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悪魔との対話

月に何度か仕事の後に訪れている児童養護施設での事である。子供達に器楽演奏の指導をしている私の背後で、一人の男子が施設の先生に叱喝されていた。「何か悪戯でもしたのだろう」、私はさほど気にする事も無く、指導を続けていた。すると程なくしてその先生が男子に向かって、「お前は自分さえ良ければそれでいいのか!」、と怒声を上げたのである。これはいけない。聞き捨てならない。私の耳に入る様な状況で、こいういった愚昧で決まり文句の様な科白を吐いてはならない。思慮が浅く愚かなこの先生は、私の逆鱗に触れてしまったのである。「皆さん、一所懸命に練習しているところ申し訳ありませんが、手を止めて私の話を聞いて下さい。世の中には、音楽などよりもずっと大切な事があります。今、私の後ろで、先生が赦し難い嘘を言っているのが聞えました。それを聞き流す事はできませんので、今日は楽器の練習をやめてその話をします」私は愚かなる先生に詰め寄り、「貴方は今、その子供にとんでもない嘘をつきましたね!聞えてしまった以上、私はそれを赦す事が出来ません。貴方の様な低劣な思考回路しか持たない人間に子供を教育する資格などありません。頭を丸めて明日にでも出家したら如何ですか」 「何をいきなり失礼な!Yさんはこの子が何をしたか知っているんですか!余計な口出しはしないで下さい!」  嗚呼、哀れなり。この蒙昧先生は自分か如何にバカな事を子供に言っているのか全く解っていない。このレベルで脳の発達が止まってしまった大人と話をしても不毛である。 こういう人は社会に対して何の疑問も抱かずに生きてきたのであろう。 「お前は自分さえ良ければそれでいいのか!」 そうである。それでいいのである。何故なら日本は資本主義国家だからである。市場原理に基づく資本主義社会とは、「自分さえ良ければいい」 という原理原則によってのみ成立しうる。「自分さえ儲かればいい」 「他人などどうなっても構わない」。甚だ残念ではあるが、これが資本主義社会の正体であり、動かし難い現実だ。そもそも資本主義とは、数の決まった椅子を奪い合う椅子取りゲームではないか。誰かが儲かれば、必ずそれより多くの人が損をしている。資本主義経済社会において共存共栄など完全な絵空事、全く以て不可能なのだ。聞こえの良い、しらじらしい社是を対外的に掲げている企業も、常にライバル企業を蹴落とす事に血道を上げ、あわよくば潰れる事を願っている。会社の中でもそうだ。大企業の社長ともなれば、平社員の数百倍の給与を手にしている。F1レーサーや売れっ子の芸能人であるなら兎も角、一人の人間の労働力など大して差は無い筈であるのに、これはちょっと貰い過ぎだろう。社長自ら、社員と一丸となって汗を流して働いている中小零細企業の社長は別として、大企業の社長は、「自分さえ良ければいい」という原理原則で動いている資本主義社会に最も上手く適応した人間であり御手本なのである。私の親族にもそういう社長がいた。仕事が出来、人望もあり、ここぞという時には大胆な決断を下し、そつなく成果を上げる。豪放磊落でありながら時折細やかな気遣いを見せるという嫌らしい人誑しの術も勿論身に付けている。部下をとても可愛がると同時に慕われている。しかし、如何にこういった好人物を装ってはいても、腹の底では「自分さえ良ければいい」と思っているのだ。何故なら、彼は自社の社員が毎日満員電車に揺られて痛勤している事を知りながら、自分は運転手付きのレクサスで悠々と出勤しているからである。昼休みに社員が吉野家に行列しているのを尻目に、自分は取引先の社長と旨い物を食っているからである。社員が立ち呑み屋で憂さを晴らし、終電に駆け込まんとしている時に、自分はレクサスのコノリーレザーのリヤシートに身を沈めて鼻提灯を膨らまし、目が覚めれば世田谷の豪邸に着いているからである。こういう行為は、普段から「自分さえ良ければいい」と思っているからこそ出来るのであるし、レクサスのスモークガラスの向こうに、土砂降りの中傘をさして歩く社員を認めても「俺は社長で奴は平社員だ。悔しかったら社長になってみろ。だからこれでいいのだ。自分さえ良ければそれでいいのだ」と言えるからこそ出来るのである。或るラーメン屋は、向かいのラーメン屋に行列が出来ている事を妬み、ある鮨屋は、向かいの鮨屋が食中毒を出すと喜ぶ。受験とてそうだ。「自分さえ東大法学部に合格すればいい」のであり、「自分さえ慶応の経済に受かればいい」のであり、「自分さえ早稲田の理工に合格すればいい」のだ。「えっ、貴方も東大の法学部受けるんですか。そうですか、、、ただでさえ倍率高いですからね、じゃあ私は受けるのやめますから貴方どうぞどうぞ」なんて言う人は居る訳ないのである。私だって、貴方だって、「自分さえ良ければいい」人として生きている。貴方は宝くじを買う。そう、「自分さえ当たればいい」。外れた人に「貴方外れたんですか。御気の毒に。可哀そうだから私の当選券差し上げますよ」とは絶対に言わない。私は目当ての人気割烹に走る。そう、「自分さえ呑めればいい」。後から来て入れなかった客に「あれ、満席みたいですね。それでは私は遠慮しますので、貴方ゆるりと呑んで下さい。ささっ、如何にも」とは口が裂けても言わない。「自分さえ一流企業から内定をもらえればいい」し、「自分さえ高収入の男と結婚できればいい」。「自分さえ良ければいい」から、戦争がおこる。真実や本質を覆い隠し、建前や理想だけを子供達に押しつける事は、到底教育とは言えない。人間とは美しいものでも崇高なものでもなく、下品下劣で醜く、利己的で身勝手な惨たらしい生き物である事を子供達に徹底して叩き込むのが教育の第一歩なのである。そして大人達がライバルの不幸を願い、金に振り回され、欲得ずくで見苦しく這いずり回る資本主義社会のさもしい実態やその惨状を嫌と言うほど見せつけるのだ。このように、人間が根源的に内包する浅ましさや破廉恥性を子供達に強烈に自覚させ、その上で、地獄の如き浮世を如何に生きるべきかを自分の脳で考えさせる事こそが真の教育とは言えないだろうか。思いやりや謙譲といった、似非教育者が金科玉条の如く宣う精神は、自分と極近しい対人関係の範囲でしか通用しない。全ての人を思いやり、全ての人に先を譲れば自分が生きる方処は無くなる。この世に正義など存在しない。欺瞞と裏切りで充満している。だからこそ、人間とはどうあるべきなのかを、子供であっても誰に頼る事無く、自身の脳で勘考し考え尽くさなければならない。こういう話を、私は子供達が何とか理解出来るレベルまで噛み砕き、時間をかけて話した。一時間くらい話したであろうか。私が話をしている間、子供達は最後まで一言の私語も発せず、真剣な眼差しで話を聞いていた。話が終わると子供達は私に問いかけてきた。「大人は大変なんだね」 「うん、凄く大変だよ」 「生きてて楽しい?」 「楽しくなんかないよ」 「苦しい?」 「苦しくて苦しくて逃げ出したくなるよ」 「なんで逃げないの?」 「何処へ逃げても結局同じだからだよ」 「どうしたら苦しくなくなるの?」 「死ぬしかないね」 「じゃあ死んじゃえば?」 「そうだね、別に今すぐ死んでも良いんだけどもう少し後にするよ」 「どうして?死んだら苦しくなくなるんだったら今すぐ死んじゃった方がいいじゃん。なんで後にするの?」 「今すぐ死ぬのは怖いからだよ」 「死ぬのが怖いから生きてるの?」 「その通りだよ。おじさんは死ぬのが怖いから、死ぬ勇気がないから生きてるだけなんだよ。ただね、もう少し色々な事を勉強すれば、死ぬのが怖くなくなると思うんだな。それで死ぬのが怖くなくなったら、おじさんは死ぬね」 「死ぬと楽なの?」 「そりゃあそうだよ。全ての苦痛から解放されるんだからね」 「解放ってどういう意味?」 「自由になるってことだよ」 「自由って楽しいの?」 「どうだろう、それはおじさんにも解らないよ」 「どうして?」 「おじさんは死んだ事がないからだよ」 「大人になるの嫌だな」 「おじさんも嫌だよ」 「だっておじさんはもう大人でしょ?」 「そう、だから自分が嫌なんだよ。でもね、君達子供だって悪魔なんだよ。君達はまだ未熟だから大したことは出来ないけれど、頭の中では悪い事を一杯考えているだろう?ズルイ事ばかり考えているだろう?おじさんは知っているよ。おじさんだって昔は子供だったんだからね」 「僕はズルクないよ!!」 「いや、君はズルイね。ズルイ筈だ」 「なんで!!ズルクなんかないし、悪い事もしていないよ!!」 「気をつけた方がいいね。自分が正しいなんて思いこむ事は最も恐ろしいことだよ。人間は皆ズルイし悪いものなんだ。だからね、そのズルサや悪さをどうやって押さえ込むかが大切なんじゃないかな」 「どうすればいいの?」 「それはどんなに時間がかかっても自分で考えるしかないね」 「教えてくれないの?」 「嫌だね」 「おじさんは意地悪だね」 「そうだね、とても意地悪だね」 「友達に嫌われるよ」 「友達はいないよ」 「ふーーーん」      おわり。 

