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美しき諦観

さて、客歳の葉月であったと思う。都内で音楽学校の理事を務めている畏友から、職業演奏家を目指す学生(18から20歳前後、約800人)の壮行会を企画しているので、そこで一時間くらいの枠で話をしてやってほしいとの依頼を受けた。少し悩んだが、私は条件付きで承諾した。その条件とは、私の講演のテーマ及び内容について一切のタブーを設けない事、また、挨拶程度の割り当て時間の短い弁士であっても月並みで形式的な美辞麗句や無責任な励言を連発しかねない愚かな人物はその壮行会に呼ばない事、そして、私語、不規則発言、ヤジなどマナーの悪い学生が居た場合、その場で瞬時に制圧、排除、撲滅出来るよう、SWAT並みの質が高く強力な警備員を十分に配備する事、更に、当日この条件が一つでも満たされていないと私が判断した瞬間、私はその場で話をやめ、立ち去る事を認める事、の4点であった。畏友は「まあね、Jちゃんの話が辛辣だってことは勿論わかってるし、そういう話をしてもらってね、生徒たちに現実の厳しさを知らしめる為にJちゃんに来てもらう訳だからその条件は守るよ。大丈夫だから心配しないで」と言ってくれたので私は彼の言葉を信じて12月の当日を迎えた。およそ800人の学生ばかりでなく、彼らの一部の親まで来場した為、来場者は1200人に達し、会場は満員御礼の札止めであった。司会者の軽佻浮薄で無味乾燥な壮行会の説明と挨拶に続いて、理事である畏友の挨拶となった。私の紹介も交えながら5分という短い枠の中で、彼一流のユーモア溢れる話を私は感服しながら聴いていた。ところが!ところがである。畏友の放った最後の言葉がいけなかった。「それではプロの演奏家を目指す学生の皆さん、私の挨拶はこれ位にして本日の講演に移りたいと思いますが、勇気と!希望を!強く持って努力を続ければ!夢は必ず叶う!という事を忘れないで下さい!!」と、事もあろうに過日私と4つの約束を交わした畏友張本人が、ステージの袖でいよいよ出番かと鼻息を荒くし、両手をわなわなさせて待ち構える私の面前で、私が蛇蝎の如く嫌う美辞麗句的無責任発詐欺行き励言を力を込め(たふりをして)て叫んだのである。これはいけない。断じて許すわけにはいかない。私は誇らしげな表情で袖に戻ってきた彼に詰め寄り、「なんだ今の最後のひとふしは!ああいう世辞やおべんちゃらを言う奴は呼ばないって約束しただろう!それをあろうことか貴様が言ってどうする!!しかもその最後のひとふしは相当力んでたぞ!やめだやめだ!俺は帰る!」 「ちょ、ちょ、ちょっと待てよ。わかってたんだけどつい言っちゃったんだよ。綺麗な言葉で締めくくらなくちゃ恰好がつかんだろう。帰るなんて困るよ。後できちんと詫びるからさ、とにかくほら、早く出てくれよ。頼むよ」 「ダメだ。俺は真実を語らん奴は嫌いだといつも言ってるだろう。貴様は今、若者に対して大ウソをついた。俺は帰る。そういう約束だ」 「勘弁してくれよ。お前が話してくれなきゃどうしようもないだろう。子供みたいな事言うなよ」 「上等だ。子供で結構。帰る」 お互いの腕を掴みあい、こんな愚にも付かぬ鍔迫り合いを演じていると、名前を呼ばれても一向に登壇しない私に業を煮やした司会者が血相を変えて袖に飛び込んできた。「あ!二人でなにやってるんですか!Yさん(私の苗字)早く出て下さいよ」 「厭だ!こいつが約束を破ったんだ!俺は帰る」 「なんの約束だか知りませんけどね、いい加減にしてくださいよ!何度呼んでも出て来ないと思ったら、この期に及んでこんな所で口論してるなんてどういう事ですか!」 「おのれ!司会者の分際で口を挿みおって!何を言うか!黙れ!帰る!」 「あのですね、Yさん。会の進行が滞りますとね、司会者である私が困るんですよ。私のペナルティになっちゃうの。自分のミスでペナルティを受けるのだったらまだしも、貴方のわがままで私がペナルティを受けるのはまっぴらです!!」。この司会者、体もデカイが声もデカイ。なかなかの迫力である。傍でカサコソと畏友も司会者に加勢している。俄然私は分が悪くなってきた。「おのれの事情なんか知った事か!司会者風情の指図は受けん。帰るぞ!」 「いい加減にしろ!客だって待ってるんだ!早く出なさい!!」と司会者の雷鳴のような一喝を食らいつつ私は二の腕を掴まれ、袖の口まで強制連行された。やはり司会者はかなりの剛力であった。私も必死の抵抗を試みたが司会者の膂力を御しきれず、私と司会者は、まるでお粗末な社交ダンスを踊るが如き甚だ不体裁な様相でもつれ合いながらステージに登場する羽目となってしまった。私は演台におさまり、大力司会者は私が逃げ出さないよう後ろから両肩を押さえている。何事が起ったか知る由もない客席の生徒達は、一様に鳩が豆鉄砲を食らったかの様な表情で静まり返っている。私が逃亡を諦め、話を始める気になった事を悟ったのか司会者は私から離れマイクを手に取り、「いま控室で若干のトラブルがあり、お待たせしてしまいました。こちらが本日の演者Y口J郎さんです!それでは時間も押しておりますので、早速ですが本日の演題『絶望を生きる』をお話しいただきましょう!Y口さん、どうぞ!」 戸惑いの拍手。 「皆さん!只今御紹介に与りましたY口で御座います。始めに、私は一つ一つの事をきちんと詳らかにしませんと前に進めない質でありまして、本題に入る前に今なぜ皆さんをお待たせする事になってしまったのか、簡単に御説明させて頂きます。先程私の前に挨拶したS理事は私の愚友であります。この度の講演をお引き受けするにあたって、私はS理事と幾つかの約束を致しました。S理事は先程の挨拶の中で、その約束をいきなり破ったのです。ですから私は帰ろうとした。しかしS理事は駄目だと言う。帰る、ダメだ、そんな罵り合いをしているうちに遅れてしまいました。皆さんをお待たせしてしまい失敬致しました。では今日の演題であります『絶望を生きる』と言う事について話を始めたいと思います」 貧弱な拍手。「先程、S理事が挨拶の終わりに放った言葉、勇気と希望を強く持って努力を続ければ夢は必ず叶う。これは全くの出鱈目、真っ赤なウソ、大ウソ、極めて悪質な詐欺であります。日本における公教育は全くと言って良いほど真実、事実、現実を教えません。建前だけを刷り込み、人間の根底に潜む醜悪な要素や、解決不可能な事象を全て必要以上に美化し、瞞着し、現実を直視する事の枢要性を教えない。当然ですが、私も含めて皆さんは幼少の頃から、今説明した様な究極とも言える似非教育を受けてきたのです。この似非教育に何ら疑問を抱かず、唯々諾々と受け入れてきた人間の代表がS理事であり、あのような無根拠で小恥ずかしい科白を平然と吐くのです。私はこういう愚かで安直で悪辣な嘘は申しません。真実、事実、現実のみを方直に皆さんにお伝えします。まず結論から先に申し上げましょう。人生は絶望の連続です。むしろ絶望しかないと言ってもいい。皆さんがどんなに抗おうが絶望の壁は絶対に打ち破る事は出来ない。それほど絶望の壁はどこまでも厚くひたすら高い。では何故人生は絶望なのか、明らかにしてゆきたいと思います。S理事の言葉が出鱈目である事は既に指摘致しましたが、その言葉を逆手にとれば、勇気と希望を強く持って努力を続けても、殆どの場合夢は叶いません。実例を挙げましょう。私の或る知人は、勇気と希望を強く持って努力を続けたが、6回連続で司法試験に落ち、今でもその消し去る事の出来ない過去の恥辱にさいなまれ、著しく不貞腐れ、堕落した生活を送っています。彼はそんな不貞腐れた女々しい男ではなかった。いつも溌剌とした清々しい奴だった。では何故彼は今の様なジメジメしたカビが生えそうな人間になってしまったのか。それは自分の頭の悪さ、才能の無さを率直に認める事が出来ず、絶望を受け入れる事が出来なかったからです。分不相応で無謀な挑戦を続け、当たっては砕け、当たっては砕けを繰り返しているうち、徹底的に、まるで嘲笑うかのように自分を退ける司法試験というものに深い恨みを抱くようになってしまった。そして心は屈折し、目つきは悪くなり、荒れ果てた人格に変貌し、日毎六法全書を踏みつけにしているそうです。また、別の或る知人は、思いを寄せる女性に勇気と希望を強く持って迫り続けた結果、相手の女性に気味悪がられ嫌われ、挙句の果てにはストーカー呼ばわりされ、警察沙汰に陥り、対人恐怖症になってしまいました。今では私としか話が出来ません。またまた別の或る知人は芸大の日本画を目指し、勇気と希望を強く持って努力を続けたが、5浪の末挫折という目を覆いたくなるような惨憺たる結末となってしまいました。当時、このあまりに凄まじき惨状を聞いた私は彼を励ましてやろうと思い、5浪かあ、、、大変だったろうなあ。じゃあ今日からお前のあだ名は野口だな!がはははっ!とやってしまった。この私の一言で彼はますます落胆してしまい、今でも毎日、平山郁夫の悪口を言って過ごしています。今挙げた例は、決して特殊な事例ではありません。程度の差こそあれ、夢破れた者は皆このようになります。そして、勇気と希望を強く持って努力すればするほど、夢の破れ目は大きくなり取り返しのつかない事になります。夢が叶う者と夢が破れる者との差は何であるのか。それはひとえに才能です。才能が全てです。分かりやすい話をしましょう。私は野球なんぞに何の興味もありませんが、イチローという選手くらいは知っています。彼は非常にたくさんのヒットを打つそうですね。では私が今からイチローと全く同じ内容の練習を毎日繰り返したとします。勿論この際年齢は無視します。私は彼と同じ数のヒットを打てるようになるでしょうか。聞くまでもありませんね。打てませんね。絶対に。私には野球の才能がないからです。ですから全ては才能なのです。才能の無い者が、どんなに勇気と希望を強く持って努力を続けても夢は破れるばかりです。更にこの才能という物は、ほんの少しの者にしか与えられません。しかしだからといって、才能があり、夢を成し遂げ成功した者の言葉を信じてはいけません。彼らは自分と同じように努力すれば誰でも夢を目標を達成できるかのような虚言を弄します。自分には類稀な才能があり、他者には自分と同じレベルの才能が無い事を知りながら、聞こえのいい麗句を吹聴します。自分の人生を美談に仕立て上げ、成功の上に更に名声を得ようとします。彼らの言葉に絶対に騙されてはいけません。彼ら才気溢れる人物たちのサクセスストーリーは、持って生まれた才能に加え、その才能を最大限に発揮できるような幸運に恵まれるという極めて特殊な例であり決して一般化できる話ではないのです。皆さん既に気付いているでしょうか。今日ここに集まって頂いた皆さんのうちで、プロの演奏家になれる人は全体の1パーセント前後でしょう。そのなかで一流の演奏家になれる人は更にほんの一部。演奏家として生涯を過ごせる人など更に更にほんの一部です。皆さん。こんな確率の低い馬鹿馬鹿しい博打は今すぐにやめましょう。自分の才能の無さを素直に認めましょう。無駄な努力をしつこく続けると、人格もねじ曲がり、夢破れた時の被害はますます甚大になります。真っ当な仕事に就き、日々絶望と向き合って生きて下さい。音楽など所詮単なる遊びです。遊びで飯を食おうなどとは何と厚かましい事でしょうか。ふざけるにもほどがある。しかし、厚かましい事、ふざけた事であっても天才だけは許され、認められます。そして夢を叶えた者であれ、夢破れた者であれ、行き着く先は結局のところ死である事、即ち人生の終着駅は死と言う絶望である事を直視し、逃げることなく見つめ続けて下さい。リヒテルも、ミケランジェリも、グールドも確かに稀に見る天才達であり、信じ難い程の秀逸な演奏を残しています。でも彼らの残した演奏だって人類が絶滅し地球が燃え尽きてしまえば、宇宙の彼方で完全に消滅してしまうのです。人類の絶滅までは、上手くいってもあとせいぜい数百年でしょう。さて、私がここまでとめても、まだどうしても音楽をやりたいという人はやれば良いでしょう。しかし間違っても、有名になりたいとか、一流になりたいとか、世界に羽ばたきたいとか、音楽史に名を残したいとか、あさましく、さもしく、下品でみっともない目標は掲げないで下さい。貴方が唄を唄ってくれなくても、ピアノを弾いてくれなくても、ギターを弾いてくれなくても、ドラムを叩いてくれなくても、困る人は誰もいません。所詮殆どの人に才能など無いのですから、むきになって練習せず、肩の力を抜いて、自分が楽しい演奏をして下さい。夜、三軒茶屋の駅前で、たまにCHUTA君というギタリストがソロで弾いています。彼はまだ若く発展途上で演奏は未熟だけれど、実に味のある、力みのないメロウギターを弾きます。最近私は、マヌエル・バルエコより、バーデン・パウエルより、マーティン・テイラーより、CHUTA君みたいな気負いのない演奏の方が好きになりました。皆さんも機会があったら是非彼の演奏を聴いてみてください。最後にもう一度申し上げます。皆さん。人生の結末は死という絶望です。何をやっても人間は結局死にます。人間は皆、生まれながらにして絶対的死刑囚なのです。この厳然たる事実を胸に刻み、片時も忘れることなく、しかと見つめながら絶望を生きて下さい。人生は絶望ですよ!!」、とまあ内容はかなり端折ったが、音楽家を目指す若き生徒たちに一時間に渡って熱弁を振るったのである。話を終えた私が控室で着替え、一服しているとドアのノックが聞こえた。ドアを開けると会場の関係者に導かれたであろう若者が約10人。「貴方達は誰ですか」 「客席でYさんのお話を聞いていた学生です。私たちの感想をYさんにお伝えしたくて」 「私は別に貴方達に何らかの反応を期待して話をしたわけではないし、感想など聞きたくありません。早く帰りたいのでお引き取り下さい」 「、、、、、、、、、、」 すると彼らを連れてきた会場の関係者が「Yさん、それはないでしょう。ひどすぎます。5分でいいから話を聞いてやって下さいよ」と言った。 「そうですか、ひどいですか。じゃ、話を聞きましょう」 彼らは私の話を聞いて夢を諦め音楽をやめる事にしたと言う。私は嬉しかった。少なくとも10人の若者を、夢や希望という実態のない甘い罠から私は救ったのである。「貴方達が賢明な決断をしてくれたことを大変嬉しく思います。御礼にもう一つだけ良い事をお伝えしましょう。私たちは皆、国家という魔物に飼われた家畜なんですよ。どう足掻いてもそこから逃れる事は出来ない。評論家の佐高信は、サラリーマンを揶揄して『社畜』という造語を作り得意になっていたが、私は佐高を視野狭窄に陥った本物のバカだと思いましたね。私に言わせれば、サラリーマンどころか権力者以外の国民は全員国家の家畜、『国畜』なんです。ですからますます絶望なんですよ。私たちには夢も希望も存在しないんです。それに気付いていない人が多すぎるし、また気付いていたとしても見て見ぬふりをしている人が殆どなんです。何事も諦めが肝心ですよ。とにかく、何事も潔く、駄目だと思ったら可及的速やかに諦める事です。私たちは全方位を絶望に囲まれて生きているんです。ですから明るく元気に絶望を生きて下さい」 「、、、、、、、、、、」 彼らをこう諭したあと私は帰り支度を整え、自転車で会場を後にした。すでに私はその日の講演の事など全く頭に無く、予約を入れてある呑み屋へ自転車をメチャ漕ぎするのであった。  

