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スタッフブログ

愛すれば鈍する

「突然のメール失礼致します」とか言う書き出しで始まるメールを頂く事があるが、著しい違和感と怒りを覚える。メールであれ電話であれファックスであれ、それは如何に相手を気遣おうとも「突然」送りつけるしか術の無い性質のものであって、「さりげなく」メールを送るとか、「そこはかとなく」メールを送るとか、「忍び寄るが如く」メールを送るとか、「申し訳なさそうに」メールを送るなどという事は物理的技術的に不可能なのであるから、「突然の」を付加する事は、自らが発する言句の旨意を理解していない事に他ならず、己の脳が思考停止している証跡であろう。相手の事情など露程も考えていないくせに、言葉面だけで如何にも対者を慮っているような素振りを見せんとするこの痴行は、その人格の底の浅さと婉曲な厭らしさ露呈するものでしかない。つまりは、「私はここまで謙って貴方に気を遣っているのだから、貴方も私の要求に対して誠意を持って応えてね」と言う訳だ。何ともまあ浅はかであざとく厭らしい言い回しではないか。これと本質的に同様なのが結婚式の招待状である。この拙文の読者の年齢層は比較的高いと感じているが、晩婚化が進んだ現在、果敢にもこれから結婚しようとしている勇敢なる冒険家もいるかも知れない。その軽率無謀な冒険家の方々には、これから先を特に精読して頂きたい。まず、貴方が結婚しても貴方と貴方の極近しい身内以外、誰も嬉しくないし、何とも思っていない。束の間の儚くも虚しい、絶望と隣り合わせの喜びに浸っているのは貴方だけであり、その姿は他者が見た場合滑稽以外の何物でもない。次に、親族以外の他人を結婚式に招待(恐喝)するのはやめなさい。招待された者がどれほど迷惑に感じているか想像して欲しい。ついさっきまで葬式仏教を名乗って憚らなかった者が、式の直前に形ばかりのインチキ洗礼を受け、まるで子供の学芸会の如き稚拙なキリスト教式の結婚式を挙げる事のバカバカしさに皆心底ウンザリしているのである。披露宴になれば、出てくる料理は見掛け倒しの冷めた物。腹が減ったからといって自分だけ料理をパクつくわけにもいかず、皆あまり食べない。更には自己満足押付け型お色直し。「オカメが何回着替えたって大して変わんねえんだ!色直しなんてしてる暇があったら韓国行って整形してこい!このヒョットコ花嫁!」こんなヤジが飛ばないのが不思議なくらいだ。祝儀というものも、はたまた不思議な慣習だ。幸せ一杯感極まる二人に、何故更に金をくれてやらなければならないのか。金なんかくれてやらなくても二人は幸せ一杯なのだからそれで十分ではないか。祝儀とは寄付の一種であろう。であるならば、寄付というものは普通、余裕のある者が不幸な人々にするものだ。それをあろう事か自分達は瞬時の幸福に身を委ねながら、更に他人様から金子を奪取するとはなんたるふてぶてしさ。これは完全に幸せ強盗であり、盗人猛々しいにも程がある。とどめの迷惑は、これは私が頻通する洋食店の方々も糾弾していたが、あのガラクタとしか言い様の無い引き出物だ。あんなガラクタは質に入れても一文にもなりはしない。おまけにそれが新郎新婦の名入り品だったりしたら目も当てられない。即刻ゴミ箱行きである。ではこのような結婚式という恥も外聞も討ち捨て、我を失った愚行に人を暴走させるそのエネルギーの源泉たるやなんなのであろうか。それはズバシ「愛」である。「愛」という低級呪術に罹った人は、もはや正常な判断能力を喪失しているのだ。結婚式の招待状を送りつけられた人達が、「ちぇっ!またかよ。どうせ2,3年で別れるんだからこんなもん送ってくるなよ!迷惑だなあ!」と舌打ちしている事に気付きはしない。「愛」とは実に恐ろしいものである。私は「愛」を知り尽くしているからこそ「愛」を信じないし殆どの物事を愛さない。私に所謂愛国心は無い。この国がどうなろうが私にとってはどうでもよい事だし、良くなって欲しいとも思わない。ただ、私の周りで私にとって不愉快な事がなるべく起こらないと良いなと思うだけだ。私は、たまたま日本に生れ落ちただけであり、私が自身で日本に生まれる事を望み選んだわけではない。自らの意志と無関係に与えられた物や環境に愛を感ずる方が異状に見える。だから、オリンピックなんぞで一喜一憂している人が不思議でならない。だいたい国家間で優劣を競うという前時代的で野蛮な行事は直ちに中止すべきとさえ思っている。私には愛郷心も無い。自宅からの徒歩圏内に美味しい店が増えると嬉しく、大手飲食チェーン店が侵略してくると悲しい。それだけである。このように考察してゆくと、純然たる博愛主義者を除いて、通常、愛とは己の帰属集団によって育まれるものであることがわかる。国家、会社、大学、地域、家族、これらは全て其処に含まれる者の帰属意識によって成立している。この帰属意識の強弱が愛の温度に比例するのである。アメリカ人が日本人をイエローモンキーといって馬鹿にした場合、髪の毛を逆立てて怒りをあらわにする人もいれば、少し不愉快になる程度の人もいる。この怒りが強ければ強いほど、国家に対する帰属意識が強く、愛国心も強力になる。私は国家という帰属集団に対する帰属意識が極めて薄弱、というよりほぼゼロであるから米国人に黄色猿と嘲笑されてもなんら痛痒は感じない。リチャードギアと田村正和が並べば、リチャードギアに軍配があがるのは火を見るよりも明らかな訳だから、米国白人は日本人が猿に見えて至当にもかかわらず、殆どの日本人はその紛れも無い事実を否定せんと怒る。「愛は盲目」との言葉通り、愛なるものは異性間の情愛に留まることなく、あらゆる事象に対しての、人間が本来もって然るべき鋭敏な感覚を自壊させる。音楽鑑賞を愛する者は、それがたとえミケランジェリのピアノであったとしても、周囲の者にとっては単なる雑音に過ぎないことに気付きはしない。スポーツを愛する者は、熱狂的でありながら実のところ空虚なその行為が、対社会的憤怒のはけ口にすり替えられ、己の思考深化を妨げていることに気付きはしない。釣りを愛する者は、魚の体に針を突き刺し、それを喜びとする残虐性を認めようとはしない。犬を愛する者は、特定の動物を偏愛するという人間のエゴイズム剥き出しの愚行が、エコテロ組織であるシーシェパードと同列の選民思想に帰結することなど思いも及ばない。そして国を愛する者は、その卑小な愛国心そのものが、悉皆、国家間紛争の火種として常に燻り、ひいては火種に油を注ぎ煽り立てる首尾となっている現実を見ようともしない。どうだろう。愛とはこうも人士から現実を、真実を、本質を遠ざけるものなのだ。ただ、ここで例にあげ、厳しく断じた行為を、私が全否定しているものとして捉えるのはあまりにも稚拙な軽断と言えよう。音楽も、スポーツも、釣りも、犬も、さらには国家も、私はそれを愛する事を否定するものではない。この世において愛とは、著しく無根拠かつ無責任なものであって、そして無根拠無責任な無主物とはいうものの、激烈な反作用を有しており、その反作用に対し極限までの留意を高めよと表しているのだ。音楽を愛する者は、ミケランジェリの演奏が騒音にしか聞こえない者に詫びなければいけない。スポーツを愛する者は、スポーツを愛すれば愛するほど己が低能化してゆく事を自覚し、それを食い止める行為も同時に遂行しなければならない。釣りを愛する者は、自らの行いを強引に正当化することなく、人間の精神の深奥に潜む極めて無慈悲な残忍性を率直に認めなければならない。犬を愛する者は、動物の自由を強奪、拘束し、己の偏愛を一方的に押付けるという醜いエゴイストであることを猛省しつつ犬を飼わなければいけない。国を愛する者は、その愛国心と同量の敵を生み出している事実を鑑みることが責務ではないか。そして実は、愛によって解決可能なものなどこの世に殆ど存在しない。私は愛というものについて、人間が解決しえぬ事実を、また自己にとって甚だ都合の悪い真実を覆い隠す、安手のカツラのようにしか思えないのである。

