スタッフブログ

騙されて良い事と悪い事

鴨が食いたいなあ。合鴨じゃなくて本鴨。合鴨なんて偽鴨だからな。まあこの時期野鴨は無理だろうから、本鴨なら何でも宜しい。調べて電話致しました。「もしもし、本鴨を食べさせて頂きたいんですが、そちらで使われている鴨は本鴨ですか。合鴨じゃあ嫌なんです。本鴨が食べたいんです。」「勿論うちで使っているのは本鴨です。合鴨ではありません。」「そうですか。安心致しました。それでは今晩お邪魔致しますので、リザーブしておいて下さい。一人です。」本鴨を食える喜びをかみしめながら、その晩私はいそいそと出かけてゆきました。「今晩は。昼間電話で予約した者ですが。」「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。カウンター席へどうぞ。」たいそう小奇麗で洒落た店です。六割がた席は埋っていますが、大声で話すような下卑た客はおらず、静謐を保っております。「いかが致しましょう。」「お酒は浦霞、それと冷奴と鴨の陶板焼きを下さい。」「かしこまりました。」カウンターの中の板前は、国士舘大学柔道部出身といった空気を醸す、かなりの強面です。私なんぞは鼻息一発で吹き飛ばされてしまいそうです。斯様な、国士舘大学柔道部出身的強面板前が包丁を握って板場に立って居るのですから、なるほど店内が静まり返っているのも頷けます。浦霞と冷奴がきました。私は早速一杯やりました。???なんか何時も呑んでる浦霞の味と違います。香りも。冷奴も旨くありません。おまけに絹ごしです。もう一杯呑んでみました。違う!あきらかに浦霞ではない!「すみません。」「はいっ!」「私、浦霞を頼みましたよね。」「はいっ!」「これ本当に浦霞ですか。なんか味が違うんですけど。」「はいっ!お客さんよくわかりましたねえ。凄い!実はそれ一ノ蔵なんですよ。」「ええ!浦霞頼んだんだから浦霞下さいよ!」「浦霞切れてるもんで。」「だったら切れてるって言えばいいでしょ。」「まあ日本酒ならどれでもそんなに変わらないと思って。それにどちらも宮城のお酒だし。」「・・・・・・・・・それとねえ、この冷奴。これパックから出して薬味乗せただけでしょ。」「冷奴ってそういうもんじゃないんですか。」「あのさあ、それじゃ牛どん屋で出てくる冷奴と同じでしょ。こちらみたいなきちんとした(きちんとしていないようです。)料理屋さんで出す冷奴ってのは、昆布だしでさっと湯がいてから氷水で冷やすもんでしょ。」「・・・・そうなんですか。そういうもんですか。」「そういうもんですかって・・・・・・・」「よしっ!じゃあそれ、いまからやってみますよ!」「もういいですよ。これ食べるから。」「どうぞ、召し上がってください。葱は良い葱ですよ。足立葱です。」「ホントかなあ。」「ホントホント、葱はホントに足立葱です。」私はこの店に漸次好感を持ち始めました。そうこうしているうちに、鴨の陶板焼きが出てきました。何と言っても本鴨です。これが食いたかったのです。香りも大変宜しい。しかし何と無く肉の色味が薄いな。まあいいや。さっと焼いてパクリ。「モグモグ、フムフム、ンン、オオッ!、ヤヤッ!、アレッ!、コレハッ!」「すみませーん。」「はいっ!」「これ本鴨ですか。どうも柔らか過ぎるし、肉の味も薄いんだけど、ホントに本鴨?」「・・・・・流石っ!お客さんには参りました。はいっ!合鴨です。」「ちょっといいですか。私は本鴨が食いたくて来たんですよ。しかも昼間電話で確認しましたよね。本鴨ですかって。」「はい・・・・。」「嘘ついたんですか。」「はい・・・・。」「どうして?」「是非いらしていただきたかったもので・・・。」「・・・・・・・・。」私は錯乱した心持を落ち着かせる為、暫し、浦霞改め一ノ蔵を呑み、本鴨ならぬ偽鴨を食しました。その結果、この嘘つきなんだか、正直なんだか、詐欺師なんだか、素直なんだか、判別不能の国士舘大学柔道部出身的板前兼店主が甚だ好きになりました。是非また来ようと思念いたしました。さて、話は変わって、私の自宅のエアコンの設定温度は17度です。もうこれより下がりません。寒いのなんのって、具合が悪くなりそうです。こうして二酸化炭素を出来るだけ大量に排出し、官民一体となって世を騒がせている、あきれるほど馬鹿馬鹿しい二酸化炭素主原因説似非温暖化ブームに身を挺して徹底抗戦しているのです。馬鹿かと思うかもしれませんが、馬鹿にしてはなりません。京都議定書はヨーロッパ諸国が日本を騙し、金を巻き上げる為の詐欺契約に過ぎません。何よりの証拠が排出権取引です。排出権を証券化し、日本から金を強奪し、さらに利ざやを稼いでいます。さあ!読者諸賢もエネルギーを浪費し、二酸化炭素を大量に排出する現代生活を謳歌しようではありませんか。温暖化なんて全くのウソですよー。100年前にはまともな温度計なんてなかったんですよー。サヨナラー。