虎仮面現る。

まあ、いずれに致しましても相も変わらず不幸で不幸で不幸すぎる日々を送っている私では御座いますが、浮世にはタイガーマスクなるデリカシーの欠片もない超絶無神経型大バカ者が跳梁跋扈しているようですな。三文芝居の如き子供騙しの、しかし大人ならではの婉曲な嫌らしさが腐臭を放つ手法で、多数派的、無批判的、無思考的善意を、ニコニコしながらヨイショヨイショと一方的に強力に他者に押しつける無自覚的無神経型善人に対し、私は虫唾が走るのである。こういった彼らベタな多数派的善人は、1.社会一般において善とされている事象を疑わない(無批判)。2.社会一般において善行として承認され、なおかつ自分が良かれと思う行為であっても、それを厭う者が少なからず存在することを認めず、またそれを想像する事も出来ない(無思考)。そして、3.自らが多数派的善人と言う暴力集団の一翼を担い、少数派に対して善意や好意や良識(この三つは全て一般的な意味で)といった精神的暴力を日常的に振るっている事に気付きもしない(無自覚)。このような多数派的行為がいかに危険で暴力的で戦慄すべきものであるか、読者諸賢はお解りでしょうか。誤解を避けるために敢えて申し上げれば、私はこの猿芝居ともいえるタイガーマスクごっこそのものが良くないと言っているのではない。そんな事はどうでも良い。醜悪な自己愛に振り回されている大の大人の恥ずかしいくらいの稚拙な行為として私の目に映り、冷笑、嘲笑を浴びせるだけである。では何がそれほど問題なのか。前述した3点の危険要素はいずれも極めて枢要ではあるが、なかんずく3.の無自覚の危険性に注視したい。この3.の無自覚は、1.の無批判と2.の無思考という人間の知性を全否定した恐るべき過程を経て産み出された天下無敵の化け物なのである。無自覚モンスターは、ボランティア活動に精を出している者に散見されます。例えばボランティアによる駅頭での募金活動。早朝から道行く人々に、とにかく何が何でも金をくれと声を張り上げています。彼らは自分のこの募金活動は一般社会に承認された善行である事を体験的に知悉しており、絶対に正しい、間違いなく善行だという揺るぎない確信に満ち満ちています。一方で、忙しく行き交う通勤客に邪魔だなあ、ウルセーなあ、と思われている事も知っています。でもめげません。全然平気、そんな事は物ともしません。だって自分の行為は絶対に正しいんですから、世間から認められた紛う事なき善行なんですから。ここまでの1.無批判と2.無思考による、言わば脳死状態に突入し、着々とモンスターへの足場を固めて行きます。そして間もなく遂に多数派的善人型無自覚モンスターが完成し首を擡げるのです。多数派的善人型無自覚者の絶望的な問題点は、自らの善行に対し、「本質的且つ根源的」に異を唱える少数者の視点が完全に欠落しているところにある。簡潔に述べれば、社会を構成している人員の多様性を感じる事が全く出来ず、すなわちその多様性を感じる事が出来ない自分に気付いていないということです。さらに、その自分達の無自覚善行が少数者に対して向かう時、凄まじい暴力性を帯びる事など予想だにしない。朝日は美しい。やっぱり大勢で食べると食事が旨いよね。夕日は綺麗だなあ。子供は可愛いなあ。家庭の温かさって好いなあ。地下鉄ではお年寄りに席を譲ろうよ。盲導犬って素晴らしい。緑の地球を子供たちに残そう。お祭りって楽しい。結婚式っておめでたい。お葬式は悲しい。スポーツって清々しい。やっぱり夏はビールだよな。椎茸って旨いよな。はいはい、勝手にして下さい。彼らにとって地下鉄でお年寄りに席を譲る事は皆が認める絶対善であり、緑の地球を子供たちに残す事は絶対善なのです。これらの一般社会の承認を経た多数派的絶対善は、それに根本的な誤謬が潜在しようとも、少数派によるあらゆる批判を徹底的に拒絶します。さらに、多数派的善意の押し売りを相手に拒否されるや、さっきまでの優しさは何処へやら、一転して御機嫌斜めとなります。過日、前述した「緑の地球を子供達に残そう!」という運動を私の貧家付近で行っている100人前後の老若男女の集団がいました。あまりにうるさいので窓を開けてみると、それはもうただならぬ張り切りようで「美しい地球を子供たちに!」、「たった一つの地球を大切に!」、と金切り声で絶叫しています。私は一瞬、窓から生ゴミでも投げつけてやろうかと思いましたが、崇高な理性が邪魔をしてそんな下品な事は到底出来ません。地上に降りて冷静に自分の要求を伝える事にしました。「すみません。静かにして頂けませんか」、すると意外な事に集団のリーダー格と思しきおじさんは平身低頭、「御迷惑をおかけして申し訳ありません。すぐに移動してもう少し静かにやります」。ここでやめておけば全ては丸く治まった(極めて日本的な表現だなあ)筈なのに、どうしてもそれが出来ないのが私の性分です。「それとですな。私はね、地球なんて今後どうなっても一向に構わない。明日地球が真っ二つに割れてもそれはそれで仕方がないと思います。第一、地球にとって一番良い事は、人類が絶滅する事なんではないでしょうか。たった一つの地球を大切に、なんて人間の驕り以外の何物でもないと思いますよ。それとね、つきつめて考えれば人間というものはね、本質的に無責任な生き物なんですよ。ある事に対して完全に責任を持つなんて言う事は、口で言うのは簡単だけど実際には絶対に出来ないんですよ。そういった基本的な事をね、貴方達は全然わかっていませんね」とやってしまったのが大間違い、彼らの表情が一変。みるみるうちに眉毛、目じりは吊りあがり、あれよあれよと言う間に顔面は紅潮し、今にも拳の一つも飛んできそうな形相です。先程までの穏やかな態度は豹変し、私に向かって今までの10倍増のボリュームで「たった一つの地球を子供たちに!!」「緑の!地球を!子供たちに!!」「子供たちの!未来の為に!大人は責任をもとう!」というヒステリー的大合唱とあいなってしまいました。仕方が無いので、私は合法的暴力団である警察に連絡しました。そして地球と子供を愛してやまない多数派的無自覚型善人団は、現場に到着した警察官の国家権力という暴力によって排除されたのでした。タイガーマスクごっこも本質的には彼ら善人団と何ら変わる事はありません。同じです。だいたい、児童養護施設に匿名で贈り物を送りつけ、テレビのニュースを見て一人自宅でほくそ笑んでいるなんてたいそう陰湿で気持ちの悪い趣味だなあと私は思うのです。匿名の贈り物を安易に受け取る方にも問題があります。もしかして送り主が覚せい剤の売人だったらどうするのでしょうか。極悪ヤクザだったらどうでしょうか。そもそも、自己判断能力の育っていない子供が見ず知らずの人からの一方的な施しをうけるというのは教育上宜しくないのではないでしょうか。この程度の事を思いめぐらす事が出来ないなんて、タイガーマスクって本当にバカなんですなあ。

 

超ネガティブシンキングのすすめ

様々な方々に絶大な御支持を頂いている拙文ですが、賢明な読者であれば、私が三流のニヒリストであり、安手のペシミストである事に須くお気付きかと思われます。したがいまして、二ヒぺシである私は毎日毎日不愉快な事ばかりなのです。しかしこれは私に限った事ではなく、読者諸賢もそうでしょう。よほど恵まれた境遇に無い限り(私は毎日が愉快で愉快で笑いが止まらないという人も知っていますが)、毎日楽しい事ばかり連続的に発生する訳もなく、殆どの人は不快な事、厭な事に耐え忍びながら日々を送っているのが現実なのではないでしょうか。ただ、人間の精神動向は誠に複雑かつ不安定ですので昨日まで楽しかった事が急につまらなくなったり、あんなに厭だった事がある時さほどストレスなく出来るようになったりするものです。これは男女関係においてもそうではないでしょうか。交際している彼女がある時急にブスに見えたり、その彼女の笑顔が突如として恐ろしい魔女に見えたり、またある時は、カウンターで鮨をパクつく彼女の横顔をみて、「俺はなんでこんなブスバカ厚化粧女にタダ飯をくわせているんだろう」と己の判断力の甘さに酔いもさめてしまった事があるのではないでしょうか。まあこういった事は人間の精神的バイオリズムが内包する倦怠性に基づいて顕れる症状ですから、さほど問題ではありません。彼女がブスに見えたら、「僕は今日君がとてもブスに見えるなあ。何故だろう」と言ってやれば良いし、鮨を頬張る彼女がさもしく見えたら「大トロとウニばっかり食ってんじゃねえ!たまには手前で勘定払ってみろ!この低偏差値女め!」と罵倒して頭から御茶でもかけてやれば宜しい。相手の反応や、この雑言によって招かれる惨劇を恐れてはいけません。自心に率直な言動こそ道徳的なのです。さて、このようにその場で即時解決可能な不快事もあれば、現場ではどうにも解決出来ない不快事も存在します。例えば私は映画館やコンサートホールには絶対に行きません(昔は無理をして行った事もありますが)。なぜなら、感動や喜び、要するに喜怒哀楽といった精神状態を他者と共有する事が死ぬほど嫌いだからです。これはもう単に嫌いというレベルのものではなく、生理的に受け入れられません。例えば、あるパフォーマンスを観た場合、それに対する反応は本来人それぞれ違う筈なのに、皆が同じタイミングで同様に笑う、皆が同様に泣く、皆が同様に興奮する。この状況が気持ち悪くて仕方がないのです。大多数の観客が涙するような悲壮な場面で爆笑する人がいても良いし、大多数の観客が大笑いする場面でシクシクと啜り泣く人がいても良いのです。しかし実際にそういう事は殆ど起りません。皆が同時に涙を流し、皆が同時に笑うのです。奴隷教育によって植え付けられた画一的な感情表現を、不特定多数の人間が閉鎖空間で同時に噴出させる光景は、どこから見ても私には異常に映ります。そして、この多数者の異常行動による私にとっての不快事は、現場で即時解決出来ません。映画館で私が客一人一人に「すみません。多数派的感情表現はやめて下さい。気持ち悪いので」などと言ってまわれば、逆にこちらが気持ち悪がられ異常者扱いされ、つまみ出されるのが落ちでしょう。ですから私はそういった場所へは出掛けません。諦めます。ここで例に挙げたような多数派的感情表現は、完全に教育によって刷り込まれ、定型化されたものである事は言うまでもありません。女の子は赤いスカートを穿き、女ことばで話し、髪は長くする。男の子は力強さを求められ、大人になれば家族という訳のわからない集団を養う事を強要される。これも、人間が生まれながらにして身に付けている事ではなく、教育によって植え付けられた感覚です。幼少時からの教育によって無慈悲に、強制的に叩きこまれたものを、大人になっても無反省に、無批判に唯々諾々と受け入れたままの状態である事を、私は人間としてとても怠惰な姿勢だと思います。本物の大人たる者は、自らが受けてきた教育を一旦全て完全に否定した上で檻の中に閉じ込め、その全てに懐疑の矢を放ち、自らの体験に照らし真偽を徹底的に極限まで究明し、その結果淘汰されず、ゆるぎない真実性を保ったもののみを自身の行動規範としている人間なのではないでしょうか。これは著しい艱苦を伴う極めて厳しい行為であると同時に、ニヒリズム的洞察力とペシミズム的視点(目線という言葉は間違いです)を併せ持った哲学的立場を立脚点とする事が必要欠くべからざる条件となります。であるからして、私は低次元のニヒリストであり低知能指数のペシミストなのです。人間は不幸の淵に沈んでいる時ほど様々な事象に対する思考を深めます。最愛の人に無惨に裏切られた、或いは想像を絶する凄絶な苦労の末に築き上げた会社が潰れてしまった。そんな時に、「あの人に尽くした私の愛は何だったのだろうか」、「俺の筆舌に尽くしがたい血の滲むような労苦は何だったんだろうか」、「俺の人生は全くの無意味だったんだろうか」などと延々とうつうつとジメジメと考える。これこそが思考の深化の起点であり、不幸こそが思考の深化の源泉なのです。「男なんて星の数ほどいるさ」、「くよくよするなよ」、「人生何度でもやり直せるさ」。こんな無責任で無根拠な言葉に騙されてはなりません。安っぽい、使い古された励言を吐く者ほど思考が浅く怪しい。決まりきった手垢の付いた励ましの言葉をかける者は、眼前に不幸者、落胆者がいると自分が不愉快だからそうするのであり、なんとかして相手を自分の住む安楽で堕落した無反省な思考停止の世界に引きずり込みたいだけなのです。これほど不真面目で不謹慎でいい加減で怠惰な臨人姿勢はありません。少し考えてみればすぐに分かるようにポジティブシンキングとやらは、己に降りかかってくる解決困難な災いから目を逸らし、論点をすり替えて誤魔化し、人間の知性を否定した逃避行動に他ならず、最も低レベルの思考停止の一形態にすぎない。幸福な状態も危険です。幸福な状態とは精神的に満ち足りている事であり、文字通り満足している訳ですから、疑いなく重度の思考停止状態です。幸せを感じてしまったら、気が付いたら幸福だったら、即座に不幸界に舞い戻らなければ人間の知性は死滅します。まあ、無理に不幸界に帰らずとも大抵の場合、幸福の直後には不敵な笑みを浮かべた不幸が待機して居るのが世の常ですから、さほど心配する事も御座いません。家を建てれば地獄のローンが手ぐすねひいて待っている訳ですし、酒を呑めば酔いも醒める程の勘定が待っています。幸と不幸は表裏一体なのかも知れませぬ。ここで私の最愛の都都逸を一つ。「紅い顔して御酒を呑んで、朝の勘定で蒼い顔」。こんな鋭敏で含蓄のある都都逸を聴くと、都都逸とはジャパニーズファンキーアフォリズムであることを再認識させられます。さて、私もそろそろ更なる知の蓄積と思考の深化を求めて夜の街を彷徨わねばなりません。今晩は河豚だなフグフグ。読者諸賢、しからばまたお会い致しましょう。

