2010年11月12日

超ネガティブシンキングのすすめ

様々な方々に絶大な御支持を頂いている拙文ですが、賢明な読者であれば、私が三流のニヒリストであり、安手のペシミストである事に須くお気付きかと思われます。したがいまして、二ヒぺシである私は毎日毎日不愉快な事ばかりなのです。しかしこれは私に限った事ではなく、読者諸賢もそうでしょう。よほど恵まれた境遇に無い限り(私は毎日が愉快で愉快で笑いが止まらないという人も知っていますが)、毎日楽しい事ばかり連続的に発生する訳もなく、殆どの人は不快な事、厭な事に耐え忍びながら日々を送っているのが現実なのではないでしょうか。ただ、人間の精神動向は誠に複雑かつ不安定ですので昨日まで楽しかった事が急につまらなくなったり、あんなに厭だった事がある時さほどストレスなく出来るようになったりするものです。これは男女関係においてもそうではないでしょうか。交際している彼女がある時急にブスに見えたり、その彼女の笑顔が突如として恐ろしい魔女に見えたり、またある時は、カウンターで鮨をパクつく彼女の横顔をみて、「俺はなんでこんなブスバカ厚化粧女にタダ飯をくわせているんだろう」と己の判断力の甘さに酔いもさめてしまった事があるのではないでしょうか。まあこういった事は人間の精神的バイオリズムが内包する倦怠性に基づいて顕れる症状ですから、さほど問題ではありません。彼女がブスに見えたら、「僕は今日君がとてもブスに見えるなあ。何故だろう」と言ってやれば良いし、鮨を頬張る彼女がさもしく見えたら「大トロとウニばっかり食ってんじゃねえ!たまには手前で勘定払ってみろ!この低偏差値女め!」と罵倒して頭から御茶でもかけてやれば宜しい。相手の反応や、この雑言によって招かれる惨劇を恐れてはいけません。自心に率直な言動こそ道徳的なのです。さて、このようにその場で即時解決可能な不快事もあれば、現場ではどうにも解決出来ない不快事も存在します。例えば私は映画館やコンサートホールには絶対に行きません(昔は無理をして行った事もありますが)。なぜなら、感動や喜び、要するに喜怒哀楽といった精神状態を他者と共有する事が死ぬほど嫌いだからです。これはもう単に嫌いというレベルのものではなく、生理的に受け入れられません。例えば、あるパフォーマンスを観た場合、それに対する反応は本来人それぞれ違う筈なのに、皆が同じタイミングで同様に笑う、皆が同様に泣く、皆が同様に興奮する。この状況が気持ち悪くて仕方がないのです。大多数の観客が涙するような悲壮な場面で爆笑する人がいても良いし、大多数の観客が大笑いする場面でシクシクと啜り泣く人がいても良いのです。しかし実際にそういう事は殆ど起りません。皆が同時に涙を流し、皆が同時に笑うのです。奴隷教育によって植え付けられた画一的な感情表現を、不特定多数の人間が閉鎖空間で同時に噴出させる光景は、どこから見ても私には異常に映ります。そして、この多数者の異常行動による私にとっての不快事は、現場で即時解決出来ません。映画館で私が客一人一人に「すみません。多数派的感情表現はやめて下さい。気持ち悪いので」などと言ってまわれば、逆にこちらが気持ち悪がられ異常者扱いされ、つまみ出されるのが落ちでしょう。ですから私はそういった場所へは出掛けません。諦めます。ここで例に挙げたような多数派的感情表現は、完全に教育によって刷り込まれ、定型化されたものである事は言うまでもありません。女の子は赤いスカートを穿き、女ことばで話し、髪は長くする。男の子は力強さを求められ、大人になれば家族という訳のわからない集団を養う事を強要される。これも、人間が生まれながらにして身に付けている事ではなく、教育によって植え付けられた感覚です。幼少時からの教育によって無慈悲に、強制的に叩きこまれたものを、大人になっても無反省に、無批判に唯々諾々と受け入れたままの状態である事を、私は人間としてとても怠惰な姿勢だと思います。本物の大人たる者は、自らが受けてきた教育を一旦全て完全に否定した上で檻の中に閉じ込め、その全てに懐疑の矢を放ち、自らの体験に照らし真偽を徹底的に極限まで究明し、その結果淘汰されず、ゆるぎない真実性を保ったもののみを自身の行動規範としている人間なのではないでしょうか。これは著しい艱苦を伴う極めて厳しい行為であると同時に、ニヒリズム的洞察力とペシミズム的視点(目線という言葉は間違いです)を併せ持った哲学的立場を立脚点とする事が必要欠くべからざる条件となります。であるからして、私は低次元のニヒリストであり低知能指数のペシミストなのです。人間は不幸の淵に沈んでいる時ほど様々な事象に対する思考を深めます。最愛の人に無惨に裏切られた、或いは想像を絶する凄絶な苦労の末に築き上げた会社が潰れてしまった。そんな時に、「あの人に尽くした私の愛は何だったのだろうか」、「俺の筆舌に尽くしがたい血の滲むような労苦は何だったんだろうか」、「俺の人生は全くの無意味だったんだろうか」などと延々とうつうつとジメジメと考える。これこそが思考の深化の起点であり、不幸こそが思考の深化の源泉なのです。「男なんて星の数ほどいるさ」、「くよくよするなよ」、「人生何度でもやり直せるさ」。こんな無責任で無根拠な言葉に騙されてはなりません。安っぽい、使い古された励言を吐く者ほど思考が浅く怪しい。決まりきった手垢の付いた励ましの言葉をかける者は、眼前に不幸者、落胆者がいると自分が不愉快だからそうするのであり、なんとかして相手を自分の住む安楽で堕落した無反省な思考停止の世界に引きずり込みたいだけなのです。これほど不真面目で不謹慎でいい加減で怠惰な臨人姿勢はありません。少し考えてみればすぐに分かるようにポジティブシンキングとやらは、己に降りかかってくる解決困難な災いから目を逸らし、論点をすり替えて誤魔化し、人間の知性を否定した逃避行動に他ならず、最も低レベルの思考停止の一形態にすぎない。幸福な状態も危険です。幸福な状態とは精神的に満ち足りている事であり、文字通り満足している訳ですから、疑いなく重度の思考停止状態です。幸せを感じてしまったら、気が付いたら幸福だったら、即座に不幸界に舞い戻らなければ人間の知性は死滅します。まあ、無理に不幸界に帰らずとも大抵の場合、幸福の直後には不敵な笑みを浮かべた不幸が待機して居るのが世の常ですから、さほど心配する事も御座いません。家を建てれば地獄のローンが手ぐすねひいて待っている訳ですし、酒を呑めば酔いも醒める程の勘定が待っています。幸と不幸は表裏一体なのかも知れませぬ。ここで私の最愛の都都逸を一つ。「紅い顔して御酒を呑んで、朝の勘定で蒼い顔」。こんな鋭敏で含蓄のある都都逸を聴くと、都都逸とはジャパニーズファンキーアフォリズムであることを再認識させられます。さて、私もそろそろ更なる知の蓄積と思考の深化を求めて夜の街を彷徨わねばなりません。今晩は河豚だなフグフグ。読者諸賢、しからばまたお会い致しましょう。

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