屑の一分

東京電力前社長清水正孝は、人類史上最大最悪の福島第一原子力発電所メルトスルー事故を発生させておきながら、事故当時、刻々と悪化の一途を辿る事故現場から事故収束作業員を全員撤退させようとした。メルトダウンどころか既にメルトスルーという人類が嘗て経験した事の無い驚駭の事態に陥っている事実を知った清水は事故を放擲し、東電社員諸共、尻尾を巻いて現場から逃げ出そうとしたのである。「無責任」、「卑怯者」といった言葉は、正に清水正孝の為に存在するのであろう。これを聞いた前首相菅直人は激昂し、東電本社に乗り込み「撤退などありえない。命がげでやれ」と東電幹部社員を一喝した。この一件は、各メディアによって広く報道されただけに、読者諸賢も須く存知している事だろう。この一点のみをとっても、私は菅直人という男に首相としての及第点を与えたい。加えて、福島第一原子力発電所メルトスルー事故という未来永劫取り返しのつかない大人災と引き換えにしても、脱原発を宣言した事は大きな足跡として一定の歴史的価値を認めても良いのではないだろうか。私は常々、政治家とは一人の例外も無く全て人間のクズだと断じているから、菅直人とてそのクズの一員としか思っていない。しかし、東電とドブン、ザブン(官僚が使う隠語。意味は文脈から解りますね)の関係にある他の民主党議員が内閣総理大臣であった場合、果して菅と同様の決断が可能だったであろうか。ましてや、党自体が東電と切っても切れないズブズブの愛人関係にある自由民主党が政権を担っていたとしたら、如何なる手段を講じても東電を原発を擁護したに違いない。このような事実を鑑みれば、菅直人というクズもまあ少しは気概を見せたのだと考えてもあながち間違ってはいないだろう。さて、過日出張先で投宿した安旅籠にて、寝台に転がりながらテレビのスイッチを入れると、引き摺り降ろされたばかりの菅直人が、利口そうに見えて実はノータリンの女性キャスターから単独インタビューを受けていた。インタビューの内容自体は実の無いものであったが、私はなんとなく見続けていた。すると或る時菅の顔がアップになったのだが、その時私は息を呑んで飛び起きた!なんと、菅の左の鼻の穴から申し訳なさそうに太い鼻毛と細い鼻毛が一本ずつ計二本飛び出していたのである!菅の鼻の穴は大層小さく、その飛び出していた二本の鼻毛も、常人であれば何ら気付かず見落としてしまうレベルであったが、私はそれを毅然として赦さなかった。なにしろ、実は私は全三巻の大著『鼻毛飛び出し論』の著者であり、鼻毛飛び出し論そのものの創始者なのである。私の鼻毛飛び出し論を知らぬ者は、己の無知を恥じて欲しいところだが、寛大な私は簡潔に御説明差し上げる。『鼻毛飛び出し論』の主題は、自分が相対する者の鼻の穴から鼻毛が飛び出ていた場合に、どう対処する事が道徳的善、及び倫理的善であるかを哲学的見地から精緻かつ徹底的に分析し論じたものである。そのスケールたるや極めて壮大で、ヘーゲル体系をもあっさりと凌駕する程の比類なき広がりを持っている。また、その難解さも極め付きで、カントの「純粋理性批判」に比肩、或いは凌駕する水準と言われており、『鼻毛飛び出し論』を読み解くには、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル等のドイツ観念論は勿論、フォイエルバッハ、エンゲルス、マルクスの唯物論やクロポトキン、プルードン、バクーニンといったアナーキズムまでを精確に理解し、身に付けていることが最低条件となる。そして、『鼻毛飛び出し論』は従来の哲学的常識を遥かに超越している。観念論と唯物論の間を縦横無尽に行き来し、その時の都合の好い方にめまぐるしく主張が変節する為、その哲学的立場も曖昧模糊としている事や、論理の飛躍が著しく、少しでも気を抜いて読もうものなら何を言っているのかさっぱり分からなくなってしまい、支離滅裂に感じてしまうのだ。更に、『鼻毛飛び出し論』は、私が最も得意とするスワヒリ語で書かれている事も、その難解さに輪をかけている。『鼻毛飛び出し論』とは、斯くも厳しく激しい超難解書なのである。菅直人の僅かに飛び出た鼻毛を断じて見逃さなかった私は、自らの犀利で機敏な心神が保持されている事を自負したと同時に、自身の胸中に『鼻毛飛び出し論』に対する熱い情念が、未だぐらぐらと滾っている事実を改めて自覚した。旅先で見たテレビの中に、元宰相の飛び出し鼻毛を目敏く発見するという偶発的な事象ではあったが、これを奇貨とし、遂に私は『鼻毛飛び出し論』を更に発展させ、『鼻毛飛び出し論』とは対極的視座からそれを論ずる『実践鼻毛飛び出し論批判』(『鼻毛飛び出し論』第四巻にあたる)の執筆に着手する事を決意したのである。これは持論を自ら批判するという無謀とも言える挑戦であり、悲惨な結末になるのではないかと按ずる向きもあるかと思うが、どうか私を止めないでほしい。何年かかろうと、艱難辛苦を乗り越えて、何としても私は脱稿する所存である。そして、私の『鼻毛飛び出し論』に対する情熱を再燃させてくれた前内閣鼻毛飛び出し総理大臣、菅直人に万謝を捧げたい。菅直人の飛び出した二本の鼻毛に、私は屑の一分を見たのである。皆さん、私は自分が何故こんな事を書いているのか解らなくなってきました。そういう事情でありますから、本稿はこれにて仕舞と致します。ごきげんよう。