信憑の記憶

小学校に上がると、私はいつも休み時間に一人で本を読んだり、考え事をしたりしていた。すると決まって先生(なんとも嫌味なババア)が私にヒタヒタと接近してきて、「Y君はどうしていつも一人でいるの?みんなと遊ばないの?ドッジボールやらないの?」といような愚問を投げかけてきた。今であれば「じゃあどうしていつもみんなは意味もなく一緒にいるの?どうしていつもみんなベタベタ一緒に遊んでいるの?どうしてみんな一緒にドッジボールなんてくだらない事をやっているの?」と強烈な皮肉カウンターを食らわしてやるところだが、何せ当時は6歳の童子である。口では「わかんないや」と答えると同時に腹の中で「うるせーなババア!ほっとけよ!化粧臭えんだよ!早くあっち行け!しっしっ!」と叫ぶのがせいぜいであった。私は特に運動が苦手であった訳ではない。それどころか、駆けっこに限っては生まれつき異様なまでの俊足を誇り、しかも全速力で走りつつ西へ東へと激しく曲がれる俊敏性も併せ持っていた為、いったん私が走り出したら最後、大人でも捕捉する事は出来なかった。この俊足を武器に数々の難局を乗り切ってきた事は紛れもない事実である。警察官に犬の糞を投げつけたり、思い切り蹴飛ばしては逃げるという遊びが大好きであったが、殆ど捕まった事は無く、俊足というこの天賦の才能に子供ながら心腑深く鳴謝した事を記憶している。年端もいかぬ餓鬼に犬のクソを投げつけられ、怒り狂った警官が鬼の形相で追走してくる。この恐怖と切迫感が攪拌された精神状態は、私の俊足に更なる力を注入し爆発的ともいえる加速を示した。そして哀れなクソ塗れ警官から逃げおおせた時の痛快極まりない得も言われぬ充足感は、自らの能力を再認識すると共に悪の童心の、文字通り「肥し」となった。この悪事を遂行する際に発揮される到底童子とは思えぬ私の狡猾さは、いま考えても実に際立っていた。極めて高い成功率を保ち続けたのは、俊足のせいだけではない。まず任務は必ず一人で実行すること。複数人で犯行に及ぶと、その中には必ずと言って良いほどマヌケのボンクラが混入する為、そのマヌケの失策によって芋づる式に捕まってしまう。次に、犯行に及ぶ地域は自宅から遥か離れた地域に設定すること。面が割れている自宅付近では、その時逃げ切れたとしてもいずれ捕まるのは時間の問題である。更に、犯行前に現場に足を運び、あらゆる負の可能性を考慮に入れ無欠の逃走ルートを組み立てる。これほどまでの綿密かつ周到な準備をすれば、確かに捕まらないだろうな、と思った貴方は甘い。重要な遵守事項がまだある。この悪事は犯行から次の犯行までに、必ずや2週間以上の間隔を空けなければならない。言うまでもなく、犯行直後は敵も相当警戒している。敵の緊張感が高まっているときに犯行に及べば、捕まる確率が倍加してしまう。敵の警戒が緩むのに、2週間以上の時間が必要である事は、経験上知得していた。しかし、成功率100%を誇っていたその私が、犯行回数数十回目に、遂に捕まったのである。敵は数に物を言わせ、私の逃走範囲の辻という辻に警官を配備したのである。あくまで、クソ投げ攻撃を加えた警官との一騎打ちを望んでいた私は、このなんとも大人げなく非礼な捕捉手段に、「このやり方絶対反則だよな」と、すっかり熱意を失い、しおしおと捕まった。大柄の警官にがっちりと腰のベルトを掴まれた私はなす術なく連行された。ところがこの犯行劇の一部始終を物陰からしかと見ていた者がいたのである。塗装屋の倅の清水であった。以前から清水は、私のこの悪事に強い参画意欲を見せていたが、私は彼が粗雑粗暴な気質である事と、任務は必ず一人で遂行すべしという理念から、その要求を退けていた。その清水が犯行に及ばんとする私を尾行し終始観察していたのだ。清水の存在に気付き、視線を合わせた私は、これ以上ない屈辱を味わい、醜態を見られた怒りに満ちた眼で彼を睨みつけた。しかし清水はそんな事はお構いなしに私と警官に、素早く静かに近付いてきた。そして清水は警官の前に回ると、自宅から隠し持ってきたであろう赤い缶スプレーを、警官の顔面にこれでも食らえとばかりに吹き付けた。一瞬で全てを察知した私は、清水のスプレー攻撃に怯んだ警官の手を振りほどき、得意の俊足で走り出した。「Jちゃん!!そっちは駄目だ。!!こっち来い!!」「よしきた!付いて行くぞ!」。私の方がやはり速かったが、清水は一所懸命に先導してくれた。かくして私は再び自由の身となったのである。この一件で、私は清水という男に絶大な信頼を寄せ、心の底から感謝した。しかし、その後も特に親しくなるわけでもなく、一緒に遊ぶわけでもなく、言葉を交わすことさえ稀だった。ただ、清水は私の悪事に憧れ、私は清水の勇敢さに敬服していた。それだけである。風の便りで、その清水が死んだ事を聞いた。30数年前に、危機的状況から私を救出してくれた男が死んだそうだ。私は、葬式なんてどうでもいいし、彼の墓の場所なんて知りたくもない。この酷薄な私の心の中に、清水という男の記憶が30数年に渡って残っていただけで十分ではないか。私はこういう人間関係こそ最も素晴らしいものだと思うのです。これは、「いつもみんなと一緒にいた」り、「いつもみんなとドッジボールをやっていた」者たちには、決して到達出来ない境地なのです。

