2009年02月15日

凋落する動物

「継続は力なり」と申しますが、これは私の座右の銘でもあります。幼少の頃に両親からこの言葉を授かり、甚く得心した事を今でもしかと覚えております。爾来、私はこの格言を心の支柱として徹底的に継続してきたものが二つあります。それは酒とタバコです。あらゆる艱難辛苦を撃破し、それは筆舌に尽くしがたい大変な道のりでした。その甲斐あって私は、生半な事ではへこたれない強靭かつ極めて有能な肝臓と、如何なるものを吸い込もうと怯む事のないこれまた極めて勇猛な肺を手に入れました。これから先どのような困難が待ち構えていようとも、自戒の念をこめて、酒とタバコを断固継続してゆく所存であります。さて、私は大の愛犬家です。もう、犬とみればどんな犬でもジャストフレンドだと思っていました。がっ!最近、巷を闊歩している犬どもをみていると違和感を覚えるようになりました。街行く犬達の躾が良すぎるのです。私は躾の良い犬など大嫌いです。移動の自由を奪われ、捕食の自由を奪われ、咆哮の自由を奪われ、防衛の自由を奪われ、排泄の自由を奪われた犬をみていると哀れでなりません。躾と称して犬をロボット化する事は、人間のエゴでしかありません。躾の良い犬は、そういった人間のエゴを具現化した動物そのものなのです。私は斯様な犬達をエゴ犬と名付けました。そもそも犬は、「こやつ怪しい」と思えば吠え掛かり、「こやつますます怪しい」と思えば食いつくのが商売です。動物の本能を過度に押さえつけることは、その動物にとってストレスなるだけです。誤解しないで頂きたいのですが、私はなにも犬をノーリードで散歩させろとか、犬の攻撃本能を助長しろと申しているのでは御座いません。他者に被害が及ばない範囲で、犬の主体性を尊重せよと思うのです。あらゆる自由を奪われた動物は哀れで、見るに忍びないものです。この考察を機会に私は、愛犬家改め、哀犬家と名乗る事と致しました。それでは皆様、また暫しのお別れで御座います。御通読誠に有り難う御座いました。

 

 

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