2011年11月27日

Bな国ニッポン!

B層。この素晴らしき単語が世に出回ってからどれほどの歳月を経たであろうか。当ブログの読者諸賢であれば、この単語の示す意味を知らぬ人は居ないと思うが、私がここでいちいち説明するのも面倒なので、手抜きと自覚しつつも念の為ウィキから引用しておく。『B層(―そう)とは、郵政民営化の広報企画にあたって小泉政権の主な支持基盤として想定された、「具体的なことはよくわからないが小泉純一郎のキャラクターを支持する層」のこと。広義には政策よりもイメージで投票を行うなどポピュリズム政治に吸引される層を意味する 2005年小泉内閣の進める郵政民営化政策に関する宣伝企画の立案を内閣府から受注した広告会社スリード」が、小泉政権の主な支持基盤として想定した概念である。その後、ポピュリズムに動員される国民層を揶揄する意味合いで使われるようになった』という事である。なんと見事に的を射た分析と命名だろう。私はこのB層という単語とその意味を知った時、暫しの間笑いが止まらなかった。そして、では日本社会に跳梁跋扈するB層人とは、このウィキぺディアの解説より更に具体的に如何なる人たちなのか、自らの日常生活の中で調査したのである。以下にその具体例を述べてゆこう。まずは近時の例を挙げよう。Bな人その1。3.11の震災後思わず節電してしまった人。ただ、これに会社ぐるみでの節電などは含まれない。組織的意思と個人的意思は別だからである。Bな人とは、東電や政府が発する情報を鵜呑みにし、本気で節電してしまった人なのだ。(ヤラセ停電節電に関しては、当ブログhttps://www.ontario-ss.com/blog/2011/06/を参照) これらの人たちは批判的精神と自己判断能力が完全に欠落しており、B層の典型と言える。Bな人その2。これもやはり震災を機に、「やっぱり太陽光発電だ!」と思ってしまった人。これはエントロピー増大の法則やエネルギー保存の法則という最も基礎的な物理原則を全く理解できていない人達である。そもそも再生可能エネルギーなど地球上に存在しない事は言うまでもないだろう。再生可能エネルギーなる言葉は、政治家と官僚、体制べったりの悪徳大企業が国民を欺くために作り出した荒唐無稽な妄言としか言い様がなく、ある日突然「やっぱり地球の形状は球体ではなく立方体です」と喧伝しているに等しい。ソーラーパネルを置けば、日陰が出来るという極めて単純な事も想像出来ないのである。Bな人その3。これもまたエネルギー絡みであるが、ハイブリッドカーや電気自動車を買ってしまった人。この場合も、ハイブリッドカーや電気自動車のメカニズムそのものに興味を抱いて買った人や、インチキとは判っていても社会的立場上似非エコを標榜しなければならない人は別だ。Bな人とはこういった自動車を本当にエコだと考えて乗っている人なのだ。電力というものは、何らかのエネルギー源を燃焼、或いは運動(運動も燃焼の一種であるが)させなければ発生出来ない二次的エネルギーであり、近代社会において利用されてきたエネルギーの中で最も効率の悪いエネルギーであることは、どこからどう見ても疑いようの無い事実だろう。ところがBな人は、自動車メーカーの巧妙な宣伝に乗せられてディーラーのショールームに出掛け、ハイブリッドカーや電気自動車の新車を前にすると、前述した科学的常識など何処へやら、契約書にサインしてしまうのだ。Bな人その4。最近スティーブジョブズの伝記を買って読んでしまった人。もうなんと申しましょうか、ミーハーと言おうか、浅はかと言おうか、浮薄と言おうか。この手合は、現代に語り継がれる坂本竜馬や戦国武将の伝記伝説を事実の如く信じ込んでいるおめでたい者と、ほぼ同列の心的傾向にある。代表的な名を挙げれば、司馬遼太郎や武田鉄矢といったところであろうか。歴史上、盛名を馳せた人才について、後年書かれた記録や書物というものは、喩え如何に高名な識者が著そうが、その殆どが書き手の主観に基づく思い込みや想像(創造とも言える)の産物であり、インチキ、ウソ、デタラメを並べ立てた完全なファンタジーとして棄去せざるをえないのは至極当然であろう。「尊敬する人物は?」と問われて、真面目な顔で「織田信長です」と答える様な人は、既に全てが終了しており、ロボトミー手術でも受けない限りB層から脱却する事は不可能なのである。Bな人その5。マイケルサンデルの著作を買って読んでしまった人。スティーブジョブズの伝記を読んでしまった人よりは幾分マシかと感ずるが、これもやはりB層に属する。マイケルサンデルの活動は到底哲学者などと言えるものではなく、あれは『哲学的』テーマを低レベルで論議する、来場者参加型トークショーレベルの単なるエンターテイメントなのだ。