 

個と公

先般、私書箱に郵便物を取りに行くと、様々な請求書やDMの中に一枚の往復葉書きが混ざっておりました。見れば、それは結婚式の招待状でした。私は折に触れ、各様なところで、冠婚葬祭を嫌厭し絶対に出席しないことを声を大にして強力に訴えてきたにもかかわらず、未だにこの様な失敬千万な輩が招待状と言う名の脅迫状を送りつけてくるのです。そうです。結婚式やパーティーに他者を招待すると言う事は恐喝なのです。想像してみましょう。ある日突然一枚の葉書きが届きます。それには、「某月某日の某時に、それなりの金子を持って某所に現れよ。もし来なかったらもう友達じゃないかんな。絶交だかんな。わかってんな。」という主旨を婉曲に認めてあります。これを恐喝と言わずして何を恐喝と言うのでしょうか。私に届いたその招待状の差出人を検めると、比較的親しい知友の姓氏がありました。私は恐喝された恐怖に戦き、震える手で本人に電話しました。「貴方はどうして私を恐喝するのですか。嫌がることを知っている筈の貴方が、どうして私を無理矢理出席させようとするのですか。幸せの押し売りはやめて下さい。」「そうかあ。俺の結婚式だったら流石のお前も出席してくれるかと思ったんだがなあ。甘かったなあ。参った参った。わかったよ。諦めるよ。お前には敵わんなあ。落ち着いたらどこかで一杯やろう。悪かったな。じゃあ。」私は、恐喝を止めてくれた知友に感謝すると共に、心少し安堵しました。誤想してはなりません。私がこういった催事を極度に嫌悪するのは、出席するのが面倒だとか、金子を差し出すのが厭だとかいうケチな事が理由なのではない。幼少の頃より、私は、不特定多数の者が特定の場所に集合し、一事に向かって邁進する行為が生理的に受け入れられないのである。どうしてもダメなんだなあ。それは、入学式であり、遠足であり、運動会や体育祭や学園祭であり、林間学校であり、修学旅行であり、卒業式であり、大人になってからは、冠婚葬祭、歓迎会、送別会、社員旅行、訳のわからないパーティーなどであります。無理に参与すると、ものの5分も経たないうちに脱走したくなってしまうのです。透徹した個人主義である私の視点からすれば、これらの催事は、蒼海を浮泳する鰯の群れ、或いはまるでマスゲームの様に映るのです。嗚呼、厭だ厭だ。恐ろしい。何ゆえに人生は、私の厭な事ばかりがつきまとうのでしょうか。そういえば過日、戦慄すべき制度が施行されました。裁判員制度です。これも、結婚式の招待状と同様に、恐喝以外のなにものでもありません。ある日突然見慣れぬ郵便物が届きます。それには「、某月某日某時に、某地方裁判所に来られよ。まあ、金子を持参せよとまでは申さぬが、何としても来られよ。来なかったら10万だかんな。貴様の氏名も住所も知ってんだかんな。憶えとけよ。」っとこんな感じの恫喝文が記されています。怖いですね。本当に怖い。裁判員制度に関して、ある反対派には、人が人を裁くことは出来ないとか、人を裁く事は信条に反するから10万円を払ってでも辞退する。などともっともらしい事を大真面目に主張している諸人がいるが、正真正銘のオメデタ野郎である。彼らは、前稿で述べたマスメディアの狡猾で巧みな、事物の本質を覆い隠す世論誘導の罠に、見事にはまった人々である。裁判員制度の恐ろしさの本質は、なんら違法行為も犯罪も犯していない善良な市井の臣を、国家権力によって強制的に隷従させる事にある。裁判員制度は、言わば現代の赤紙なのだ。オソロシヤ、オソロシヤ。赤紙来たらヤダな。逆らえないもんな。10万円払うのもヤダな。そもそも現在の日本の裁判制度は無数の重大な欠陥や問題を内包し硬直化している。公正性など全く期待できない。刑事裁判の有罪確定率が99パーセント以上という事実が全てを物語っている。そんな現状において裁判員制度などというちゃちな(でもひたすら恐ろしい)制度を導入したところで絶対になーんにも変わらない。もともとの企図が刑事裁判に民意を反映させる事ではないんだから。なんかホントにこの国は日々刻々と危ない嫌な国になってゆきますね。さて、私はそろそろ修行の時刻です。さらばじゃっ!