 

汝迷う事なかれ

頃日、「Jちゃんどうして嫁さんもらわないの」とか「貴様は何故結婚しないのだ!」とか、私の結婚問題に関して詰問される頻度がいつの間にか逓加している事に、ふと気付きました。こういった問いかけに対して私は、「うーん、自分でもよく分かりませんなあ、のらりムニャムニャくらりムニャ」などと言葉を濁しお茶を濁します。そして、「ささ、そんな事よりお一つ如何かな」と互いに土瓶蒸しの一杯も啜れば、聞いた方も聞かれた方も、「しかしJ之助、ここの土瓶蒸しは頗る付きの美味よのう」「左様、誠に芳味じゃ」「今年は松茸の当たり年だそうな、万謝じゃ」「全くじゃ全くじゃ、はっはっは!」「愉悦よのう、イッヒッヒ!」と眼前の烹割にすっかり心を奪われ、殆どの場合私の結婚問題など瞬く間に滅するのです。問題を有耶無耶にし、立ち消えさせる事に関しては、間違いなく世界最高峰の技術を有する日本人の一人として斯くの如き趨勢は、なかなか粋だと思います。私の結婚問題の帰着点が土瓶蒸しであるとは、何と洒脱なのでしょう。ただ、この問題を何時までも放却しておく事に、さしたる有益性は認められませんので、一定の深度にとどまりますが、解析を試みたいと意志致しました。私が結婚というものに言い知れぬ戦慄を覚え、尻を絡げて逃げ回る理由はただ一つ。何よりも大切にしている自由を奪われるからです。若人に自由の持つ本源的価値やその重要性は理解できないでしょう。しかし私くらいの齢に達し周囲を見渡してみると、自由が如何にも高価値で何物にも代え難く、自身にとっては命に匹敵する宝である一方、結婚という言葉からほとばしる、あらゆる意味で個人の自由を剥奪する果てしない残虐性を、これはもう何と申しましょうか、想像しただけで冷や汗が流れ、総身が震えるほど身に沁みて了得出来るのです。さて、この「結婚生活が略奪する自由」というものは、甚だ広義でありますから、具体例を挙げながら分け入ってみる事にしましょう。私は仕事を終え帰宅したが最後、相手が誰であろうと一言も口を利きたくありません。テレビも一切見ませんし(というかテレビを所有しておりません)、音楽も殆ど聴きません(もう音楽は十分すぎるほど聴いたので自宅に居る時まで聴きたくない)。大悟徹底静謐を営求し、ひたすら書見に勤しみます。万が一書見中の私に話しかけようものなら、嘗て瞬間湯沸かし器の異名をとった本性を剥き出しにし、妻であれ子供であれ、体重の乗った爆裂ビンタを食らわせ一発KOとなるでしょう。こんな生活態度が結婚生活で許容され、家庭が成立するでしょうか。成り立つ訳ありませんね。当然です。では、成立させるにはどうしたら良いのでしょうか。そう、私が忍ぶほか御座いません。皆さんお気づきでしょうか。私が耐え忍ぶとすると早くもこの時点で、大切な4つの自由が侵害されるのです。それは、「沈黙の自由」、「静粛の自由」、「読書の自由」、「憤怒の自由」です。私は帰宅後、静かに読書をしたいだけなのに、無為無聊な会話を強要され、低劣なテレビ番組を一緒に見させられ、自室に籠って読書をしていれば家族のコミュニケーションが無いと糾弾される。ついに、蓄積され膨張した憤懣の炎を吹き上げれば、さっきまで家庭内における絶対的強者であった妻子はたちまち被害者面に豹変し、DVだと絶叫する。こんな理不尽なことがありましょうか。実に恐ろしい。恐ろし過ぎる。さて、結婚生活にはまだまだ艱難な障壁が潜在しております。食事もそうです。私は、その日その夜その瞬間に食べたいと思ったものしか食べたくありません。ていうか食べません。資本主義社会の厳しい一日を終え、帰宅する。まずはひと風呂浴びて食卓につく。「じゃあ今日は越の誉を冷やで。それとタコぶつ」、可及的速やかにそれらが運ばれ、朕は嬉しむ。「今日のタコぶついいねえ。えーと次はカワハギの御造りとゴボ天の炙り、あーそれとお酒同じのも一つ」、見事な包丁捌きに松の葉を乗せたカワハギの盛り付け、上品な出汁に浮いたゴボ天も細かく包丁が入っています。一本目の最後の一杯を呑み干すや否や、絶妙のタイミングでスッと出てくる。朕の心は満たされり。「次は天ノ戸ね」、勿論猪口は替えてくれます。「これ信楽焼でしょ?さっきのは有田焼だよね。手触りと口当たりが気に入ったなあ、、、、、さてと、、、今宵のメインディッシュはと、、、、よしっ柳川にしよっ。割下辛口でね」、カンラカンラ!朕の柳川食はれしは、朕ほろ酔うて腹張れり、朕これ堪らず屁をたれて、朕のにほひに酔いさめる。こんなささやかで楽しき頃刻も、結婚生活では絶対に認められません。私の意向は完全に無視され、出されたものを黙って食むしか御座いません。はい、ここでまた崇高な自由がひとつ遺棄されました。その自由とは、「食料選択の自由」です。つまるところ、結婚してしまうと自分の食べたいものが食べられなくなってしまうのです。更に更に私は、休日は得心がゆくまで寝ていたい、遠くまで遊びになんて行きたくない、まとまった休みが取れても旅行なんて絶対に嫌だ、親戚付き合いも近所付き合いもまっぴら御免、祭りも死ぬほど嫌い、子供の運動会で走りたくない(実は私は驚異的な俊足なのですが)。これら私が嫌厭し、ひたすら逃避したくなる事の殆ど全ては、結婚生活、家庭生活において欠くべからざる構成要素であります。ですからまた、私のこれらの哀切とも言える要望が、「常識」と「多数決」という無慈悲で鈍感な多数派の蛮力によって徹底的に叩き潰される事は想像に難くありません。「睡眠の自由」、「在宅の自由」、「在京の自由」、「社交の自由」、「バカ騒ぎ大嫌いの自由」、「催事不参加の自由」は殺されます。思いつくままに挙げただけでこれほどの自由が、結婚という呪いによって殲滅されてしまうのです。愛などという空虚で無責任で不安定で、峻烈な打算と正視に堪えない程の汚辱に塗れた自己愛の抽出物を、私は信じられない。そんな物の為に、かけがえのない自由を引き渡すわけにはいかない。既婚者の皆様、貴方は本当の本当の本当に幸せですか。時代は凄まじき勢いで進んでいます。時代と共に人の考え方も生活感覚も変遷します。現在の日本の離婚率をつぶさに見れば、婚姻制度そのものが既に時代にそぐわなくなっており、事実上破綻しているのは明らかではないでしょうか。私は知っています。家族の前では口が裂けても言えないけれど、「結婚生活は疲れる」、「何故結婚なんてしてしまったのだろう」、「結婚なんてしなければよかった」、「出来る事なら今すぐ離婚して独身に戻りたいよ」。呑み屋の片隅で、あるいは寝室で高鼾に鼻提灯を伴いふてぶてしく惰眠を貪る妻の面相を見て歎息し、苦悩に満ちた眠りに落ちる刹那、世の夫の殆どが、これらの言葉を毎夜反芻している事を。一方で、「結婚生活は良いものだ」、「俺は結婚して幸せだそう虚勢を張る方々もおりましょう。しかし、これまた私は知っています。取り返しのつかない事をしてしまったが為に、自分は幸せなんだという自己暗示をかけているにすぎない事、そして、そういった自己暗示をかけなければ、結婚生活の継続が、無体な苦行の連続に陥ってしまう事を。リヒテンベルグは言いました。「結婚とは発熱で始まり悪寒で終わる」、バルザックも言いました。「あらゆる人智の中で結婚に関する知識が一番遅れている」、キルケゴールも言いました。「結婚したまえ、君は後悔するだろう。結婚しないでいたまえ、君は後悔するだろう」。そして最後に、「独身者とは、妻を見つけない事に成功した男である」。遥か昔、このアンドレ・プレヴォーの箴言に触れた時、私は全てを悟ったのであります。