新たなる課題の発生

湯にも入った!腹も減ってる!左手も震えてきた!よーし!何時もの調子だ!煙草と携帯と僅かばかりの酒手を小さな呑み呑みバッグに入れる。「きょうのーーーーーしごとはつらかったーーーーあーとはーーーーしょうちゅうー(チャンチャン)あおるだけーー。なんか余にぴったりの唄じゃのう。岡林信康って好い詩を書くなあ。さてと、今宵は清濱で走りの土瓶蒸しでも喰うかな」  割烹清濱の暖簾を目途に、美禄を焦るあまり蹴躓きそうになりながらも小走りで、大字日本橋字堀留村椙森神社を抜けようとしたその刹那!漆黒の闇に浮かぶ何やら奇怪な人影が二つ!ややっ!賽銭泥棒か!!私は鞍馬天狗よろしく翻り、玉垣の陰に身を潜めた。息を殺して玉垣の間から賊を窺うがさしたる動きは無い。さては、、、掠めた賽銭でも勘定しているに違いない。いくら浮世が不景気とは言え、賽銭を掠め取るとは不届き千万。字堀留村の岡っ引き、このジロ蔵が成敗してくれる!「やややぁ!!火付け盗賊許すまじ!」頃合いを見計らって賊の面前に躍り出た。しかしながら二人の賊に動きは無い。此奴、このジロ蔵の見参にも怯まぬところを見るに、かなりの大物。並みの賊ではない。ますます怪しい。心してかからねば。「えいっ!これでも食らえ!」 ジロ蔵のシュアファイアーM6(強力な懐中電灯です)が火を吹いた。「ピカリ!」 シュアファイアーM6の無慈悲な閃光が闇夜を切り裂き、賊二人の面体を容赦無く照破した。「ああぁぁ!!」 なんとふしだらな!二人はチューをしていますよ!しかもかなり強烈に。しかもユーカリの木にしがみつくコアラの様にしっかと抱きあって。うぬぬ、、、、。この罰当たりめ。事もあろうに大字日本橋七福神の一つ、江戸富籤発祥の地、字堀留村椙森神社恵比寿の神の御前にて接吻なる淫らな行為に及ぶとは何たる恥知らず。賽銭泥棒より質が悪い。何としてもこの破廉恥行為をやめさせねば。しからばこうしてくれよう!ジロ蔵は疾風の如く神社の階段を駆け上がり、鈴の緒を諸手で掴んで揺らし、力一杯大鈴を鳴らしてやった。「ガランガランガラガラガラーン!!!」字堀留村椙森神社晩夏の宵、二つの大鈴の音が静謐を打ち破る! これには熱烈接吻不埒者二人も流石に参ったらしく、おもむろに身を離し、こちらに眉目を向けた。その面相を検めようと、ジロ蔵は再応シュアファイアーM6で憤怒の撃光を浴びせる。「ピカピカピカリ!!」先程まではチューをしていた為に接吻賊の横顔しか見えなかったが今度は真正面。チューチューラバーズの顔貌が闇夜にくっきりと映し出された。「あわわわわ!」 これがまあ何と申しましょうか、どうしたらこんな顔の女が生まれてくるのかオトータマ、オカータマに詰問したくなる程の、もんの凄いブス。歳の頃なら中年間、カツラを被ったオオサンショウウオの様な顔でふてぶてしく此方を睨んでいます。写真でも撮ろうものならカメラが壊れてしまいそうな形相です。片や男の方はと言えば、これまた何か退っ引きならぬ悩みでも抱えているのでしょうか、脱毛症の鶏の如く貧相極まりない輩です。斯様な、世にも稀に見る醜女醜男による炎の接吻を目撃してしまったジロ蔵は、誂えたばかりの草履で犬のウンコを踏んでしまった時と同様の、哀しくも虚しく切ない心持ちとなってしまいました。しかし、これ程までの醜劇を見せつけられても引き下がらないのがジロ蔵。萎える気持ちを奮い立たせて一喝した!「あのー、、、、シモシモ、、、其処の御両人シモシモ、、、、、。お取り込みのところ失敬致すが、此処は由緒正しき神社でありますぞ。神様の前でその様な卑猥な情事に没入するとは何たる事ぞ!恥を知れ!恵比寿の神もさぞや悲しんでおられるじゃろう。情史情話は即刻結了とし、直ちに此の場を立ち去れい!!」 するとカツラオオサンショウウオ、「何よ!このオッサンバカじゃないの!」ときた。貧脱毛系鶏男は身じろぎもしない。常時のジロ蔵であれば、すかさず反駁の怒号を浴びせるか、百叩きを呉れてやるところだが、何故か押し黙ってしまった。ジロ蔵には、先程のカツラオオサンショウウオの反撃の中に、「カツラオオサンショウウオがチューしたって良いじゃない!何が悪いのよ!」という被抑圧者の痛切な心の叫び、或いは声なき声が聞えてしまったのである。「そうか。確かに某はバカかもしれぬ。では好きになされよ」 ジロ蔵は、憤然と立ち尽くすカツラオオサンショウウオと、おどおどした脱毛鶏の面前を横切り、清濱に向かってトボトボと歩みを進めた。その晩は、あまり酒も進まず、早々に清濱を切り上げ床に就いた。翌晩、ジロ蔵は気を取り直して近傍の鰻屋へ足を運んだ。鰻が焼けるまでの間、肝焼きで酒を舐めていると、「あっ!!!あれは!!」 奥の板場にカツラオオサンショウウオらしき影が!いやいや何かの間違いだろう。ジロ蔵は高鳴る鼓動を押さえつつ思案する。此処はもう十年近く通っているが、カツラオオサンショウウオなど今まで見た事は無い。それに家族経営で、主人は何時も他人を雇うのは嫌だと言っている。一緒に働いているのは息子夫婦の筈だ。やはり見間違いだろう。昨夜の一件が尾を引いているな。っと思ったら板場の奥に再びカツラオオサンショウウオがチラリ。「はっ!!!」 驚きのあまり肝焼きが喉に詰まりむせてしまったジロ蔵は、「女将!水水!」 「あれあれジロ蔵さん、むせてしまいましたか。はい水ですよ。ゆっくり飲んで下さい」 「っあーっ助かった助かった。時に女将、先程板場の奥に見慣れぬ女を見留めたが誰じゃ」 「それはちょっと、、、、、」 「何じゃ言えぬのか」 「いえ、そういう事ではないんですが」 「では教えてくれ」 「、、、、、、、娘です」 「な、な、何!あのカツラオオ、、、あ、いやいや、あの女が此処の娘じゃと!」 「はい」 「今まで居なかったではないか。さては、、、、、出戻りか!」 「はい。辱しながら、、、」 ジロ蔵は鰻丼を掻き込み、そそくさと見世を出た。此処の鰻屋の主人はきりっと引きしまった男前。女将もまあ器量好しとは言えぬが十人並みである。どうしたらこの夫婦からあのカツラオオサンショウウオが発生するのであろうか。この歴然たる事実に、ジロ蔵は遺伝子の不思議を感じずにはいられないのであった。そして、大字日本橋字小舟村におけるカツラオオサンショウウオ誕生の謎を何としても突き止めんと誓った事は申すまでもないだろう。

 