翻弄される衆人

その後、御座れ親父と遭遇する機会に恵まれず、反撃論破という目途は果たせずに過ごしております。相変わらず件の酒場には頻通しているのですが、仇敵はなかなかその姿を現しません。バーテンに、「奴は出没せぬか」と訊くと、「そういえば、一昨日来ましたよ。なんかあったんでしょうねえ、ずいぶんと荒れてましたよ。私もからまれました。」とさ。ふんっ。いい歳をこいて酒場でくだを巻くとは愚か者の戯け者の肥溜め野郎である。御座れ親父殲滅作戦は、なんとはなく、どうでもよくなってしまった。私がナチョスとテキーラを注文し、カポンカポンとやっていると、見るからに倣岸不遜な60過ぎと思しき偉丈夫が、私から少し離れたカウンターのスツールにどしんと座った。俺は偉い人なんだぞビームを強力に放っております。私は、偉い人を無条件に厭悪する気尚を持っている為、話しかけられても黙殺し、その夜は黙飲を決め込む事にした。その偉い人とバーテンの直談に聞き耳を立てていると、「最近の者は新聞を読まなくていかん!」と息巻いています。馬鹿である。救いようの無い頓馬である。やっぱりこんなシーラカンスみたいな大人が今でも生きているんだなあ。世上は良くならない訳だ。私はもう20年以上前から新聞の一文字も読んでいないし、家宅にテレビも無い。情報は全てターゲットメディアから得ている。その方が遥かに世情に精通する事を体験的に学んだからである。昔は、「私は毎朝全紙に目を通してから出勤しています。」というような事を自慢げに吹聴するオタンコナスが結構いた。この偉い人も、そういった人種の残滓であろう。かつて朝日には深代淳朗が天声人語を書き、本多勝一がルポを書くという黄金時代があった。私も貪る様に読んだものである。(誤解を防ぐ為に一応説明しておくが、私は深代淳朗や本多勝一の思想に心酔していた訳ではない。あくまで読み物としての水準が高かった為、夢中になって読んだまでである。)しかし現在のマスメディアとは、体制側に都合の良いように世論誘導する為の、たんなる資具であることはもはや隠しようの無い真実だ。つまり、新聞を読めば読むほどアホになり、テレビを見れば見るほどマヌケになる。直近の例えを挙げれば小沢一郎がついに党代表から引きずり降ろされた事だろう。マスメディアは連日の様に、小沢が党代表を辞めるべきか否かというあざとい世論調査を繰り返し、その結果を盾に世論誘導し闇将軍小沢を陥落させたのである。マスメディア恐るべし。一郎ちゃん哀れなり。さぞかし悔しがっているんだろうなあ。言うなれば、マスメディアとは真実を覆い隠す為に存在するのである。であるからして、私は斯様なマスメディアという汚辱にまみれ、悪臭を放つ悪党を蛇蝎の如く忌み嫌うのである。こんな事も識知せずに、若者に新聞を読めなどと叫んでいる偉い人には、「火星に行ってお経でも詠んでろ!」と言いたくなる。バーテンダーに対し、口角沫を飛ばして持論を展開していた偉い人は、私の冷酷な視線(目線なんて単語は絶対に使うな!)と冷笑する心府を感応したのか、そそくさと席を立ち、もうお帰りの様です。何だよ、シーバスリーガルのロイヤルサリュート全然呑んでねーじゃん。もったいねえなあ。酒を粗末に扱うとは、ますますの不届き者め!偉い人は帰り際に、私の肩をポンと一つ叩き「じゃヨロシク」と吐き捨てました。無礼者!見ず知らずの貴様に馴れ馴れしく肩など叩かれるいわれは無い!私はカウンタースツールから鞍馬天狗よろしく舞い降り、偉い人の脊背にバカボンパパキックを見舞ってやろうと想いましたが、この酒場のナチョスはあまりに旨いので、ひたすらそれを食んでいました。さて、こんな酔客談義ばかり書いていると、諸彦は、私が毎夜毎晩ヘラヘラヒラヒラと呑み歩いている様に想われるやも知れぬが、それは違う。著しい謬見である。本来、私は酒など大嫌いである。だが、酒は人生の肥やしであり、酒場は人生の縮図である。而して、私が酒を呑むという事は修行なのです。修行ですよ、修行。甚だ辛い修行です。実に辛い。酒なんかホントは嫌いなんですから。うあ、気が重いなあ、今夜も修行が待っているようです。諸彦、くれぐれも誤解無きよう!