正直な人々

私の貧家の周りにあるコンビニの店員は殆どが中国人です。そうだなぁ、数えたわけではないけれど、7割から8割が中国人といった感じです。まぁ、コンビニの店員が日本人だろうと中国人だろうと火星人だろうと北京原人だろうと、そのことそのものについては別に何とも思いません。私が必要な商品を売ってくれればあとはどうでもいい。ただ、中国人コンビニ店員は、おしなべて凄まじく愛想が悪いのです。終始不機嫌な面持ちながらも、「イラサマセ」、「アラタシタ」と言う者はまだましな方で、なかには徹底して無言を貫き、釣銭を投げるようにして客に渡す者までいます。それに比べて日本人店員は愛想が宜しい。どの店員も、ある程度ではあるが、きちんとしています。このような双極的事案を見た場合、読者の皆さんの殆どは、無愛想で投げ遣りで礼を失した中国人コンビニ店員の態度を不愉快でけしからんと感じ、最低限ではあっても一応の礼節を保持している日本人コンビニ店員を好しとするでしょう。しかし、私は違うのです。中国人コンビニ店員の態度の方が好ましく思え、買い物をしていても快適なのです。何故なら、中国人コンビニ店員は、自らの心状に対して正直である事が良く分かるからです。基本的にコンビニ店員は客に釣銭を渡し、「有り難う御座いました」と言います。ですが言うまでもなく、本当に心から感謝の気持ちが湧き出てきて「有り難う御座いました」などと言っている者などいるわけがないでしょう。コンビニ店員は経営者以外皆アルバイトです。経営者であれば兎も角、アルバイト店員が一人一人の客に対していちいち「お買い上げ頂いて有り難い」などと感じるはずはない。彼らアルバイト店員は時給で働いているのですから、客が多かろうが少なかろうが給金は変わりません。永く続けていれば時給は上がるかも知れませんが、それも申し訳程度です。忙しくても、暇でも時給が変わらないのであれば、暇で楽な方が良いと思うのは当然ではないでしょうか。ですから、本当は客なんて来ない方が良い。その結果店が潰れても、彼らは別のコンビニで、またアルバイトをすればよいだけの事です。このように、コンビニアルバイト店員にとっての仕事に臨む感覚は、日本人も中国人も何ら変わりありません。ところが、同じ状況にあっても日本人コンビニ店員は一定度の礼節を弁え、愛想が良く、中国人コンビニ店員は無愛想で失敬に見える。つまりこの事実を敷衍すれば、日本人コンビニ店員は自心に嘘をつき、笑顔を絶やさず、心にもない科白(いらっしゃいませ、有り難う御座いました)を仕事中延々と吐き続ける。一方、中国人コンビニ店員は自心に対して正直に、仏頂面で不貞腐れた態度で働く。私は、人が発する言葉というものに込められた心状をとても精緻に、大切に考えています。であるからして、有り難くもないのに「有り難う御座いました」なんて言って欲しくない。そんなの嘘なんだから。気持ちの悪い愛想笑いなんてして欲しくない。そんな日本人コンビニ店員を見ていると、「あなた、自分の心に嘘をついて、毎日毎日心にもない言葉を機械的に何百回も言い続けて悲しくなりませんか。情けなくありませんか」と言いたくなる。その意味で、中国人コンビニ店員の不貞腐れた態度は、実に正路で立派だと思います。少なくとも嘘がありません。ですから、私にとって中国人コンビニ店員の失敬な態度は大変好ましく快適なのです。毎日毎日自心に嘘をつき続け、嘘というものに対しての感覚が麻痺し、自分が礼儀という外套を羽織った虚言を弄している事実に何ら心の痛みを感じなくなっている日本人コンビニ店員より、よほど人間的です。そして、いつか中国人コンビニ店員が満面の笑みを浮かべ、心の底から「有り難うございました」と言った時、その言葉は、日本人コンビニ店員の手あかに塗れた言葉とは比較にならない重みを持つでしょう。銀座や秋葉原を闊歩する中国人観光客は一様に、必要以上に声が大きく、所作も粗野で下品に見えます。いくら私でも彼らの行動を不快に感じる事もあります。しかし、一点光る、中国人の自心に対する無様なまでの正直さには畏敬の念を覚えるのです。ここまで読んで、私の事を親中派と断じるのは些か早計です。私は、身近に散在する中国人の行動形態の一部を切り取って私見として好ましいと述べているだけです。中国に限らず、相手国が如何なる国であっても、対国家的相互理解は、永遠に不可能だと考えています。ですから、中国という国家に対しては特段何の感情も持っていません。数十年前の事を想起すれば日本人も、ニューヨークの高級ブティックに頓珍漢な出立ちで大挙して押しかけブランド品を買い漁り、マンハッタンの高層ビルを濫買するといった下劣極まりない愚行を働き現地人の顰蹙を買ったものです。故に、現在日本に押し寄せる中国人に眉を顰め、小馬鹿にしてせせら笑う一部の日本人は、自分達の過去の醜行を省観する事も出来ない大バカ者と言えるでしょう。我々日本人も、礼節という婉曲で、いやらしく、無意味で、単なる嘘でしかない鎧を脱ぎ棄て、無愛想で、無礼で、失敬な中国人の言動を少しは見習うべきではないでしょうか。相手の健康の事など何の心配もしていないのに「皆様の御健康を心よりお祈り申し上げます」とか、全然有り難くもないのに「誠に有り難う御座いました」とか言うのはやめましょう。そしてしかし、私が相手に「有り難う御座いました」と言う時、それは本当に心から「有り難や」と思料しているのです。 おしまい。

