2012年11月16日

暖簾が靡けば

湯に入って尽日の塵垢を流せば、私は猿股一丁蓬けたように紫煙を燻らせる。肉体労働者は美禄より湯を先んずるのだ。間も無く、予め電話を入れてある「人形町W」へと猛進する。毎夜毎晩の事とは言え、私は如何なる見世にも必ずや予約を入れてから出掛ける。これは、些少でも己の思い通りに事が運ばぬと、瞬時にカッとなり逆上する私の質が引き起こす不行跡を事前に防ぐ為に他ならない。然らば、私の一切の行状に行き当たりばったりなどと言う事は決して有り得ず、何事に対しても常に用意周到諸事万端、眼前に不測の事態が起ころうとも直ちにそれを収拾すべく要慎を極め、怠り無き光瞳で四囲を睥睨することしきりなのである。三、四分の行歩の末、狭き階梯を昇り入店し後ろ手に引き戸を閉め、黒目を左方に向ければ、専用の箸と杯が主を待つ。私は左利きであるから、無論、箸の持ち手は左向きに置かれていなければならない。これを罷り間違って、持ち手を右向きに置かれようものなら、たちまち私の心持は掻き乱され、その掻き乱された心持が快復するまでの暫し、眉間に皺を寄せる時が流れる。箸と杯が私専用なのは、何もこの手の酒場で無粋な常連風を吹かせんが為では断じて無く、それは先に記した私の質からくる癇症の所為だ。この見世は、酒好し、割烹好し、板前の気質好し、と三拍子は良いが、惜しまれるは箸が割り箸ではなく使いまわし箸なのである。抜かりなく清めてあれば衛生的に何ら問題無き事は十分に承知している。ただ、妄想激しき私の胸は、幾ら清めてあるとはいえ、何百、果ては何千となる何処ぞのオイリーオヤジ達(私も存分にオヤジではあるがオイリーではない)が舐めまわし、しゃぶり尽くした箸先で、神々しいばかりに輝く赤身を摘む事を許さない。さすれば、私の眼下には日本橋黒江屋謹製、輪島塗の箸が持ち手を左とし、静かに横たわる。はてさて、初冬も迫った先般、常の如く斯様な段取りを経て止まり木の左隅に納まり、銀鱈の西京焼きなぞ突付きつつ安酒を呷り始めた。止まり木には、ぬめぬめとした上等な生地の誂え物と見える背広を纏った御仁が独り、私の二つ隣で物静かに白子ポン酢を口吻へと運んでいる。静粛な滑り出しに満悦の私は、西京焼きの後も酒を呷っては巻き湯葉の揚げ出し、呷っては海老蓮根、呷っては地鶏の湯葉揚げと注文を重ね、独り興奮の極致へと達し、いよいよとばかり、「夢中へ誘う地鶏の水炊きを!」と叫んだ。所在無く煙草に火を付け、湯葉揚げを食い尽くした皿の文様を寄り目になるほど凝視し、今か今かとその登壇を待ち侘びれば、ついに小振りな鉄鍋に仕込まれた水炊きが己の湯気の中から現れる。眼鏡を曇らせ、一も二も無く齧り付かんとした刹那、背中で引き戸を開閉する音がした。しかし私はその客が隣に止まった事にも構わず鶏を頬張り、白菜を含み、その白濁したえも言われぬ出汁を啜った。あまりの滋味に興奮冷めやらぬ私が杯に酒を注ぎ足し、乱れた鼓動を制せんと二本目の煙草を咥えると、私の食い振りがあまりに浅ましかったのか、「美味しそうな鍋ですね!」、まだ座ったばかりで付き出しもお絞りも供されていないその隣客が問いかけてきた。眉目をそちらへと向ければ、これが見目麗しき大年増。この手の婦女は大抵の場合、自らの美しさを十分すぎるほど自覚している。そしてその美貌を武器に話しかければ、相手が誰であろうと目尻を下げた快い応答が返ってくると思い込んでいる。この大年増の、その溢れんばかりの自信に満ち満ちた瞳と、計算され尽くした卒の無い笑顔を認めた時、私は瞬間的にそれを全て見抜いた。嗚呼!なんと愚かで通俗的な麗人であろうか!この極め付きの臍曲がりのぢろ蔵を、夜ともなれば蛆虫の如く発生するそこいらの酔漢と同列に判じ、与し易しと見たこの大年増のバカさ加減!ぢろ蔵は問いかけに一句発する事無く、大年増の妖しい光華を帯びた瞳孔を睨め付けながら焼酎をぐいと呷り、再び水炊きへ舞い戻った。大年増は、予想外の私の態度に憤懣やる方なかったであろうがしかし、その憤懣を容顔に顕す事は自尊心が赦さなかったと見えて、これまた練達の、居丈高な冷笑を私に浴びせた。私は呑み屋で独酌している時、他客から話しかけられるのが大嫌いなのである。財力があれば、私が通う店全てを、私が参上する時は常に私独りの貸切にして欲しいくらいだ。呑み屋での隣客が、私の与り知らぬこの世の秘密を私だけにコッソリと教えてくれるなら話しかけられても良い。私が昔年から抱いている哲学的疑問にズバシ!と答えてくれるような叡智界に生きる人であるならば、喜んで話を伺いたい。そして私の商売が、明日にでも大繁盛となり、顎が外れるまで笑いが止まらぬような生活に昇華させる秘訣を伝授してくれるなら、額づいてもその話を拝聴したい。だがしかし、そんなことは有り得る筈も無い。呑み屋の酔客談義など、当たり障りの無い話か、何処かで聞いたような話、はたまた何度も聞いた同じ話の繰り返しが相場であり、関の山だろう。あのひたすら相槌を打ち続ける疲労感、翌朝になれば昨夜の話など微塵も憶えていない虚無感。それがどうしても厭なのだ。「美味しそうな鍋ですね!」と私に問いかける事になんの意味があろうか。ぢろ蔵が目を血走らせて食んでいれば、それが美味である事は当然至極ではないか。酒場くんだりで他客と投合し、酔いも手伝って共感を演じ合うあの弛緩した気持ち悪さ、馬鹿馬鹿しさを味わうのは御免だ。ぢろ蔵の話は堅いと言われる。上等だ。話に堅いも柔らかいもあるものか。知的向上心を失った輩との会話など真っ平なのだ。ぢろ蔵は極限まで真理に肉薄しつつ死を迎える為に、それを阻まんとするあらゆる外敵と日夜激闘を繰り返しているのだ。それはそうと、当夜の顛末はぢろ蔵の失策でもあった。水炊きの魔力に取り付かれ、その滋味に我を忘れて没入し、ついつい気が緩んでしまった結果、普段であれば、無意識のうちに発している筈の強烈な「僕ちゃんに話しかけないでねオーラ」が弱まってしまったのである。同じ過ちを繰り返すに至っては、それを最大の恥とするぢろ蔵は一計を案じた。小舟町の襖屋へと馳せ参じ、携帯用の屏風を作らせたのである。次回より隣客との境には、この特別誂えの屏風を立て、如何なる攻撃をも容赦なく排斥する所存であります。

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