 

 

 

悔恨の家路

「或る意味、」「正直、」「逆に言えば、」「世界観」「説明責任」「目線」「コンプライアンス」等等、私はこういった低俗、低劣、卑俗、浅劣な単語を何の抗据もなく安直に発する諸人を嫌忌すること至極であります。面話している相手がそんな言葉を吐こうものなら、弾丸の如く屋外にに飛び出し路上で大の字になり、両手両足をバタバタさせながら、「ソウイウコトユーノヤメレー!」と絶叫したくなります。実際には、そんな行動をとる訳にもいかない故、従容とした四囲を保ちつつ、憤懣をひたすら押さえ込むのです。今や一国の宰相までもが左様な言句を連発する時世であるからして、私が路上大の字両手両足バタバタ指弾攻撃をしても、どうなるものでもありません。過日、私が頻通する酒場のカウンターで隣席した白髪の、教養満タン何でも御座れ風貴紳が、事もあろうに私の面前で上記の浅劣単語を巧みに操りながら、バーテンダーに対し熱弁を奮っておりました。バーテンダーはひきまくっています。私はバルヴェニーの15年をやりながら、今宵は難敵じゃ、などと思念していたのです。その教養満タン何でも御座れ親父の呑み方が、これまたミミッチイ。ダブルグラスに入ったグレンフィディックが、全然減らない。文字通り舐める様に呑んでいる。おいっ貴様!何だそのつまらん呑み方は!ここは呑み屋だぞ!男だったらガバリガバリと呑んでみたまえ!俺なんか酒は何でもラッパ呑みだ!(それはウソだけど)と言ってやりたくなる程です。何でも御座れ親父は、驟雨の如き己の振弁に疲極したのか、にわかに押し黙り、放尿に旅立ちました。バーテンダーは嘆息しながら私の方を見て苦笑しております。バーテンダーと私は話しはじめました。バーテンダーが、この辺で旨い焼き物を食わせる所はないかと言えば、それならあそこだと私が答える。そんなお互い呑み食い好き同士が情報交換をしていると、放尿を終えた何でも御座れ親父がカウンターに帰還した。少間、閑々と二人の会話を聞いていた御座れ親父は、なんとしても話しに参座したかったらしく、突如「美食は敵ですぞ。」と私に言い放った。聞き捨てならん!貴様はショウペンハウエルか!美酒美食をこよなく愛する私に向かってなんたる事ぞ。私は気色ばんで、反撃に打って出た。ほほう、なるほど、それでは貴殿の御意見御高説を賜りましょう。御座れ親父の執意はこうである。「旨いものばかり食っていると、それ以下の食い物は全て不味く感じるようになり、そういう刹那的快楽はかえって人を不幸に陥れる。普段不味いものを食っていれば、それ以上の食い物は全て旨く感じるようになり甚だ人を幸福にする。」ああ!なんと心の貧しい思量であろうか。だがしかしである。うむむむ、、、。臍を噛むほどに口惜しいが、けだし合理的で正論だ。虚をつかれた私は二の句がつげずにバルヴェニーをガバリと呑んだ。何事にも合理性を重んじるのが私である。此処はひとつ大人であるところを見せねばならない。「今晩は大変ありがたいお話を伺いました。失礼致します。」と御座れ親父に叩額し酒手を払い、忸怩たる思いで家路についた。が、ここでこのまま、おめおめと引き下がる吾人ではない。次回は必定御座れ親父の持論を打ち破り、勝利の美酒に酔いしれることを誓ったのであります。そこで、前稿で発足を御報告した「呑み屋の偽装一合糾弾粉砕撃滅協議会」は直ちに解散し(悲しいかな、どなたからの応募もありませんでした。)、御座れ親父論破団を結成致しました。御座れ親父はショウペンハウエル、プルタルコスの使い手であり、かなりの論客である事が予察されます。強力な理論武装による援護を切に願うものであります。何卒!