節電するバカ

上午の厳しい労働を終え、貴方はささやかな愉しみである中食に出掛けようとする。「今日は寿司でも喰おうかな。あそこは回転寿司にしては結構旨いんだよな。そうしよう、そうしよう」 すると同僚、或いは上司から「そこのさあ、回転寿司の隣に在った焼き鳥屋が潰れた跡に出来たイタリアン意外と旨いみたいなんだよ。行ってみようぜ」と声がかかる。貴方は昨晩、愚妻が作ったアルデンテとは程遠い、茹で過ぎたうどんの様なぺペロンチー二を喰わされたばかりである。「うわっ、参ったなあ。さっぱりと寿司でも喰おうと思ってたのに」と心中閉口するが、「なあ、お前も行くだろ」と念を押され、「お、おう。そうしようか」と思わず同調してしまった。己の付和雷同的性格を省観しつつ渋々ついて行ってみれば、化学調味料まみれのインチキイタリアン。まるでインスタント食品と同じレベルだ。後悔と落胆が激しく交差する心持ちで、その妙に脂っこい化調大量投下型ボンゴレロッソを、ゲップを連発しながら仕方無くついばむ貴方を尻目に、上司や同僚は「旨い旨い」と頷きあいながら満足そうに食んでいる。「これが旨いだなんて、こいつら完全に化調ジャンキーの味盲だな」と腹の中で一人嘲笑するが、断りきれずに同行してしまった自分がやはり情けない。化調爆撃ボンゴレロッソを半分以上残し、「あれ、もう食べないの」 「ああ、今朝からちょっと胃もたれ気味で」という切ないやりとりの後、貴方はジャンクイタリア料理店を出る。全面禁煙化された自社ビルの16階。非常階段の踊り場でマルボロに火を着ける。溜息で紫煙を吐き出しながら、右手に載った緑の100円ライターを見つめ、「先月の誕生日に、浜町のキャバクラの優香ちゃんからプレゼントされたライター、もう失くしちゃったんだよな。どうしよう。叱られちゃうな。あそこは暫く行けないな」。愚にも付かぬ事を案じながら再び煙霧を流す。「そうだ!そんな事より今晩こそ刺身を食おう。後でカミさんに電話しなくちゃ」 三社祭で貰った安物の携帯灰皿でマルボロを揉み消し、貴方は職場に戻る。下午も激務だ。その上、直属の上司である体育会系バカ課長は節電キャンペーンを盲信し、エアコンの設定温度は29度と譲らない。暑いのなんの、部下達の顰蹙を買っている。ほおずき市で貰った団扇を片手に貴方は頑張る。下午3時の休憩。団扇を持ったまま非常階段の踊り場に飛び出す。「なんだ。外の方が涼しいじゃん」 咥え煙草で、意を決して腐妻に電話する。「あなた何の用」 「あのさあ、今晩刺身が喰いたいんだけど。出来れば鮃かイサキ」 「、、、、、、、」 「あ、、、いやいや何でもいいんだよ。蛸でいいよ蛸で。蛸が喰いたいなあ、、、」 「あなた今頃電話してきて何言ってるのよ!もう買い物済ませちゃったわよ。今夜はキーマカレーよ。じゃあね!」 ブチッ。「あーあ、カレーか、、、、」 短くなったマルボロを最後の一息とばかり胸一杯吸い込み、嘆きの煙を放出する。譲歩に譲歩を重ね、蛸を所望しただけなのに、それすらあえなく鬼妻に粉砕された。小さく項垂れて自席に戻ろうとすると、体育会系バカ課長に呼ばれた。「あのなあ、こんな事言いたくないけど、お前いい加減にタバコやめろよ。ウチの課で吸ってるのもうお前だけだぞ。な、やめろよ」 多勢に無勢、なんら反論できず自席に戻った貴方は誰にも聞こえない様に呟く。「誰にも迷惑かけてないじゃないか!こんなささやかで個人的な愉しみまで奪う権利がバカ課長にあるのかよ!」 さて、 暑気の抜けない夕刻、 一日の労働から解放され、やるせない気味合を抱えたまま家路につく。「もしかして、、、」と考えたが、やはり食卓に蛸の姿は見えなかった。淡い期待をよせた自分が愚かだった。コテコテこってりのキーマカレーを流し込む。「ちょっと暑いよ。エアコン強くしてよ」 「よくそんな事が言えるわね!会社だって節電してるんでしょ!みんな我慢してるのよ!」 コテコテこってりキーマカレーを無理矢理完食し(残すと厳しく叱責を受ける)、貴方はそそくさと風呂場に逃げ込む。風呂から上がると「明日は絶対に回転寿司を食うぞ!」と誓い一人床につく。こうして貴方の一日は終焉を告げ、そしてそして似たような日々が、早桶に入るまで果てしなく続くのである。貴方が本当に、謙譲心を持ったとても好い人である事を私は知っている。だが而して、貴方が実は本当に悪い人である事も私は知っている。貴方は何事にも本気で抗わない。怒りの叫びを上げない。身を挺して戦わない。貴方は上司や同僚から、化調爆弾イタリアンに誘われても断固として退け、回転寿司を食わなければならない。体育会系バカ課長と掴み合いの喧嘩になってもエアコンの設定温度を25度にしなければならない。禁煙を強要するマッチョバカ課長の顔面にタバコの煙を力一杯噴出しなければならない。豚妻の頬を張り飛ばしてでも蛸の刺身を買って来させなければならない。それが出来ないのであれば、高濃度化調イタリアンを旨いと言ってパクつくバカ同僚と、脳内筋肉型節電バカ課長と、漫然生存型惰妻と、貴方は同レベルのバカとしてとどまる事になる。何故なら、貴方が心の中で、何をどう考えていようと、こういった節電類バカ科に属する者たちに追従してしまうのであれば、その結果は同じだからである。些細な事だからと他者との対立を避けてはならない。下らぬ事であっても得心がいかないのであれば徹底的な論戦に挑む習慣を身に付けなければならない。何事においても、他者との関係性では対立する事が自然であるとの認識を強く持ち、自らの強靭な主体性を育て直さなければならない。他者との対立こそが、私たちの住む社会を自由で住みよくするのである。貴方の様な御人好しが、節電類バカ科を形成する者たちに、つい盲従してしまった結果が、間接的ではあるにせよ福島第一原発の水素爆発なのかも知れない。かつてウラジミール・イリイチ・レーニンは「国家の本質は暴力である」と指摘した。私はレーニンという人物をさして評価していないが、この言葉だけは見事に的を射た指摘だと思う。主体性を失った国民が多数を占める社会は、国家という必要悪があらゆる隙間にヒタヒタと忍び寄って来る。今回の震災によって、図らずもその国家という巨大な暴力の正体が垣間見えたのではないだろうか。そして私たちは今後半永久的に放射性物質漬けの食品を食わなければならない。お解りだろうか。角を抜かれた牛は、死ぬまで乳を搾り採られるだけなのである。