同化という楽土

前稿で僅かに觝触した日本人における組織への帰属意識について考察したい。ある集団、或いは組織に、精神的及び物理的な帰属行為を執る場合、孤立(疎外)→不安(疎外感による)→同化(周囲への)→帰属(安心)、といった4段階の過程に定式化される事は誤りではないだろう。私は一日本人の一傍観者として、この日本社会における日本人の帰属行動を観察するに、劇甚な違和感を覚えるのである。論じるまでもなく、私はあらゆる意味で自分が社会の中での少数派である事を十分に自覚している。然しながら敢えて言えば、全ての事象にあまねく内在する本質は、多数決によって決定づけられている訳ではない。従ってこの際、論者がマジョリティであるかマイノリティであるかは、一切無視しても何ら問題が無いものと勘決する。また、そうであってもこの考察は、マイノリティ(私を含む少数派)の視点からマジョリティを視たものであることは順当とする。さて、まずは第一段階である孤立(疎外)から考究したい。人間が自らの主体性を徹底的に追求した場合、社会から疎外され、孤立するのはこの日本社会では極めて自然である。主体性の追求と社会的孤立度(疎外性)の上昇は正比例の形をとる。(この時、社会的孤立度を社会的帰属度に置き換えれば、当然ながら反比例となる)。ところが、日本では当然の帰結である主体性追求による社会的孤立という困難な関係性が、適度に調和されている国がある。それは私が嫌忌する米国である。例えば米国のとある組織で、「今夜皆で呑みに行くんだけど君も来ないかい」「ヤダよ」「そうか。じゃっまたな!」。数日後「今夜皆でカラオケに行くんだけど君も一緒に来ないかい」「カラオケは好きじゃないんだ。やめとくよ」「なるほど、君はカラオケが嫌いなんだな。わかったよ。またな!」。またまた数日後、「明日の休日は皆でテニスのトーナメントをやるんだけど、君も参加しないかい」「僕は休日はゆっくり読書をしたいんだ。それに休日まで仕事仲間と一緒に居たくないよ」「それもそうかもな。それじゃ月曜日に会社で会おう!」。この様な、勧誘→拒絶という対立行為を何度となく反復しても、米国社会ではこれを理由に組織内で孤立したり排除されたりする事は殆ど無い。これは、米国が個人の主体性を最大限に容認する事を良しとする、この点に関しては極めて洗練された社会である事を意味している。米国嫌いの私もこれに限定しては高く評価せざるを得ない。一方、我が国日本の組織内で同様の行動を執ればどう言う結果をまねくか。一度や二度なら兎も角、勧誘→拒絶を繰り返すうちに、「あいつは変わったやつだ」「付き合いが悪い」から始まり、「協調性が無い」「もう相手にするのはやめよう」となり、マジョリティによる陰鬱な排除行動に移る。そして徐々に仕事の流れから外されてゆくのである。こうなると、仕事に関してどんなに優れた能力があろうと、もう出世は望めない。組織人としては絶望だ。まさに孤立(疎外)したのである。であるから日本社会のマジョリティは孤立(疎外)を恐れる。組織内において何らかの事由で孤立しそうになった瞬間、恐怖に襲われ、不安という蟻地獄に突き落とされる。これが第二段階の不安である。では何故日本社会のマジョリティは孤立を恐れ、不安に陥るのか。その元凶は幼少時からの公教育であると考える。日本の公教育が人間の主体性を悉く踏蹂していることは疑いようがない。そもそも公教育とは本質的に、暴力(精神的であれ肉体的であれ)を伴う強制行為によって国家に隷属する人間を育て、社会に排出する事が本分なのであるから、被教育者の主体性を全て許容するのは不可能である。問題なのは、その主体性たるものの許容範囲なのだ。日本の義務教育課程では、個人の主体性の許容範囲が異常とも言えるほど狭い。皆同じようなランドセルを背負い、同じような帽子をかぶり、似たような靴を履いて、通学班という集団で隊列を組んで登校する(この場合私立学校は除く)。この状況が私には極めて異様に映る。子供(個人)の好みは多様な筈であるのに、なぜそろいもそろって同じような格好で登校するのか。それを強制されているならば、なぜ抵抗しないのか。それは、服装や持ち物という、取るに足らない表面的な要素であっても、周囲から孤立するのが怖いのである。他の子と違う物を持っているといじめられやしないか、仲間外れにされないかと、親は心配する。親もそういった教育を受けてきたのであるから当然だ。昼食(給食)も個人の好みを一切無視し、一律の料理を無理やり食わされる。好き嫌いなく何でも食べる子供は良い子とされ、好き嫌いの多い子はわがままな悪い子とされる。食べ物の好みと人間性など何の関連性もない筈なのに。義務教育機関での昼食は、全てカフェテリアにし、各自メニューの範囲内で好きな料理を食べさせれば良い。子供が野菜嫌いでも、魚嫌いでも、肉嫌いでも、全く心配無い。人間は好きなものを飲み、食べるのが一番体に良いのだ。少なくとも私は、偏食によって子供が死んだという事は聞いた事が無い。休み時間に、一人静かに読書に勤しんでいると協調性が無いとされる。遠足が嫌いだと拒否すれば変な奴だと言われる。運動会を嫌がれば元気のない子供だといわれる。きちんとした医学的な説明もないままに、決まり事だからと予防注射と称する訳のわからない薬物を打たれる。こういった次元の低い管理教育に嫌気がさし、登校そのものを拒否すれば、登校拒否児(異常児)という烙印を押され親と学校が一丸となって、何としても登校させようとする。ほんの少し考えてみればすぐに分かる事であるが、人間を含め地球上のあらゆる動物は他者に管理される事を嫌うのが最も自然であり極めて至当だ。本来的に他者に管理されることを喜ぶような動物がもし居るのであれば、是非見てみたいものだ。つまり正しくは、管理される事を嫌がり、登校を拒否する子供こそが真に正常で、力強い主体性を持った者なのであり、学校が楽しいなどと言って喜んで、自ら進んで他者に管理されに(学校に)行く子供の方が異常なのである。義務教育という暴力を纏う学校と称する刑務所(実際の刑務所よりやや規則は緩いが)の中で、徹底的に主体性を蹂躙され、削ぎ落とされた人間の大多数(マジョリティ)は、如何なる意味においても孤立を恐れ、疎外される事を死に物狂いで回避し、その孤立に起因する不安から逃れようとする。そして必要以上に自分自身を抑圧し、第三段階である同化(周囲への)行為を模索するようになる。ネクタイはなるべく地味なものを選ぶ。勤務時間外に拘束される理由は全くないにも関わらず、嫌な上司や同僚と呑みたくもない酒を呑む。大切な休日を犠牲にして同僚や部下の結婚式に出席する。結婚というものは完全に個人的な事象であって、元来仕事とは全く関係ない筈だ。顔も見た事が無いような者の葬式に出席する事も、実はかえって故人に失礼にあたるのではないか。毎年毎年、ただ形式的に繰り返される新入社員歓迎会や送別会。くだらない、馬鹿馬鹿しいと思ってもそれを公言すれば孤立する。時代遅れの社員旅行に連れて行かれる。うんざりするが、こういった事を全て拒否すれば、「あいつは自己中心的だ」「協調性が無い」「まったく大人げない」「わがままだ」と、お定まりの科白を投げつけられ、確実に疎外される。これこそが、大間違いなのである。正銘の協調性とは、対人関係において、他者が自身とは全く別の人格である事を率直に認め、なおかつお互いの主体性を最大限に許容しつつ業務上の目標に向かって協力関係を築く力である。これが真の協調性というものであり、本物の独立した大人の態度なのだ。孤立を恐れ、疎外という脅迫に屈し、何とか周囲に同化しようとする姿勢は、日本社会におけるマジョリティの幼稚性と悲哀が極大化したものに他ならない。日本の外交力が著しく脆弱な事実も、この日本社会マジョリティの精神性と無関係ではないだろう。佐藤優のような本物の実力者は結局排除されてしまうのである。かくして、この同化行為を経てマジョリティは集団(組織)にべったりと帰属(第四段階)し、人間の根幹をなす主体性と引き換えに、至上の安心感を獲取する。私の様に社会的マイノリティの視点に立ち、このような事実を目の当たりにする度に、広義での人格の陶冶というものが如何に困難であるかを痛感するのである。読者諸賢、私はまたまた理屈をこねてしまったようです。失敬致しました。御読了に感謝申し上げます。

 

 