暗黙の了解的偽装

歳をとると、心がカラカラのカサカサの、まるで煮干の様になり、何を見ても何を訊いても何も感じず、なんとも思わなくなってくるのが良くわかる。WBCで日本が優勝しようが、小沢一郎が続投を表明しようが、「ふーん、あっそ。だからどうしたの。俺、仕事が忙しいんだ。じゃっ。」てな具合である。まあこれは、私が浮世離れした仕事をしているせいでもあると思う。もっとも、前述の二つの件に関して、WBCが如何なる考量に基いて始まったものなのか、小沢一郎が何故特捜の攻撃を受けたのか、私は真実を識得しているのである。私の耳目は節穴ではないのだ。小沢一郎が特捜攻撃を受けた事由を推考すれば、この国を実際に動かしているのは誰なのか、何故WBCなるものが始まったのかを再考すれば、世界を動かしているのは誰なのかがはっきりと見えてくる。この国を動かしているのは政治家ではないのだから、国政であろうと地方政治であろうと、何万回、何百万回選挙をやっても社会構造は絶対に変わらない。読者諸賢も思い返して欲しい。果たして選挙で世の中が良くなった記憶がおありだろうか。仮にあったとしても、そんなものは微々たるもの、数年経てば元の木阿弥ではなかったか。そう、投票と言うものは、本当に行くだけ無駄である。選挙で世の中を変えるのは不可能なのだ。むしろ、だれも投票しないほうが余程効果があるかもしれない。っとまあ、私の厭世感を訴えるのはこれくらいにして、冒頭に述べた「加齢カラカラカサカサ煮干心(ニボシゴコロ)問題」である。そんな、加齢に伴う私の煮干心に潤いを与えるのが酒である。しかししかし、その私の心の親朋である酒にも、激甚な問題がよこたわっている。それは、「呑み屋の一合はどう見ても一合じゃないだろ問題」だ。昔から「呑み屋の一合は八勺也」などと言われているが、言語道断である。はっきり言おう。これは立派な詐欺だ。食品偽装問題が世を騒がせた時期があったが、私に言わせればあんなものはどうということはない。自分の味覚と嗅覚を日夕鍛錬しておけば騙されずに済む。がっ「呑み屋の一合はどう見ても一合じゃないだろ問題」は違う。感覚を鍛えれば克服できる事案ではない。誠に悪質であり、私にとっては死活問題であり、下戸にとってはどうでもよい問題であり、殆どの人にとっては馬鹿馬鹿しい問題であり、断じて許す事は出来ない。という訳で、私は余生をかけてこの題目と断固闘う決意をした次第であります。つきましては、「呑み屋の偽装一合糾弾粉砕撃滅協議会」を発足致しました。我こそは!と共鳴された方は恥ずかしがらずに是非御参画下さい。入会資格はただ一つ、全てを投げ棄て、命がけでこの問題と闘う事です。それでは読者諸賢、さよおならさよおなら。

群像と思考

東京マラソンである。迷惑以外のなにものでもない。私はこういう催事に参加せんとする人々の精神構造が全く理解できない。そんなに走りたいのであれば一人でいくらでも走っていれば良いではないか。その方がよほど快適かつ愉悦であろう。好きな時間に、好きな場所で、他人に気を遣う事も無く、思うがままに縦横無尽に走り廻り、疲れたらさっさとやめて帰ればよいのだから。花粉と排気ガスにまみれた都内を我先にと血眼になって走る人の群れを見ると、馬鹿馬鹿しさを通り越して失笑してしまう。スポーツというものは、概して著しく健康を害する。老いを恐れ、それに抗おうと無理矢理暴れまわれば、寿命を縮めるのは自明の理である。事実、私のまわりで成人後も執拗にスポーツを続けていた者は、みな早死にした。まあ、「貴様黙れ!それでも俺は走りたいのだ!」という人を止めるつもりはさらさらない。好きにすればよろしい。私が隠忍ならないのは、こういった催事が他者に甚大な損害を与えている事実と、権力者から与えられた機会に嬉々として飛びつき、低次元の精神的充足感を得ようとする隷属的な思考回路である。「そんなことは無い!」と言う者もあろう。しかし、御意見無用。貴方は自分の深層心理を自覚していないだけである。東京マラソンに限らず、WBC、オリンピック、国体、等々、このような前時代的大衆統制型スポーツイベントを何時まで続けるのであろうか。こんなものを続けている限り、個人主義に立脚した真に洗練された、自由で快適な社会は永遠に実現しないであろう。フォレストガンプを見よ!突如として一人で走り出し、走りまくり、疲れ果て、突如としてやめた。あれこそ誠のスポーツだ。斯く申す私も時折走る事がある。それは、電車に乗り遅れそうな時と、便意を催した時である。最尾に、枚挙した様なスポーツイベントは全て、政治的意図の下に始まり、政治的に利用されている事を付け加えておきたい。クワバラクワバラ。