あんなものを聴いたり読んだりして哲学を解ったつもりになることほど恐ろしい事は無い。哲学とは社会にとって何の益も齎さない事は勿論、でありながら超の上に超が付くほど難解極まる学問であって、常人の及ぶところではない。たった一つの哲学用語を巡って、様々な学者の見解が百出する奇奇怪怪なる世界なのである。ソクラテスの時代から始まる無数の哲学専門用語を極力精確に領会体得し、哲学特有の論理構築技術を無尽に揮い、狂界を彷徨いながら生涯を賭けて真理に近づかんとする数少ない本物の哲学者に比して、マイケルサンデルの議論、著作はあまりに軽い。それはせいぜい漫才、漫談の類といったところか。いや、優れた漫才や漫談であれば、マイケルサンデルより余程真理に近付いているのかもしれない。しかしながら、マイケルサンデルの著作を嬉々として熟読してしまった者は、その知的好奇心、或いは知的向上心を保持しているという点において、ロボトミー手術勧奨型スティーブジョブズ伝記読者より救いがある。ロボトミー手術とまではいかなくとも、脳に一定度の刺激(かなり強力な電気的刺激と予察される)を与えれば、B層からの脱離は十分に可能である。しかしまあ書店に行けば上記2著が平積みになっているわけであるから、間違いなく売れているのだろう。とてもではないが、私にはこの2著を自分の本棚に並べる勇気は無い。Bな人その6。プロジェクトXを観て感動してしまった人。これは危ない。かなり深刻な、B層の一翼を担うレギュラー陣だ。テレビ番組とは、ニュース番組であろうと報道番組であろうとドキュメンタリー番組であろうと総じて、画面に映り出る全ての出演者を『役者』とする完全な『お芝居』なのだ。番組制作会社は、予め用意された企画意図や台本に沿うように事実を歪曲し、改竄、捏造しながら無理往生とも言える手段を講じ、その企図を達する事が使命なのである。プロジェクトXにしてもそれは全く同様で、あれは実在の人物をモデルにした完全なフィクショナルサクセスストーリーであって、その『作品』は事実とは懸け離れているにもかかわらず、視聴者に対して事実と虚構を混同させる手練手管の限りを尽くして作り上げられた安手の『ドラマ』に過ぎない。そしてその本質は、シルベスタースタローンやスティーブンセガール、チャックノリスといったB級オヤジアクション映画と、さして変わることは無いのである。Bな人その7。大晦日には必ず紅白を観ている人。ヤバイ。極めて重度のB層である。紅白の司会者の、あの小恥ずかしくも異様に晴れがましい所作や、出演者全員の著しく不自然で不気味な笑顔。それは悉皆NHK特有の、気色悪いほどに幼稚な演出の成果であり、その表出なのであろうが、あのテレビの画面から放たれる、えも言われぬ気持ち悪さに、何ら違和感を覚えることなく受容出来る無神経性及び無思考性がB層に突出する性向と言えるのではなかろうか。紅白→行く年来る年コースを漫然と毎歳繰り返しているBな人の目には、この国の現状は決して映らないのである。大晦日の夜、家族で炬燵に入り所在無く紅白を観続けるその光景を想察するに、私は、自らの靭性によって社会を変革することをあっさりと絶念し、その結果としてひたすらの国家への隷属を唯一の生存手段として生きるBな人達に対し、嘆息を伴う限りなき憐憫の情を覚えると同時に、その背後に絶望を観てしまう。Bな人その8。ガンマGTPや尿酸値といった健康診断の結果を必要以上に気にしている人。これは比較的軽度のB層人である。誰しも、病院であれこれ体を調べられ、その結果を盾にこのままでは肝硬変になるぞ、痛風になるぞと脅されれば流石に心配になるのが人情というものだ。しかしその瞬間よく考えなければならない。戦後、日本人の健康状態は飛躍的に向上し、寿命も延びた。健康状態が芳しいということは、病気の人が少ないということである。病気の人が少ないと病院は儲からない。厚生労働省も予算がとれない。困った厚生労働省と病院は、病気でもなんでもない健康な人達を捕まえて無理矢理検査をさせた挙句、自分たちが勝手にでっち上げた健康基準から少しでも外れた結果が出るとあーでもないこーでもないと因縁をつけ、やれ再検査だ、やれ精密検査だと何度も何度も執拗に金を毟り取る。私の周囲には信じられない尿酸値を叩き出しながらも痛風なんぞ何処吹く風、平然とビールをがぶ飲みし、至って健康な人物が何人もいるし、耳を疑いたくなるようなガンマGTPを記録しながら、甚だ健やかに焼酎をあおり続ける猛者は幾らでもいる。尿酸値やガンマGTPという、厚生労働省と医療界が結託し、金欲しさからひり出したガセデータに一喜一憂することの愚かしさに気づきさえすれば、その人はB層から脱することが出来る。