盲従する衆庶

この場で何度か触れているが、私はテレビ、新聞、雑誌といったマスメディアを全く信用していないし殆ど無視している。ラジオは日常的に聴いているが、道路交通情報と時計代わりに流しているだけである。広告収入に依存したマスメディアが垂れ流す情報の欺瞞性、悪質性を裏の裏まで知り尽くしているからだ。広告主が支払う広告料の正体が口止め料である事は暗黙の了解かつ万人周知の事実と言って差し支えないだろう。この腐敗しきったメディアの構造は今に始まった事ではない。政治と金の関係と同じように、マスメディアと広告料(金)の構造関係は、始めからそうなる事が決定づけられているものなのだ。その似非隠蔽改竄捏造情報製造企業が世論誘導を目的として流す情報を額面通りに信じている人々の多さに、私は何時も驚き、また呆れるのである。まあ、そんな私でも一応健全な社会生活を送っている訳であるから一歩外に出れば、あらゆる場所でマスメディアが吐き出すガセ情報を否応無しに耳にする。さあ皆さん!節電だそうである。バカも休み休み言えと言いたいところだが、政府と電力会社が必死になって流布する電力不足情報を大多数の国民が信じている事に、またまた私は驚いてしまう。結論から申し上げよう。今も昔も、電力各社が公表する電力の需給データは恣意的に改竄捏造された全て完全な嘘データであり、例年通りに電気を使っても、今夏に電力不足など絶対におきない。もしおきるとすれば、震災後数回に亘って関東地方において強行された計画停電(このヤラセ計画停電については、本稿で後述する)がそうだったように、それは電力会社と政府によるヤラセ電力不足だ。当たり前である。そもそも日本に原発など一基も無くても電力供給に全く問題は無く、電力は十分に供給できるからだ。此の事は専門家であれば誰でも知っている公然の秘密だ。何故日本に原発が導入されたかについては、また別の機会に述べるとして、電力会社と政府が徒党を組み、見え見えの電力不足ドラマを演ずる理由は明らかだ。東電及び政府は、福島第一原発が壊滅した以上、電力不足が起きないと非常に困るのである。原発が事故で止まっても何の問題も起きないとなると、今まで嘘に嘘を塗り固めて国民に刷り込んできた原発の枢要性が土台から崩壊してしまう。それだけは何としても食い止めたい。であるから電力各社は、一致団結し総力を挙げて電力不足劇場を開き、厚顔無恥な電力不足猿芝居を演じるのだ。それが全くの嘘、デタラメの茶番劇である事が一部の国民にバレていても、「原発が事故で止まっても電力不足は起らなかった」という事実を認める事は絶対に出来ないし、それを歴史に刻む訳にはいかない。いくら見え見えでも、明らかにバレバレでも狂ったように電力不足音頭を踊り続ける。人間の良心や倫理観、道徳心や自尊心といったものが完全に欠落した鬼畜にも劣る行為である。先述した震災数日後に強行された空々しい計画停電も噴飯ものだった。しかし同時に、国や大企業が己の組織防衛の為であれば手段を選ばないというマキアベリズムに支配されている事を再認識した。3.11の震災当日、私の仕事場もまるで何かに弄ばれているように揺れたが、全く以て停電にならなかった。揺れが収まった後は、何時も通り平然と滞り無く定時まで仕事をして帰ったのである。この時既に福島第一原発の全原子炉は、壊滅的な状態で発電不能だった筈だ。にもかかわらず停電は一切発生しなかった。数日経って、東電は思い出したようにわざとらしいヤラセ計画停電を遂行した。震災直後の対応に追われ、原発事故の情報収集に手間取り、ヤラセ計画停電劇場を開くのが遅れてしまったのだ。東電は迂闊だった。地震と同時に即停電にするべきだった。そうしていればヤラセ計画停電の信憑性もある程度保たれただろう。しかしモタモタしているうちにタイミングを逸し、誰が見てもおかしなタイミングでヤラセ計画停電をせざるを得ない状況に追い込まれてしまった。東電は詐欺師としてはまあまあだったが、役者としては三流だったのだ。震災当日の大混乱も含めて、その後暫くの間のJR東日本の対応も三文芝居のようだった。地震によって影響を受けたと思われる線路設備等の安全確認が済めば、すぐにでも電車を走らせる事が出来た筈だ。何故なら、JR東日本は原発で作られた電気を一切使用していないし、仮に何らかの事情で電力供給が途絶えたとしても、完璧とも言える自家発電システムを保有しているからである。JR東日本は電車を走らせたかった。困り果てている客を一人でも多く運びたかった。しかしそれは出来なかった。言うまでもないだろう。電車を走らせようとするJR東日本に対し、政府と東電から凄まじい圧力がかかったのである。ここまで説明すれば判って頂けたのではないだろうか。今、節電に協力するという事は、監督東電、演出政府によるヤラセ電力不足劇場に加担するという事であり、犯罪的ですらある。読者諸賢!何の心配もありません!原発が止まっていても電力供給は十分に足りています!節電など一切せず、例年通りふんだんに電気を使い、先進国ならではの快適な夏を過ごしましょう!私も例年通り、エアコンの設定温度を18℃にして過酷な夏を乗り切る所存です。仕事場のスポットクーラーも常に最強でつけっぱなしにしようと思います!そして政府と東電が繰り広げる電力不足節電キャンペーンが、インチキ、デタラメ、ヤラセである事を白日の下にさらしましょう!先進国とは名ばかりの、国家と企業が結託して国民を欺き続ける社会に生きている事が、私は本当に悲しい。悲しくて惨めでどうにもなりません。読者諸賢も悲しくありませんか。あまりにも悲しいので私は今、呑み屋に予約の電話を入れました。今日は小鯛とシマ鯵のとびきり良い奴が入っているそうです。ウシシ。悲しい悲しい。左様なら。

日出づる国欺瞞に満たされり

「被災された皆様を心より御見舞い申し上げます」とか「お亡くなりになられた方々に慎んで御悔み申し上げます」などという軽薄かつ安直で不真面目で、人心絶無な定型文を、これ当然とばかり平然と吐きだす企業や個人に、私は喩えようの無い憤怒を覚える。私は今回の震災に関してこの場で言及するつもりはさらさらなかったのであるが斯くの如き非人間的な定型句を無意識に発する愚か者があまりに多い為、ここで怒りを爆発させる事にした。果たして、これ程までに相手を侮蔑する欺瞞に満ちた言葉がこの世にあるだろうか。誰かが死ぬと、すかさず馬鹿の一つ憶えの如く「御冥福を御祈り致します」(これは故人の宗教を確認してからでなければ、絶対に言ってはならない言葉である)と言うノータリンが多いが、これも全く以て同類の、正視に堪えぬ吐瀉物の様な賤句である。こんな糞尿の並みの定型句を言う事で、言われた相手が喜ぶとでも思っているのだろうか。私のこの批判に対し、「こういう言葉は単なる挨拶の様な定型句だから、そもそもあまり意味は無いものだし、そんなことをいちいち気にする方がおかしい」という声が今にも聞こえてきそうだが、こういったまるで養殖動物の様な隷属的思考回路に陥った反論を私は相手にするつもりは無い。これら、又はこれらに類する定型卑句を軽はずみに発する者ほど、実は被災者や死亡者の事など何とも思っていないのである。そして、何の心配もしていないが、とりあえず何か言わないと対外的に体面を保てない為、さも心配そうに「心より云々、慎んで云々」とほざくのだ。「本当は、こんなこと別に何とも思ってないし、どうでもいいんだけど、なんか言っとかないと体裁が悪いからさ、一応言っただけなんだよな。へへへ」と言う訳である。なんと安っぽい、低次元のいやらしい自己保身的言動だろうか。私はこれを指弾しているのだ。今回の震災を見て何とも思わないのであれば、何も言わなければ良い。何も感じなければ知らんぷりしていれば良い。そしてそれは悪い事でも何でもない。人の感受性は常に人それぞれであり、如何に危機的な状況に直面しても、それを外圧によって一つの基準に統一しようとする事は絶対に許されないし、あってはならない。心配する人は好い人で、心配しない人は悪い人、というカルト的二元論に迷い込むのは、近代社会において最も危険な大衆心理とさえ言える。人間は、皆がマザーテレサにはなれない。敢えて言えば、マザーテレサの博愛主義的慈善活動がホントのホントのホントに彼女の慈悲心によって突き動かされたものであったとしても、その慈悲心は、人間の最も醜い自己愛の変成物であると断ぜざるを得ない。であるから、津波に呑まれる街の映像を見て何も感じず、何とも思わない人は、それについて他者から問われても正々堂々と胸を張って「私は何とも思いませんし、私には関係ありませんね」と言えばいいのである。大して心配もしていないのに、被災者を按ずるような言句を発する者の方が余程品性下劣である事は間違いない。たとえ相手を傷つけようとも自分の心情を正路に相手に伝えようとする真摯な姿勢こそが人間として根源的に崇高で典雅な振る舞いなのだ。今回の震災は私の死生観を根底から覆す程の衝撃であった。津波に襲われ、全てを奪われた被災地の土埃の中に立った時、気が小さい私は膝の震えが止まらなかった。しかし帰京すれば、何時もの様に夜な夜な竹露を舐める日々を過ごしているのである。脆弱で矮小で小賢しい私の精神は、被災地の事を継続して考え続ける事に辛すぎて耐えられない。あれほどの惨状を目の当たりにしながら己の生活を優先してしまう。我ながら内心忸怩たるものがあるが、事実だから仕方が無い。私もファザーテレサにはなれなかった。そして、被災地に立って筆舌に尽くしがたい衝撃を受けた私でも、未だに無辜の人々が日々虫けらの様に殺され続けているイラクやアフガニスタンのニュースを聞いても、中国によるチベット弾圧を知っても、「本当に理不尽だなあ」と思う程度であって痛痒は感じないのだ。所詮私のヒューマニズムなどこんなものなのである。それでも、私は前述した賤しい定型句を口にするような下品な人間ではない。低劣な定型句を連発する者が多いのは、既に述べた理由の他にもう一つある。それは、自分の頭でしっかりものを考えていないと言う事だ。傷ついた人には、とりあえず「心より御見舞い云々」、死んだ人にはとりあえず「慎んで御悔み云々」と何も考えず自動的に言っているだけなのである。賤しくも人間であるなら言葉を発する時はせめて自らの脳でしっかり考えるべきではないだろうか。こんな上滑りな言葉が埃の様に舞う世の中に、私は言い知れぬ倦怠感を覚える。現代に生きる者は私も含めて、国家に属し、会社に属し、家庭に属し、地域に属している。一見この複雑で豊かに見える構造そのものが、実は個人の主体性を極限まで減退させ、著しく抑圧しているのだ。言いたい事も言えず、正しい事を正しいとも言えず、離婚したくても出来ず、間違いを指摘して正す事も出来ない。こういった環境に長期間身を置いていれば自ずと人間は、金儲け以外の事を自分の頭で考えなくなる。国家権力の思う壺だ。国家にとって一番都合のよい人間とは余計な事は何も考えず、一心不乱に金儲けに専念し、一銭でも多くの税金を大人しく納める人なのである。とどのつまり、金儲けに夢中になっている者は、国家教育が最も上手くいった優秀な奴隷に他ならない。自分の置かれている社会状況を深く真剣に考えない者は権力の走狗、或いは家畜にに成り下がるのみだ。無思考的定型文が蔓延る社会は、主体性剥奪型無思考社会に直結する。そしてこの国は既に見事なまでにそうなってしまっている。今や日本中に降り注いでいる放射性物質が、その何よりの証左ではないか。国民が主体性を失った社会は、畢竟このお粗末なザマとなる。身を挺して反原発運動に携わってきた人々は憤死せんばかりの怒りに打ち震えていることだろう。アメリカの恫喝に怯んだ正力松太郎を始めとするこの国の原発政策にかかわった者全て、そしてこの事故を引き起こした当事者である東電の勝俣、清水の罪万死に値す、と断じておこう。