凋落する動物

「継続は力なり」と申しますが、これは私の座右の銘でもあります。幼少の頃に両親からこの言葉を授かり、甚く得心した事を今でもしかと覚えております。爾来、私はこの格言を心の支柱として徹底的に継続してきたものが二つあります。それは酒とタバコです。あらゆる艱難辛苦を撃破し、それは筆舌に尽くしがたい大変な道のりでした。その甲斐あって私は、生半な事ではへこたれない強靭かつ極めて有能な肝臓と、如何なるものを吸い込もうと怯む事のないこれまた極めて勇猛な肺を手に入れました。これから先どのような困難が待ち構えていようとも、自戒の念をこめて、酒とタバコを断固継続してゆく所存であります。さて、私は大の愛犬家です。もう、犬とみればどんな犬でもジャストフレンドだと思っていました。がっ!最近、巷を闊歩している犬どもをみていると違和感を覚えるようになりました。街行く犬達の躾が良すぎるのです。私は躾の良い犬など大嫌いです。移動の自由を奪われ、捕食の自由を奪われ、咆哮の自由を奪われ、防衛の自由を奪われ、排泄の自由を奪われた犬をみていると哀れでなりません。躾と称して犬をロボット化する事は、人間のエゴでしかありません。躾の良い犬は、そういった人間のエゴを具現化した動物そのものなのです。私は斯様な犬達をエゴ犬と名付けました。そもそも犬は、「こやつ怪しい」と思えば吠え掛かり、「こやつますます怪しい」と思えば食いつくのが商売です。動物の本能を過度に押さえつけることは、その動物にとってストレスなるだけです。誤解しないで頂きたいのですが、私はなにも犬をノーリードで散歩させろとか、犬の攻撃本能を助長しろと申しているのでは御座いません。他者に被害が及ばない範囲で、犬の主体性を尊重せよと思うのです。あらゆる自由を奪われた動物は哀れで、見るに忍びないものです。この考察を機会に私は、愛犬家改め、哀犬家と名乗る事と致しました。それでは皆様、また暫しのお別れで御座います。御通読誠に有り難う御座いました。

 

 

ガソリンエンジンはエライのだ!!

環境問題だ! 温暖化だ! 二酸化炭素だ! じゃあエコだ! もひとつおまけに電気自動車だ! 様々なメディアから毎日の様に垂れ流されるお約束の台詞です。しかし、本当にそうでしょうか。私は仕事以外のプライベートでも、沢山の方々とお話する機会がありますが、エネルギーの電力化推進がはらむ危険性についての認識が低い事に驚かされます。電気は決してクリーンエネルギーではありません。むしろ実は非常に危険なエネルギーです。二酸化炭素排出量削減を口実に電力化を推進する事は、原発推進に帰結します。二酸化炭素はヤバイぞ、電気自動車にしよう!と言う様な人が増えてゆけば電力会社は、「ハイ、スミマセン、貴方達が電気自動車に乗るから電気が足りなくなってしまいました。つきましては、貴方が住む町に原発を造らせてネ。いいでしょ、いいでしょ、しょうがないでしょ。原発は安全なんだし。」この様にのたまうでしょう。更に、「原発で電気を作っていたら沢山カス(放射性廃棄物)が出てしまいました。したがいまして、貴方の町の地下に埋めさせて下さい。深ーく 、深ーく 穴を掘るから大丈夫ですよ。」となります。ソーラー発電は、生産エネルギーとメンテナンスエネルギーで相殺されてしまい今のところ全然ダメ。風力発電は三乗則という鉄壁に阻まれ、これまた永遠にダメ。やはり原発しかないのです。電力会社は、現在の電力供給量の三分の一は原発で賄われていると謳っていますが、これには巧妙なカラクリがあります。原発の必要性、存在意義をアピールするために、火力発電、水力発電の出力を落とし、私意的に三分の一にしているのです。実は、現在も原発を稼動させる必要など全く無く、火力と水力で充分賄えます。原発は一義的に原子力実験場であり、発電は副産物でしかありません。斯くのごとき事実を踏まえて、私はエネルギーの電力化推進は、極めてヤバイぞ、と考えております。そもそも私は、温暖化問題自体を全く信用していません。地球温暖化論の言いだしっぺは、NASAのジェームズハンセンです。それに一部の気象学者が乗っかり、国までをも取り込んで温暖化一大ブームを巻き起こしました。ところが、よく調べてみると大多数の気象学者は地球温暖化論に対して極めて懐疑的な立場をとっており、温暖化論はホンの一部の、次元の低い功名心に駆られた気象学者が立てた仮説にすぎない事がわかりました。ましてや、その主原因が二酸化炭素であるなど、仮説中の仮説です。何の確証も無い仮説をもとに恐怖心や危機感を植え付け、大衆を扇動する手口は狼少年と同様の古典的なもので、どうしてみんなこういうのに引っかかるのかなあと思ってしまいます。また、温暖化ブームを奇貨として似非エコ製品を作り、一儲けしようと企む企業のなんと多い事でしょう。私はそういった企業の倫理観に欠けた浅ましさに辟易としています。ビンテージカーを愛する皆さん!真のエコ活動とは、古いものを修理しながら大切に使い続ける事です!大丈夫です!石油はまだまだたっぷりとあります!新たな油田も発見されています!自信と誇りをもってビンテージカーに乗り続けて下さい!だからガソリンエンジンはエライのだ!!