幻想に愚弄される霊長

年歯を重ねるにつれ、自らが受けてきた公教育、私教育の殆どが現実と著しく乖離し、虚構で塗り固められた欺瞞に満ちた物である事に刮目し、歎息する。「やれば出来る」、「頑張れば何とかなる」、「努力する事に意義がある」等、これらは私がとりわけ蛇蝎視する言句の典型だ。努力論について今ここに多くのスペースを割くつもりは無いが、端的に言えば、努力とは才能及び運という礎の上で蠢く事によって初めてその意味素が成立するのであって、努力そのものに意味がない事は絶対的である。種の無い畑をいかに必死に耕そうと懸命に水を撒こうと芽はでないし、ガラス玉をどんなに磨こうともダイヤモンドにはならない。一方、種子は芽が出ていなくとも、ダイヤモンドは原石のままでも相応の価値があるのである。成功者は言う。「失敗を恐れず、勇気を持って努力し続けたから成功したのだ。即ち努力する事にこそ大きな意味がある」と。ところが、一見尤もらしい、ややもすると深く頷いてしまいそうなこの言葉は、成功した者にしか吐けない極めて思慮の浅い科白であると同時に、重大な論理矛盾が横たわっている。人は成功という結果を求めて努力する。その結果が無惨にも失敗に終わった場合、それまでの努力は水泡に帰す。現実には、失敗は永遠に恥ずべき失敗のままであり、努力は普く無駄に終わるのだ。成功者による努力は、成功したからこそ恰も肝要に見えるのであり、それはとてつもなくいかがわしい光を放つ麗句に過ぎない。つまりは失敗者の努力のみに真実性が含まれる事になる。そしてその失敗者の努力という真実は、失敗した瞬間に儚くも大気に希釈され遥か彼方に消え去ってしまう。果たして失敗者は、周囲の者から、「もうやるだけやったんだから十分じゃないか」、「結果が全てじゃないよ」、「お前の努力は素晴らしかったよ」「良く頑張ったよ」などという月並みの励言をかけられ、またそれらの励言が全くもって無責任で、なおかつ事実に反する事にうすうす感づきながらも、その周囲の者と同化してしまうのである。周囲と同化する事、それは低俗な帰属意識を充足させる、いかにも甘美で怠惰な楽園なのだ。努力という甚だ取扱いの難しい言葉と同様に、私は愛という思わせぶりで婉曲で抽象的な言葉も究極的に嫌う。愛と嘘は殆ど同義語であるとさえ言える。人間はつまるところ、自己利益に基づいた行動しか執れないという事は、本源的に正しいし、私はそれを体験的に知悉している。貴方が彼女に美味しい仏蘭西料理を馳走するのも、実は彼女に美味しい料理を味わって欲しいからでは全く無く、彼女に美味しい仏蘭西料理を食べさせる事によって、自分への好意を引き続き保ちたいという自己利益に基づいている。その証拠に、食事を終えた彼女が「あー、不味かった。こんな店に二度と連れて来ないで」と言ったら、貴方はひどく腹を立てるだろう。こんな相手の気持ちもわからないような(この言葉も私は大嫌いである)女とは即刻別れようと思うかもしれない。何故だろうか。あんなに好意を持って欲しかったのに。貴方は彼女が何ら自分に利益を齎さない事を悟った。そう、この時貴方は如何なる事由よりも自己利益を優先し、自分に不利益を与える彼女を排除しようとしているのである。貴方が周囲の人々に何時も笑顔を絶やさず礼儀正しく接するのも、良く思われたい、嫌われて不利益を被りたくないという自己利益を求めての事である。他者の為に命を擲つ行為でさえも、それは自らの正義観、生命観を伴う自己美学に則った究極の犠牲的自己利益充足行為であると言わざるを得ない。金銭的寄付行為も、奉仕(実は奉私)活動も、企業が行う慈善(実は偽善)事業も、とどのつまりは完全なる自己利益誘導活動に他ならない。言うなれば、愛と嘘と自己利益という言葉は、完全な同義語とは言えないまでも、異常なまでに緊切した近似値的相関関係におかれている。愛という言葉(概念)が単なる幻想であり、人間が産み出した最も卑劣で悪辣なものであることの証左は、市井の臣の生活の其処此処転がっている。この間まで、あんなに仲の良かった兄弟が遺産相続を巡って骨肉相食むという事態は、なんら珍しいことではない。この時、今までの兄弟愛は、家族愛はどこへ行ってしまったのだろうか。ほんの数日前まで仲睦まじかった恋人がはっきりとした理由も告げず、ある日突然目の前から去って行き貴方は呆然とする。二人で誓ったあの愛は何だったんだろうか。どこへ行ってしまったんでしょうか。彼女の言葉は嘘だったんでしょうか。そう、嘘だったんです。彼女は愛と近似値的相関関係にある自己利益に忠実に従い、貴方の前から消えたのです。さて時は過ぎ、貴方は50歳を越え、定年まで数えるほどとなりました。今日は日曜日、休日です。貴方は発泡酒片手に笑点を観始めました。(チャンチャカスチャラカスッチャンチャン)実にささやかな楽しみです。「うーん。やっぱり歌丸の司会はまだまだ板についてないな」観始めて5分と経たないうちに妻が声をかけてきました。「あなたちょっと話があるの」「あははは!今笑点観てるんだよ。うるさいなあ」「笑点なんて毎週やってるでしょ!大事な話なのよ!」妻はいきなりテレビのスイッチを切り画面の前に立ちはだかりました。「なんだよっ、笑点見せろよ!」っと言いながら、貴方は不穏な空気を察知しました。おかしいなあ。なんかヤバイ事でもバレたのかなあ、、、、、。「わかった、わかった。聞くよ。話を聞けばいいんだろう。はいはい、なんで御座いましょうか」「なによ、その言い方。真面目に聞きなさいよ。大事な話なんだから」「はい、、、、」「花子もお嫁に行って2年になるわね」「うん、そんなとこかな。早いもんだな」「太郎も去年就職して頑張ってるみたいね」「そうだな。頑張ってる。先週八重洲で一緒に呑んだよ。でもなんだよ。そんなこと改めて言わなくたってわかってるよ」「そこでね、子供もみんな独立した事だし、あたしリセットしたいのよ」「リセット?何だか良く判んないけど、いいんじゃない、どんどんリセットすれば」「あなたあたしの言ってる意味わかってんの?」「うーん、まあね。まあ気持ちはわかるけど、その歳でエステとかいっても芳しい結果は望めないと思いますよ」「違うわよ。あなた馬鹿じゃないの!私はね、人生をリセットしたいのよ!」「人生をリセット?どうやって?それはちと難しいんじゃないの。今さら」「あなたは本当に馬鹿ね!」「あんまりバカバカっていうと俺だってそのうち怒るぞ!」「それじゃあはっきり言わせてもらいます。離婚して欲しいの!お願いします」「、、、、、、、、、、、、、」5分以上無言の時が流れました。「俺は厭だ。絶対に別れん!!」「離婚してよ!」「厭だ!そんなに離婚したいならお前が出て行け!!」すると妻は、まるでこの流れを予測していたように、急に冷静になり「あなた判ってませんね。このマンションの半分は私のものですよ」「そんなの認めん!」「あなたが認めなくたってね、法律はそうなってるのよ」「そんなこと知ってるけど認めん!許さん!!駄目だ!!」しかし妻は貴方の反撃など歯牙にもかけず静かに話し続ける。「それでね、このマンション今売れば3000万位にはなるらしいのよ。不動産屋さんで調べてもらったの」「何をー!くそー!!ローンだってまだ6年ものこってるんだぞ!」「だからね早くこのマンション売って、貯金とあなたの退職金とを合わせて半分ずつにすれば、あたしも当分は生活に困らないでしょ。あたしが生活に困らないってことは、あなたに迷惑かけないってことなのよ。わかる?あ、そうそう、近いうちにメルセデスも査定してきてね」憤激と混乱に塗れた貴方は、餌を求める鯉のように口をぱくぱくさせるだけで、全く二の句が継げない。「あとね、弁護士さんもなるべく早い方がいいでしょうって」もう貴方は失神寸前である。愛と近似値的相関関係にある自己利益を真摯に追い求める妻の態度は、恐ろしく人間的であり、ひたすら正しい。貴方は30余年に渡って騙され続けていたのである。勝者は妻であり、貴方は惨敗者なのだ。努力や愛というものの正体は斯様に無慈悲で残虐だ。若かりし頃、愛などというものを大真面目に信じた貴方が馬鹿だった。迂闊だった。この世の殆どは嘘や出鱈目で構成されているのである。