紫煙の行方

こんな私でも実は意外と多忙な日々を送っています。仕事、酒、酒、仕事、酒、酒、酒と言うように繁劇を極めているのです。しかしながら、こうも極度に定型化された生活を執拗に反復していると、自らの脳細胞が逓減しているのではないかとの懸念を抱き、さてどうしたものかと思い悩むのもまた事実である。一方で、思い悩む事そのものが思考を深化させ、脳細胞の弱体化を食い止め、むしろ脳細胞の活性化を促進しているのだという甚だ姑息で狡猾な結論を導き出すのも私の得意技だ。このインチキパラドクス的手法を用いれば、大抵の事は表面上ではあるが正当化する事が可能となる。と言う事で更に酒を呑むのです。さて、話は変わって私は愛煙家であります。頃来の嫌煙ブームを、冷笑を以て睥睨しているが、この極めて馬鹿げた嫌煙ブームを例に挙げ、如何に世の人々が何の根拠もない風説に翻弄されているかという事を明らかにしてゆきたいと思う。誤解を避けるために留意されたい点がある。私は、煙草の煙や臭いを生理的に厭嫌する人に全く同意であるし何ら異存はない。それは私が女性の香水の匂いや、親父の整髪料の匂いや、呑み屋でバカ騒ぎする戯け者を極度に嫌うのと同列であり人間として当然の反応である。然るに、例えば呑み屋で隣客の麗しき女性(大原麗子似)に「御今晩は。わたくし煙草の煙の臭いがたいそう苦手ですの。出来れば控えて頂けませんこと」などと言われれば「ははっ。これは気が付きませんで甚だ失敬致しました。今を以て、貴姉の面前でケムを出すは某の心ノ臓が果てるまで必定禁制とするを御誓い申し上げます」と詫びを入れバケツで水を掛けて煙草を消すでしょう。しかししかし、これが香水臭い醜女(もたいまさこ似)で、「ちょっと!タバコの煙がアタシの方に流れて来るんだけど!迷惑だから止めてくんない!」とでもほざこうものなら「なにぃ!このヒョットコ面のお多福ババァ!てめぇの香水こそ、べったら漬けよりくせぇじゃねえか!クサヤの方がまだましだ!てめぇなんざ芳香剤代わりに雪隠にぶら下がってろ!」ってな具合にカウンターを食らわし、フィデルカストロ御用達コイーバを一度に10本吹かして店内を煙で充満させてやります。この2例の様なやりとりは、お互いの心情を主張した結果の譲歩、あるいは対立であり、人間の行動としては極めて健全で至当な反応だ。この場合の争点は、煙草に対する好悪、香水に対する好悪のみであるからして甚だ簡素で爽やかでさえある。こういった感情の対立を言語でぶつけ合う事こそが実は真物の対話であることは間違いないし、たとえイガミあっていても、私は好感がもてるのである。すなわち、好きか嫌いかで自らの主張を激しく繰り広げる人は、人間の行動原理に照らせば何処まで行っても正しいし、私はそういう人が間接的(直接的には関わりあいたくないが)に好きなのである。他方で、惨毒な問題を孕んでいるのが、「体に悪いから煙草はやめたほうが良いよ」とか「受動喫煙による健康被害を受けたくないから側で煙草を吸わないでくれ」などと言う人達だ。私は斯様な人々をつくづく心の底から、実に哀れでバカな人々だと思う。地球上のあらゆる生物は、生まれた瞬間から死に向かって猛進しており、生きている事自体が体に悪いのだ。これを聞いてくだらぬ屁理屈だと感じる読者は、私がこの場で折に触れて述べている様に、自らの脳を使い物事を判断する事を諦めた思考停止者である。広告収入に依存した詐欺メディアと御用学者が垂れ流す受動喫煙云々説を無批判に盲信する低偏差値型嫌煙論者にズバシ申し上げよう。感染症を除く病気の疾病原因を特定する事は絶対に出来ない。これは原理的に不可能なのである。地球上の生物、就中人間は高度に発達し複雑化した生活を送っている為、その疾病原因はあらゆる不確定要素が混交し、特定することなど益々にして永久に不可能なのだ。如何に学者が死に物狂いで研究しようとも、その結論は「もしかすると、煙草を吸うと肺癌になるかも知れないとも言えない事もないと考えられないとは言えない」という程度のものしか導けない。残念ではあるが、この悲しき現実は工学系以外の全ての学問に通底する原理なのである。最近やたらと流行りの坂本竜馬など、私の目には野卑で粗暴な山出し者が粋がっているだけの、肥溜め臭い田舎侍としか映らないが、その昔この肥溜め田舎侍が具体的に何をしたのかという事は、本人に聞いてみなければ精確な事実は証明出来ない。歴史学者が声を張り上げて自説を主張しても、それは残存する資料(その資料でさえ確実に本物であるという事は絶対に証明出来ない)を基にその学者が練り上げた仮説と言う名の淡い予測に過ぎないのである。昔々、コーヒーを一日何杯以上飲むと胃癌になるとか、コカコーラを飲むと骨が溶けるとか、座りっぱなしの職業の人はイボ痔になるとか、読者諸賢も聞いた事があるのではないだろうか。これらは全て当時の学者、研究者が言い放った言説であるが、今ではその全てがデタラメである事が証明されている。その他にも、犬を始めとする夜行性動物は色盲であると永い間信じられてきたが、よくよく調べてみると犬はしっかりと色を識別している事が判明した。絶対に安全だ安全だと言われ続けてきたこの国の原発がどういう事になったか、もはや説明の必要は無いだろう。一見厳密に見える学問の世界も実はこの程度のいい加減なものなのである。では何故こういったあくまで予測の範疇でしかない不安定な仮説がいつの間にか、或いは突如として定説化するのか。それは偏に、学者、研究者の賤しい功名心が原因だ。学問とは実に厳しくなかなか結果の出ないものである。殆どの学者の生涯は、先人の遺した基礎研究の上に、自分が心血を注いで調べ上げた研究データを積み上げるだけで、目立った成果もあげられずに終わる。本来如何にも、学問とは辛く厳しいものなのである。この苛虐な現実に耐えきれなくなった目立ちたがり屋の学者、研究室よりもテレビ局が好きな研究者は、自らの研究成果が不確かで疑わしい事を自覚しつつも、己の永年の研究がなかなか実を結ばないという焦燥感に苛まれ、あたかもそれが定説であるかの如く世に発表し、大ボラを吹いてしまう。そして無批判な大衆は、その仮説と言う名の予測を定説として信じ込んでしまうのだ。現代社会で其処此処に散見されるこの勘違い企業代表電通型アプローチによる連鎖反応に見事に合致するのが、煙草有害嫌煙論と言える。煙草有害論の草分けであり大家でもあるリチャードドールは嘗て「煙草を吸うと寿命が10年縮まる」と大見得を切った。天下のリチャードドールにあるまじき粗雑なこの放言を聞いた時、私はリチャードドールでさえ、やはり「学者の勇み足」という粗相をしてしまう事に、人間という生き物の愚かさを垣間見た気がした。こんなバカげた主張はなんの疫学知識も持たない私でも一瞬で論破出来る。読者諸賢であれば既にお分かりかと思うが一応説明しよう。例えば、私があと何年生きられるかは、絶対に誰にも判らない。自分でも判らない。今晩人形町通りでタクシーに轢かれて死ぬかもしれないし、三年後に不老不死の薬が発明され百年以上に亘って煙草を吸いながらしつこく生き続けるかもしれない。私の残りの寿命があとどのくらいかも判らないのに、私が愛煙家だからと言って、その判らない寿命がどうして10年短くなると言えるのだろうか。つまりは、寿命が10年短くなるという時間軸の起点がそもそも存在しえないのである。また、日本での煙草有害論の代表的人物であり受動喫煙なるスーパーヒステリックワードを一般化した平山雄による研究は、永年に亘るその研究データが「平山データ」と呼ばれるほどで、日本国内の煙草有害論者の多くが彼のデータを基礎データとして引用している。ところが、此のデータを少し調べてみると、受動喫煙有害論において、煙草の煙が大気によって薄まる希釈率をあからさまに殆ど無視しているのだ。こういったいい加減極まりない流言蜚語にあっさりと騙される社会は本当に憐れだ。「煙草は癌になる」「受動喫煙が怖い」と戦きながら、煙草より遥かに健康を害する食品添加物、化学調味料まみれのファストフードを全面禁煙の店内で我が子に食わせている御母堂の姿はまるで落語そのものである。煙草は、その商品としての性質上、社会に与える経済的影響が低い為に、スケープゴートにされているだけなのだ。まあとにかく皆さん、煙草を吸う私に対して「煙草の臭いが厭だからやめろ!」と言うのは宜しい。その相手によっては即座に火を消すし、お詫びもする。だが「煙草は肺癌になるから」とか「受動喫煙云々」と言う者は断じて排除する。そういう健康大好きヒステリー病に侵された痴人には、雷門二葉のマコガレイの薄造りに添えてある紅葉おろしをたっぷりと鼻の穴に詰めてやるからな!憶えとけよ!二葉の紅葉おろしは滅法辛いんだぞ!ホントだぞ!