 

トホホな一日

昨年末、知人に誘われ、とあるパーティーに出席しました。私は親しい友人知人の結婚披露宴にも出席しないほどのパーティー嫌いです。それが原因で今まで沢山の友人を失いました。しかし、そんな事は屁とも思っていません。人の主体性や主義主張の多様性を認めないような輩とはつきあうつもりはありませんし、ましてや結婚披露宴に出なかったくらいで絶縁するような了見の狭い奴は此方から願い下げです。そんな私が、何故かパーティーに出席してしまったのです。今考えてもどうして出席してしまったのか自分でも判然としませんが、いくつか思い当たるふしはあります。先ず一つ、パーティーへの誘いの電話をもらった時、酷い宿酔で尚且つ考え事をしていた事。二つ、会場が神田で自室から近いため、ちょっと顔だけ出して逃げてくればいいや、と甘く考えていた事。三つ、私を誘った人はちょっとした人物で、さすがの私もついヒルンデしまった事。こんなところでしょうか。そして、、、、「もしもしJちゃん?御無沙汰してますー。あのさ、早速なんだけど今度神田でパーティーがあるんだ。是非来て欲しいんだよねー。Jちゃんに紹介したい人もいっぱい来るし。どう?」 「はぁー。神田ですか。」 「そうそう、神田神田。近いでしょ。是非是非」 「はぁー、うーん、なんのパーティーですか?」 「まぁとにかくさ、来て損はないから。きっと」 「そうですか、、、、、」 「じゃっ6時にXホテルね。名札用意しとくから!ヨロシクー」 「名札???」っとまぁ斯様な具合で半強制的に出席する事とあいなりました。パーティー当日、身支度を整えながら、なし崩し的に出席する事になってしまった事実を激しく後悔していました。会場に到着し、受付を済ませると件の名札を貰いました。{オンタリオSS XX XX}、だって。「これ、つけてください」 「これ?」 「そうです。皆さん初対面の方も多いでしょうから」 「ハイ、、、」 中に入ると、、、、(うわーっ、やっぱり立食だ。俺、長時間立ちっぱなしって苦手なんだよなぁ。電車とか乗ってもまっさきに座る方だし) バタフライをした妙に姿勢の良い慇懃な男がトレイに飲み物をのせて私に迫ってきました。「お飲み物はいかがでしょうか。」 「じゃ、ウィスキー下さい」 ナプキンを巻いたタンブラーに入ったウィスキーを受け取りました。(あぁーあ、俺、ウィスキーはストレートかロックが好きなんだよ。これ水割りじゃん。)「チビッ」 (ナンだこのウィスキー、激マズっ!しかも極ウスっ!俺、こう見えても酒にはうるさいんだケド。バルヴェニーのダブルウッドかメーカーズマークのゴールドトップ呑みてぇなあ。) 誰も知り合いのいない会場で、まずい水割りの入ったタンブラーを持ち、所在無くぽつねんと立っていると、私を誘った本人が満面の笑みをうかべて近づいて来ました。「いやー!どうもどうも!、Jちゃんが本当に来てくれるなんて奇跡だな。嬉しいなぁ、ありがとう!今夜は黒い雪が降るかもしれないな!ガハハハハァー!!今日は絶対最後まで居てよっ、絶対!」 「は、は、はい」 「じゃっまたあとで!」 彼はすごい勢いで近づき、すごい勢いで去って行きました。 (さてと、、、なんか食うかな) フードテーブルに行くと、ニギリ、サンドウィッチ、鶏のモモ、北京ダック、、、、、、お約束ですね。どれも既にパリパリのカサカサに乾いてしまって、とても食べる気になりません。だから、みんな全然食べてません。(もったいないなあ。これ結局全部捨ててしまうんだろうな。こんな出し方したら、どんな料理だって不味くなっちゃうもんな。) 私はテーブルの反対側にまわり、サラミとチェダーチーズを取りました。「チビチビ、カプッ、カプッ、チビチビ」 (早く帰りてぇな。でも絶対最後まで居ろって言ってたし、、、。しかしヒマだぞ) そうこうしているうちに、突如として会場のBGMが鳴り止み、やたらと体の引き締まった男達が5人ばかり颯爽と登場致しました。5人とも一様に大変厳しい表情をしております。5人は壇上に上がると、きれいに横一列に並び、来場者に深々と一礼致しました。そしてその叩頭した顔を上げるやいなやっ、!バサッ!! 今まで羽織っていた半纏のようなものを一斉に脱ぎ捨てました。あぁっ、フンドシ一丁です。彼らはクルリと翻り、既に壇上に並んでいた大きな日本太鼓を渾身の力を込めて甚だ激しくたたき始めました。「ドンガ、ドンガ、ドンガ、ドンガ、ドドンガ、ドンガ、ドンガ、、、、、、、、」 (なんだこりゃー!ウ、ウ、、うるせえーっ!!スゲーウルセエー!!頼むから今すぐやめてくれーっ!!!) 私の心の叫びは太鼓の鬼、五人衆には全く届きません。もうここぞとばかり、一心不乱に連打しています。「ドンガ、ドドンガ、ドドンガ、ドンガ、、、、、」 こうなったら私も壇上に駆け上がって、バチを奪い取り強引に競演しようかとも考えましたが、人品高潔な私にそんなことが出来る筈も御座いません。(そうだ!、この太鼓の鬼、五人衆が壮絶な乱れ打ちをしている間にどさくさに紛れて逃げ帰ってしまおう!) 私は不味い水割りの入ったタンブラーと、サラミとチーズの乗った小皿を手近なテーブルに討ち捨て、忍者走りで会場の外へ脱出しました。 (ふぅー、、、。あー参った参った。おぉー、恥ずかしいなぁ。パーティーの名札つけっぱなしだったよ) 私は歩きながら名札を外し、考えました。最近のパーティーは、ああいう催しが流行っているのかなあ。それにしてもうるさかった。何故ジャパニーズトラディショナルTバックを見なければならなかったのか、いまだに結論は出ていません。もうパーティーは本当にイカネ。絶対にイカネ。総理大臣に頼まれてもイカネ。 