残懐なる変遷

私の夜の生息地域である日本橋界隈、とりわけ人形町付近に、昨今やたらとお洒落な飲食店が繁茂している。まあ本当に毎週の如く次々と斯様なお洒落系飲食店が開店している。この間まで人形町はあほらしいドラマの舞台になっていたみたいだし。なにやら胡乱な仕掛け人の指矩らしいがうんざりである。私はね、お洒落系飲食店が大嫌いなんですよ。ウィンドウ越しに、そこで働いている人達を見ていると、芸能界に憧れる浅短な若者と同一の精神構造であることが透けて見えます。飲食店というものは、徹底的に清潔で料理が抜群に旨ければそれで良し。それだけで確実に客は入ります。それ以外には何も必要ありません。無愛想な店主でも結構。いちいち話しかけてくる店主よりよほど宜しい。そもそも店舗内装を必要以上にお洒落にするという事は、料理人の自信の無さのあらわれなのではないでしょうか。お洒落系飲食店の店主は30代後半から40代前半で実年齢よりとても若く見えます。髪型はお洒落坊主である事が多く、好い塩梅で日焼けしており、そこはかとなく海老蔵の香りを漂わせています。店の内装はどこもとてもシックです。黒やダークブラウンを基調としています。そして、それに合わせるかの様に店員の服装は暗色系のパンツにロングエプロン、エプロンと同色のキャスケットやハンティングを被っていたりします。照明は間接照明がメインで店内はかなり暗めです。イタリア料理店だろうがフランス料理店だろうがスペイン料理店だろうが焼き鳥屋だろうが、何故かBGMはジャズです。カンツォーネやシャンソンでは、ちときついという事なのでしょうか。しかし店主(絶対に誰にも見つからないようにこっそりとレオンをチェックしている)は、実はあまりジャズに詳しくないので有線放送かネットラジオです。勢い、ゲッツとかロリンズとかハービーとかサラとかエバンスとかパウエルとかマイルスのプレスティッジ盤とか、超の上に超がつくベタジャズを流してしまいます。更に、大抵とても読みにくいフォントのメニューが置いてあります。異様に大きな皿の真ん中にちょこんと料理がのっています。店員のチームワークもばっちりで、開店前の15分ミーティングも欠かしません。だからどの店員もとてもにこやかで楽しそうに働いています。既に私はげっぷが出そうです。このように考察してゆくと、お洒落店にしようとすればするほど実は定型化してしまうのです。どうしてもっと普通に出来ないのかなあ、フツーに。そういう店に居ると客の方が照れ臭くなってしまいます。結句、このようなお洒落系飲食店には、20代から30代前半のOLが溜まるようになります。OLが溜まっている飲食店は旨くないという事は世界的常識なのですから、須く料理は旨い筈がありません。何故なのか。まず、OLはスタバやベローチェといったカフェチェーン店のコーシーを好んで飲みます。あの手のコーシーを旨いと感じている時点で既に終了しています。また、女性は店舗内装や食器、店員の服装などの雰囲気にとても飲まれやすい。そして決定的な理由は、OLは可処分所得が低いという事です。可処分所得の低い者(パパがいるOLは除く)は普段から旨いものを食っていませんので料理の微妙な味など全くわかりません。あなたの周りに出没するOLに対し試しに、今が旬の魚を5種類挙げよ、と質問してみればよい。返答に窮する事は目に見えています。その点、可処分所得の高いオヤジ(オヤジでも可処分所得の低い人は居ますが)は違います。普段から自腹で旨いものを食っております。したがって心なしかオイリーかつチョイエロですが、それは仕方がない。店舗内装や食器などというフンイキモノには絶対に騙されません。「俺は昨日水谷行って、当てで鮪と鰹をたらふく食ってきたんだかんな。当てだよ当て。握りじゃないよ。だからね、いくら綺麗に盛り付けても、こんなカルパッチョ全然駄目。話になんね。オヤジをなめんなよ」ってな具合です。店であれ服装であれ、お洒落に見えないのが洒脱なんであって、一見して洒落て見えるのは、垢抜けず、無様な事の証左なのである。一見何の変哲もないポロシャツ(実はフレッドペリーのビンテージ)を着て、一見どうってことないデニム(実は47の501)を穿き、フツーのブーツ(実はジョブマスターのセカンドモデルで、既に10回以上リソールしている)を履いて、明治時代から続いている洋食屋でひなかから江戸団扇で扇ぎながらビーフカツレツで呑む。本当はこんなのが一番洒落ているのです。日本橋はそんな街だったのです。誰に申し上げてよいのか判りかねますが、もうこれ以上日本橋をオサレエリアにしないで下さい。そういう店をやりたい人(そういう店が好きな客)は、港区か、渋谷区や目黒区で思う存分オサレパワー全開の店をやって下さい。決して中央区には来ないで下さい。千代田区にも来ないで下さい。台東区にも来ないで下さい。江東区にも来ないで下さい。墨田区にも来ないで下さい。どうか御願いいたします。

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