲れる。酔ってる暇も料理を味わっている余裕もありません。もう客なんだか従業員なんだか判らなくなってしまいへとへとです。ですから修行なのです。当然ではありますが、この他にもケーサミーノ道の道訓は数限りなく制定されている。その主要な一部を列挙する。どんなに通い詰めた店でも常連面をしてはいけない。複数で呑む場合、極力2、3人にとどめ、多くても4人にするべし。(大人数になればなるほど緊張感が低下する為、どうしても会話のボリュームが上がり、他の客の迷惑になることに加え、団体客は客単価が下がるため店にとってもあまり嬉しくないのです)店の人に馴れ馴れしく接してはいけない。裏メニューなどを食べて得意になってはいけない。ちょっと火の通りが甘い料理が出されても怒ってはいけない。(忙しい時にはそういう事もあります)店主が何かサービスしてくれた時には心から感謝すべし。店員との会話は原則敬語で通す。客同士で決して派閥を形成してはならない。女性店員をオネーチャンと呼んではいけない。オネーサンはぎりぎりセーフである。酔えば酔うほど声を小さくすべし。理屈を語ってはならない。あらぬ事を口走ってはいけない。足元がふらついてはならない。なるべく自転車で移動し、必ずまっすぐ走らねばならない。そして酒手は何時も少し多めに置いてゆくべし。しかしながら、いざという時の為に、タクシー代まで使い込んではならない。皆さん、これを読んだだけでケーサミーノ道を理解したようなつもりになってはいけません。慢心は失態を演じる元凶です。実践をともなってこそのケーサミーノ道なのです。さあ厭な事は全て忘れ、今すぐにシャワーを浴び、家族の制止を振り切り、財布を掴んで夜の街に飛び出そう!

 

 

 

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