 

雪と墨

東北地方は大変な事になってしまいました。当工場も尋常ならざる揺れでしたがなんとか持ちこたえ、また特に大きな被害も無く通常営業致しております。それにしても東北の被災者の方々の、あの辛抱強さには本当に頭がさがります。東北人は偉い!偉すぎる!それに比べて東京やさいたまといった大して被害も受けていないような地域で物資の買い占めに走る大バカ者たちの何と浅ましい事か。こういう輩は人間のクズですな。クズどころかノミ、ダニ以下だな。やはりこの様な時にこそ人間の本性が剥き出しになるんだなあ。同じ関東人としてこの上なく恥ずかしい。忸怩たる思いで一杯です。皆さんの身の回りで買い占めに狂奔した品性下劣なダニ未満人間の顔と名前をよーく覚えておきましょう。当店はあらゆる手段を講じて被災者の皆様を全力で支援致します。被災者の皆様が、この未曽有の大災害を乗り越えた時、その人間としての価値は計り知れないものになるに違いありません。誇り高き東北人の皆さん!とにかく頑張れ!

宵は良き見世悪き見世

家無し嫁無し甲斐性無し 宵の帳が下りたれば 美禄を乞うて暖簾を揺らし 止まり木掴み此の夜独酌、と斯様侘しき晩刻を過ごす私ではありますが、酒さえ出てくればどんな店でもよい訳では御座いません。私には私なりの店の選択基準というものがあるのです。本稿ではそのあたりについて触れてみましょう。まず第一に、私が何よりも、どうしても、渋り腹の痛痒を堪えてでも優先する条件とは何でしょうか。「味!」と考えた貴方。まだまだですね。確かに料理の味は優先順位としてかなり上位に位置しますが、決して最優先事項ではありません。「酒!」と思った貴方。貴方は本当の呑み助を知らない。まあ好みの旨い酒が置いてあるに越したことはありませんが、私の様に酒神ともなると大抵の酒は文句も言わずに呑んでしまいます。そもそも、酒の銘柄や製法に必要以上に拘るのは、野暮で無粋な山出し者。とっても恰好の悪い事なのです。呑み屋によく居ますな。赤霧と黒霧の材料や製法の違いなんぞを滔々とまくしたててる手合が。嗚呼、恥ずかしや。そんな事はプロの造り手が知得しておればよい事、客である呑み手が按ずるような事ではない。黙って呑んで不味けりゃ違う酒を頼む、それで仕舞い。しかし斯く言う私もトリスとか変な合成焼酎とかああいうレベルの酒はいくらなんでも御免です。御勘弁願いたい。あんな酒を受け付けるほど臓腑は丈夫じゃ御座いません。さて次の方、、「じゃあ、店の内装や皿小鉢!」、ちょっと待ちなされ。貴方は私のブログを全然精読していませんね。前にも言ったでしょう。私は店の内装や食器などどうでも宜しい。色褪せたアグネスラムのポスターが貼ってあろうが、渡哲也がこちらに微笑みかけていようが、ビニールのテーブルクロスが被ってようが構いません。内装や皿小鉢なんてものは適宜清潔であれば何も気にしません。変に内装や食器に凝った店は却って小恥ずかしく居心地が悪いくらいです。どうぞ、次「店主、店員の態度や人柄!」、、なかなか鋭い意見ですね。私が最も嫌いなのはやたらと客に話しかけてくる店主。話をするかどうかは客の側が決める事、客から話しかけられない限り店主は黙って包丁を動かしていれば良い。更にどうしようもないのが、ちょっと知った顔が見えると、たちまちその客と一緒になって呑み始める店主。こういう店主は、「客と談笑するのも仕事のうち、営業の一環だ!」等と言う手前勝手な救いようの無い勘違い野郎なのです。バーやクラブならそれが当たり前かもしれませんが、居酒屋や割烹でそれをやってしまうのはプロ意識の欠片もない大ボケ店主と言えますな。プロの料理人なら、ただひたすらに味で勝負してみなさい、とでも言ってやりたくなります。そういう店主には、ホストクラブで働く事をお勧め致します。さてさて、しかし残念ながらこれも店を選ぶ場合の最優先事項ではありません。それでは、はいっ、次、「しからば値段!」、、、、、私は貴方の様な吝い吝い六日知らずとは終世、杯を交わす事は無いでしょう。和民か世界の山ちゃんにでも行ってアサヒスーパードライかなんかを呑んでなさい。では、皆さん分からないようですから、私が掲げる呑み屋の選択基準における最優先事項を発表致しましょう。それはズバシ!『客層』です!いかに料理が旨かろうが、好い酒を置いていようが、洒脱な器を使っていようが、高島礼子張りの女将が待っていようが、客層の悪い店には行きません。暖簾を潜って客に一瞥を投げれば、その店の全てが分かります。店にとっても私の様な客にとっても良い客層とは、客の平均年齢が40代後半以上であること。これが全ての基本になります。とにかく、客の平均年齢がこれ未満になると、味、客のマナー等、全てのレベルが著しく低下します。勿論、40代後半以上の客の中にも、酒の心得を知らぬ半ちくオヤジも散見されますが、客の平均年齢が40代後半以上に保たれていれば、そういった戯け者が混在する確率が極めて低く、安定した良質の客層となるのです。では良い客層とは具体的にどういう客の事なのか。一つ、とにもかくにも適度に静かで、呑んでも声が大きくならない客。二つ、笑い上戸の客がいない事。一人でゲラゲラゲタゲタ笑っている奴がいると、そいつが笑えば笑うほど他の客は白けます。三つ、料理だけでなく酒もしっかり呑む客。要するに店にとって手間がかからず、利益率の高い酒をしっかりと呑み、店にきちんと儲けさせる客。四つ、常連客が派閥を形成していない事。常連客が幅を利かせている店は、贔屓の引き倒し状態となってしまい、早晩潰れます。五つ、客が皆、閉店時刻を守っている事。背筋を伸ばして営業している店にとって、閉店時刻を過ぎてもダラダラと残っている客が一番厭なのです。店と客は、あくまで対等な関係である事を弁え、客であっても、呑んでいても、店主や店員の気持ちを常に慮る事が出来るのが一人前の酒呑みなのです。挙げればきりがありませんが、呑み屋の良い客層の具体例とは、まあ主にこんな所ではないでしょうか。あ、もう一つ忘れてました。3人以上のグループ客が勘定をする時など、レジ前で雁首揃えて「一人いくら?」 「6400円」 「あ、じゃあ俺が半端の200円出すよ」 「いいの?なんか悪いね」 こういうしみったれた割り勘もやめて下さいね。みっともないったらありゃしない。いい歳こいて。さて、お解り頂けたかと存じますが、良い店か、下品な店かは客で決まるのです。良い客こそが店を育てると言っても良い。貴方も胸に手を当てて考えてみて下さい。思い当たる節があるのではないでしょうか。えっ?一切無い?貴方は酒の心得を弁えた旦那のようですな。それはそれは、御見逸れ致しました。