更にその時、個人の肉体の健康状態という超トップシークレットである筈の個人情報が、会社や病院が問答無用に押付ける健康診断によって盗み取られていることにも注目しなければならない。そもそも、普段から自分の体調にある程度敏感になっていれば、杓子定規な健康診断など行かなくても比較的早い段階でその異変に気づくであろうし、異変に気づいたら、その時点で病院に行けば良いのである。それで手遅れであったなら、それはそれで仕方が無いし、厚生労働省に食い物にされ、医療界のモルモットにされるより、遥かに健全な人生ではないだろうか。Bな人その9。妻が自分の健康状態を心配してくれる事に一抹の喜びを感じている人。結論を先んずれば、妻が貴方の体を案じているのは、断じて貴方を心配しているのではなく、貴方が働けなくなる事によって収入が絶たれるのを恐れているのである。ウソだと思うなら、今、貴方の近くで夕食後の片付けをしている妻の目をじっと見つめてみるがいい。その妻の目が、僅かにでも泳いだり、狼狽の色を見せたのであるならば、それは私の指摘の正当性を体現したことに他ならない。妻は貴方が死んでしまう事は一向に構わない。むしろそれを望みながらほくそ笑んでいるかもしれない。貴方がポクリと死ねば、しっかりかけていた生命保険金が入る、企業年金も入る、その上遺族年金も入る、更に貴方の献身的な労働によって蓄えられた幾ばくかの預貯金、資産も全て独占できる。それらを合わせて上手く運用すれば、貴方亡き後の妻の人生は順風満帆、安泰なのだ。妻にとって最も困るのは、貴方が中途半端な慢性病に罹患し、元気でもなく死ぬでもなく、会社を首になり、働くに働けない状態で命にしがみ付き、フラフラしながらしぶとく生き続けるという凄惨な事態であろう。妻はそれを極度に恐れるが為に、貴方の健康を気遣うのである。いざとなれば、即座に出奔可能な準備を、妻は常に調えている。夫婦愛や家族愛などどいう砂上の楼閣を頭から信じてノホホンと生きている人は、やはりBな人と言わざるをえない。Bな人その10。健康食品が好きな人。まずもう、「健康食品」という言葉自体がいかにも官僚崩れが捻出した不可解な言葉であることに気づかねばならない。「健康食品」なるものが存在するのであれば、その他の食品は全て「不健康食品」となってしまう。この論理を否定するなら、米も小麦粉も大豆も、いや水でさえ「健康食品」として指定されなければおかしい。「健康食品」とは、厚生労働省がお墨付きを与え、日本健康食品協会なる業界団体が管理する、特段何の効果も発揮することの無い単なる加工食品である。因みに、トクホと言われる特定保健用食品も大同小異だ。言わずもがな、この日本健康食品協会は厚生労働省の天下り団体だ。厚生労働省と日本健康食品協会との間でどのような金が流れているのか、読者諸賢であれば容易に察することが出来るのではないだろうか。健康食品のルーツは、食品を加工する際に止むを得ず生まれる産業廃棄物の有効活用であることを知る人は少ない。こんなモノに高い金を払って健康が保たれていると思っている人は、残念だがベタベタのB層人なのです。B層が大半を占めるこの軽佻浮薄な社会の将来を、私は常に暗澹たる思いで見つめています。しかしながら、最後に思い切って告白致しますと、実のところ私は、スティーブンセガールとチャックノリスの大ファンなのです。かたじけない。

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2005年小泉内閣の進める郵政民営化政策に関する宣伝企画の立案を内閣府から受注した広告会社スリード」が、小泉政権の主な支持基盤として想定した概念である。その後、ポピュリズムに動員される国民層を揶揄する意味合いで使われるようになった[要出典]

なお、スリードの代表を、時の特命担当大臣経済財政政策担当金融担当郵政民営化担当)竹中平蔵に引き合わせたのは秘書官・岸博幸だという[要出典]

スリード社の企画書では国民を「構造改革に肯定的か否か」を横軸、「IQ軸(EQITQを含む独自の概念とされる)」を縦軸として分類し、「IQ」が比較的低くかつ構造改革に中立ないし肯定的な層を「B層」とした。主に主婦や教育レベルの低い若年層、高齢者層を指すものとされる。

上記の企画書がネット等を通じて公に流布されたため、資料中に使用された「IQ」の語や露骨なマーケティング戦略が物議を醸すところとなり、国会でも取り上げられた(後述)。 

 

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