カウンター左隅における思惟

週に一度の休日にブランチを食べに行く店がある。知る人ぞ知る地味で小さな名店だ。開店時刻を15分も過ぎると、すぐに満席になってしまうので、私は朝湯の後、何時も11時の開店時刻にぴたりと店に参上する。美々しいほどに磨きこまれた白木のカウンターの左隅が定席だ。左利きであるからして、隣客と肘が喧嘩しない様に、何処の店でもカウンターの左隅を定席にしている。カツレツを肴に昼酒が始まる。ただでさえ繁劇な店であるし、昼酒の長っ尻は野暮天の極み、ぐいぐい呑んでぺろりと喰って、とっとと二軒目に流れる。流れ先の話はまあそのうちにって事にして、先度の休日、このカツレツ屋に定刻定席着席。天色のせいか客足も遅く少ない。珍しく板場の料理人が声をかけてきた。「毎度有り難う御座います」 「うん、ここのは旨いからねえ。世辞じゃないよ、ホントだよ。不味かったら毎週毎週馬鹿の一つ覚えみたいに通いやしないよ」 「嬉しいねえ」 「きっとなんか他人にはわからない秘訣ってもんがあるんだろうねえ。技って言うのかな」 「秘訣?別に秘訣も技もなんにもありゃしませんよ。嘘じゃありません。材料だって全部近所のスーパーで売ってるもんと同じですよ。実際、材料足りなくなるとそこのスーパーで買ってくることもあるし。何処でも売ってる材料で当たり前に丁寧に作ってるだけ。ただね、化調、化学調味料って奴ね。あれはいけません。ありゃインチキだね。あんなものを使った料理を平気の平左で客にだすなんて、あたしにはとても出来ません。化調とか食品添加物とかね、プロの料理人が使って恥ずかしくないのかね。だって手抜き、誤魔化しでしょ。そういう店はどんなに口で上手い事言ってても腹の底では客を馬鹿にしてるんだ。手抜き、誤魔化しのインチキ料理を客に出してるんだからね。売れりゃあいい、儲かりゃそれでいいってことなんだろうねえ。そんなね、アルバイトでも素人でも作れるような料理を出す店ばかりだからこんなクソ面白くない世の中になっちまったんだろうねえ。もっとも、そんなインチキ料理を旨い旨いなんて喰ってる客も間抜けだけどね」 「ま、おれもそう思うね」 「いやね、あたしだって一歩店を出りゃあハンバーガーも喰えばインスタントラーメンも食べますよ。だけどそれはそれ。店で客に出す料理に化調なんて使うのはプロとは言えないね。恥知らずだね」 「確かにさ、化学調味料って独特の味が舌に残るよね。あの感じですぐにわかるよ。あ、この店化学調味料使ってるなって。客にすればがっかりだな。二度目は無いね」 「家庭料理とかインスタント食品だったらいいんですよ。別に化調を使ったって。もともとそういうモンなんだから。だけどさ、客からお代を頂くプロの料理人が化調を使うってさ、もう話になんないよね。ホント呆れるだけ。ま、今はそんなインチキ料理人が殆どだけどね」 「そうか、特別な材料なんて使わなくても手をかけて誤魔化さないで丁寧に作ればこんな旨いもんがちゃんと出来るんだね」 「お客さんにそう言ってもらえると嬉しいけど、あたしはそれが普通だし当たり前だと思ってるよ。今日はちょっと演説しちゃったな」 「いや、好い話を聞かせてもらったよ。旨かった。御馳走様」、とまあこんな具合の話を聞いた。化学調味料を使っている飲食店に言わせれば、「今さら何言ってんの?みんな使ってるでしょ。何が悪いの?」ってところだろう。実際、化学調味料を使う事は犯罪ではないし、些細な事かも知れない。しかしこういった些細な事の積み重ねが、プロとしてのプライドや倫理観の崩壊を招き、一時世間を賑わした食品偽装問題や賞味期限改竄問題、船場吉兆の食べ残し使いまわし事件に発展した気がするのである。その後、私が夜な夜な通う割烹の板前にも聞いてみた。「化調?冗談言っちゃ困ります。あんなもの使うんだったら商売やめますよ」 「頼もしいねえ。ここの出汁は抜群だもんなあ」 「ウチの料理の味が薄いって言うお客さんがたまにいるんですよ。でも俺はわかってるんです。そういうお客さんは化調で味付けした料理の味に慣れ切っちゃってて舌が麻痺しちゃってるんです。だから化調が入ってないと何を食べても味が薄く感じるんでしょうね。ここだけの話ですけど、そういうお客さんは板前に笑われてるんですよ」 この店も決して高級店ではない。ごく普通の店構えの良心的な勘定の店だ。こんな誇り高い店が身近に沢山ある地域で宵を過ごせる事実を思い返す時、私は感佩措く能わずといった心境に至るのだ。飲食の世界に限らず、ありとあらゆる業界で、毛唐仕込みの市場原理主義とやらが蔓延り、 真偽よりも、倫理よりも、真理よりも、品質よりも、安全よりも、更には人命よりも利潤を優先する途轍もなく破廉恥な社会に成り下がってしまった。プロの料理人の大半が、躊躇う事無く化学調味料を使っているという恥ずべき現実が、この浮世のザマを象徴しているのではないだろうか。
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