 

カウンター左隅における思惟

週に一度の休日にブランチを食べに行く店がある。知る人ぞ知る地味で小さな名店だ。開店時刻を15分も過ぎると、すぐに満席になってしまうので、私は朝湯の後、何時も11時の開店時刻にぴたりと店に参上する。美々しいほどに磨きこまれた白木のカウンターの左隅が定席だ。左利きであるからして、隣客と肘が喧嘩しない様に、何処の店でもカウンターの左隅を定席にしている。カツレツを肴に昼酒が始まる。ただでさえ繁劇な店であるし、昼酒の長っ尻は野暮天の極み、ぐいぐい呑んでぺろりと喰って、とっとと二軒目に流れる。流れ先の話はまあそのうちにって事にして、先度の休日、このカツレツ屋に定刻定席着席。天色のせいか客足も遅く少ない。珍しく板場の料理人が声をかけてきた。「毎度有り難う御座います」 「うん、ここのは旨いからねえ。世辞じゃないよ、ホントだよ。不味かったら毎週毎週馬鹿の一つ覚えみたいに通いやしないよ」 「嬉しいねえ」 「きっとなんか他人にはわからない秘訣ってもんがあるんだろうねえ。技って言うのかな」 「秘訣?別に秘訣も技もなんにもありゃしませんよ。嘘じゃありません。材料だって全部近所のスーパーで売ってるもんと同じですよ。実際、材料足りなくなるとそこのスーパーで買ってくることもあるし。何処でも売ってる材料で当たり前に丁寧に作ってるだけ。ただね、化調、化学調味料って奴ね。あれはいけません。ありゃインチキだね。あんなものを使った料理を平気の平左で客にだすなんて、あたしにはとても出来ません。化調とか食品添加物とかね、プロの料理人が使って恥ずかしくないのかね。だって手抜き、誤魔化しでしょ。そういう店はどんなに口で上手い事言ってても腹の底では客を馬鹿にしてるんだ。手抜き、誤魔化しのインチキ料理を客に出してるんだからね。売れりゃあいい、儲かりゃそれでいいってことなんだろうねえ。そんなね、アルバイトでも素人でも作れるような料理を出す店ばかりだからこんなクソ面白くない世の中になっちまったんだろうねえ。もっとも、そんなインチキ料理を旨い旨いなんて喰ってる客も間抜けだけどね」 「ま、おれもそう思うね」 「いやね、あたしだって一歩店を出りゃあハンバーガーも喰えばインスタントラーメンも食べますよ。だけどそれはそれ。店で客に出す料理に化調なんて使うのはプロとは言えないね。恥知らずだね」 「確かにさ、化学調味料って独特の味が舌に残るよね。あの感じですぐにわかるよ。あ、この店化学調味料使ってるなって。客にすればがっかりだな。二度目は無いね」 「家庭料理とかインスタント食品だったらいいんですよ。別に化調を使ったって。もともとそういうモンなんだから。だけどさ、客からお代を頂くプロの料理人が化調を使うってさ、もう話になんないよね。ホント呆れるだけ。ま、今はそんなインチキ料理人が殆どだけどね」 「そうか、特別な材料なんて使わなくても手をかけて誤魔化さないで丁寧に作ればこんな旨いもんがちゃんと出来るんだね」 「お客さんにそう言ってもらえると嬉しいけど、あたしはそれが普通だし当たり前だと思ってるよ。今日はちょっと演説しちゃったな」 「いや、好い話を聞かせてもらったよ。旨かった。御馳走様」、とまあこんな具合の話を聞いた。化学調味料を使っている飲食店に言わせれば、「今さら何言ってんの?みんな使ってるでしょ。何が悪いの?」ってところだろう。実際、化学調味料を使う事は犯罪ではないし、些細な事かも知れない。しかしこういった些細な事の積み重ねが、プロとしてのプライドや倫理観の崩壊を招き、一時世間を賑わした食品偽装問題や賞味期限改竄問題、船場吉兆の食べ残し使いまわし事件に発展した気がするのである。その後、私が夜な夜な通う割烹の板前にも聞いてみた。「化調?冗談言っちゃ困ります。あんなもの使うんだったら商売やめますよ」 「頼もしいねえ。ここの出汁は抜群だもんなあ」 「ウチの料理の味が薄いって言うお客さんがたまにいるんですよ。でも俺はわかってるんです。そういうお客さんは化調で味付けした料理の味に慣れ切っちゃってて舌が麻痺しちゃってるんです。だから化調が入ってないと何を食べても味が薄く感じるんでしょうね。ここだけの話ですけど、そういうお客さんは板前に笑われてるんですよ」 この店も決して高級店ではない。ごく普通の店構えの良心的な勘定の店だ。こんな誇り高い店が身近に沢山ある地域で宵を過ごせる事実を思い返す時、私は感佩措く能わずといった心境に至るのだ。飲食の世界に限らず、ありとあらゆる業界で、毛唐仕込みの市場原理主義とやらが蔓延り、 真偽よりも、倫理よりも、真理よりも、品質よりも、安全よりも、更には人命よりも利潤を優先する途轍もなく破廉恥な社会に成り下がってしまった。プロの料理人の大半が、躊躇う事無く化学調味料を使っているという恥ずべき現実が、この浮世のザマを象徴しているのではないだろうか。
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