御挨拶

FIAT500フリークの皆様、何時も当店のHPを御覧頂きまして恐縮であります。どういう訳かブログを始める事となりました。今までは、ブログなんてちまちま書いてられるか!ケッ!っと思っておりましたが、様々な外圧に屈し、シブシブのシブシブで書き始めた次第です。頭から湯気を出しながら日々の激務をこなしている私に、本来このような駄文を連ねている暇はありません。しかしながらHPをリニューアルした事を機に、何とかブログを書く時間を確保し、毎日とはいきませんがホソボソと続けたいと思念しております。さて、このブログを読んで下さっている奇特な方々の期待を裏切るようで甚だ申し訳御座いませんが、此処では500に関する事は一切書きません。それは何故か、、、。そういうブログは既に幾らでも存在するので、敢えて此処で私が書く必要も無いかな、と思うに至ったからです。という様な訳で今後此処で何を書いてゆくかは全く決めていません。おそらく日常生活の所感を書いてゆくことになるのではないかと予感しております。そういえば、今年もジリジリヒタヒタと押し迫って参りました。皆皆様の御陰様をもちまして、オンタリオSSは激烈に多忙な一年となりました事を、この場をお借り致しまして深く厚く永く御礼申し上げます。来年も壮絶ビジーな年となるように奮闘する所存で御座います。どうか御愛顧のほど宜しく御願い申し上げます。以上をもちまして、初ブログ及び年の瀬の御挨拶に代えさせて頂きます。それでは皆皆様、ごきげんよう!
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