信憑の記憶

小学校に上がると、私はいつも休み時間に一人で本を読んだり、考え事をしたりしていた。すると決まって先生(なんとも嫌味なババア)が私にヒタヒタと接近してきて、「Y君はどうしていつも一人でいるの?みんなと遊ばないの?ドッジボールやらないの?」といような愚問を投げかけてきた。今であれば「じゃあどうしていつもみんなは意味もなく一緒にいるの?どうしていつもみんなベタベタ一緒に遊んでいるの?どうしてみんな一緒にドッジボールなんてくだらない事をやっているの?」と強烈な皮肉カウンターを食らわしてやるところだが、何せ当時は6歳の童子である。口では「わかんないや」と答えると同時に腹の中で「うるせーなババア!ほっとけよ!化粧臭えんだよ!早くあっち行け!しっしっ!」と叫ぶのがせいぜいであった。私は特に運動が苦手であった訳ではない。それどころか、駆けっこに限っては生まれつき異様なまでの俊足を誇り、しかも全速力で走りつつ西へ東へと激しく曲がれる俊敏性も併せ持っていた為、いったん私が走り出したら最後、大人でも捕捉する事は出来なかった。この俊足を武器に数々の難局を乗り切ってきた事は紛れもない事実である。警察官に犬の糞を投げつけたり、思い切り蹴飛ばしては逃げるという遊びが大好きであったが、殆ど捕まった事は無く、俊足というこの天賦の才能に子供ながら心腑深く鳴謝した事を記憶している。年端もいかぬ餓鬼に犬のクソを投げつけられ、怒り狂った警官が鬼の形相で追走してくる。この恐怖と切迫感が攪拌された精神状態は、私の俊足に更なる力を注入し爆発的ともいえる加速を示した。そして哀れなクソ塗れ警官から逃げおおせた時の痛快極まりない得も言われぬ充足感は、自らの能力を再認識すると共に悪の童心の、文字通り「肥し」となった。この悪事を遂行する際に発揮される到底童子とは思えぬ私の狡猾さは、いま考えても実に際立っていた。極めて高い成功率を保ち続けたのは、俊足のせいだけではない。まず任務は必ず一人で実行すること。複数人で犯行に及ぶと、その中には必ずと言って良いほどマヌケのボンクラが混入する為、そのマヌケの失策によって芋づる式に捕まってしまう。次に、犯行に及ぶ地域は自宅から遥か離れた地域に設定すること。面が割れている自宅付近では、その時逃げ切れたとしてもいずれ捕まるのは時間の問題である。更に、犯行前に現場に足を運び、あらゆる負の可能性を考慮に入れ無欠の逃走ルートを組み立てる。これほどまでの綿密かつ周到な準備をすれば、確かに捕まらないだろうな、と思った貴方は甘い。重要な遵守事項がまだある。この悪事は犯行から次の犯行までに、必ずや2週間以上の間隔を空けなければならない。言うまでもなく、犯行直後は敵も相当警戒している。敵の緊張感が高まっているときに犯行に及べば、捕まる確率が倍加してしまう。敵の警戒が緩むのに、2週間以上の時間が必要である事は、経験上知得していた。しかし、成功率100%を誇っていたその私が、犯行回数数十回目に、遂に捕まったのである。敵は数に物を言わせ、私の逃走範囲の辻という辻に警官を配備したのである。あくまで、クソ投げ攻撃を加えた警官との一騎打ちを望んでいた私は、このなんとも大人げなく非礼な捕捉手段に、「このやり方絶対反則だよな」と、すっかり熱意を失い、しおしおと捕まった。大柄の警官にがっちりと腰のベルトを掴まれた私はなす術なく連行された。ところがこの犯行劇の一部始終を物陰からしかと見ていた者がいたのである。塗装屋の倅の清水であった。以前から清水は、私のこの悪事に強い参画意欲を見せていたが、私は彼が粗雑粗暴な気質である事と、任務は必ず一人で遂行すべしという理念から、その要求を退けていた。その清水が犯行に及ばんとする私を尾行し終始観察していたのだ。清水の存在に気付き、視線を合わせた私は、これ以上ない屈辱を味わい、醜態を見られた怒りに満ちた眼で彼を睨みつけた。しかし清水はそんな事はお構いなしに私と警官に、素早く静かに近付いてきた。そして清水は警官の前に回ると、自宅から隠し持ってきたであろう赤い缶スプレーを、警官の顔面にこれでも食らえとばかりに吹き付けた。一瞬で全てを察知した私は、清水のスプレー攻撃に怯んだ警官の手を振りほどき、得意の俊足で走り出した。「Jちゃん!!そっちは駄目だ。!!こっち来い!!」「よしきた!付いて行くぞ!」。私の方がやはり速かったが、清水は一所懸命に先導してくれた。かくして私は再び自由の身となったのである。この一件で、私は清水という男に絶大な信頼を寄せ、心の底から感謝した。しかし、その後も特に親しくなるわけでもなく、一緒に遊ぶわけでもなく、言葉を交わすことさえ稀だった。ただ、清水は私の悪事に憧れ、私は清水の勇敢さに敬服していた。それだけである。風の便りで、その清水が死んだ事を聞いた。30数年前に、危機的状況から私を救出してくれた男が死んだそうだ。私は、葬式なんてどうでもいいし、彼の墓の場所なんて知りたくもない。この酷薄な私の心の中に、清水という男の記憶が30数年に渡って残っていただけで十分ではないか。私はこういう人間関係こそ最も素晴らしいものだと思うのです。これは、「いつもみんなと一緒にいた」り、「いつもみんなとドッジボールをやっていた」者たちには、決して到達出来ない境地なのです。

 

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