 

 

妄語横溢

相も変わらず塵の世は如何にも虚妄にまみれていよう。誠を知らんとすれば赫々たる火炎の如き抗拒に晒され、誠を叫ばんとすれば反攻の矢が無算と放たれる。さて、東京ディズニーランドなる遊戯施設がある。言わずもがな、それは千葉県浦安市に在する。それが何故「東京」ディズニーランドなのだろうか。どこからどう見ても「東京」ではない。何故「浦安」ディズニーランドではいけないのか。それは東京が世界有数の先進都市であり、その「東京」というブランド地名が放つ威光(甚だ次元の低い威光ではあるが)を利用せんが為に無理無体を重ねて、「浦安」を「東京!」と呼号するのである。これは浦安市民に対して大変な非礼であると同時に、明白なウソ、虚言としか言えない。何を今さら判りきった事をと申す者も多かろう。だが私はこういったウソ、デタラメを断じて許さない。何故なら、このような一見些細に感じるウソこそが、後々恐ろしい結末を産むことを知悉しているからだ。だから私は誰がなんと言おうと「浦安」ディズニーランドと呼ぶ。日本社会とディズニーの結びつきが強固なものとなった時期は、1957年に遡る。この年に、ジェネラルダイナミクス等、米国原子炉メーカー数社の依頼で、ディズニーが製作した大衆洗脳映画『我が友原子力』の放映権契約がディズニーと日本テレビの間で締結された。この事実を知らずとも、日本テレビと聞いてピンときた読者も少なくないのではなかろうか。契約の締結こそ当時の日本テレビ社長、清水興七郎が執ったが、そう、その黒幕は他でもない、正力松太郎だったのである。その頃正力は、自らの所有物である読売新聞と日本テレビという最強のメディアパワーを存分に利用し、積年の夢であった日本への米国製原子炉導入の為、あらゆる手段で画策、そして暗躍していた。ディズニー映画『我が友原子力』は、原子力エネルギーを次世代の、或いは未来の夢のエネルギーとして米国民を洗脳する為に製作されたが、それはそのまま、被爆国である日本社会に根強く残る原子力アレルギーを払拭するには、御誂え向きとしか言いようがない代物だった。ただ、この原子力推進洗脳映画『我が友原子力』の日本での放映権締結の経緯を精査すると、これは日本への米国製原子炉導入政策を牛耳り、原子力エネルギー利権の掌握を悲願としていた正力から持ち掛けた話ではなく、ディズニー側からのアプローチだったことが判った。ウォルトディズニーの兄、ロイディズニーが日本テレビ本社に来訪し、『我が友原子力』の日本での放映を自ら売り込んできた記録が残っていることからも、あながち間違いとは言えないだろう。GE、ウェスティングハウス、ジェネラルダイナミクス等の米国原子炉製造メーカー及び米国は、相手国の内情を慎重に内偵しながらも、この原子力洗脳映画の放映を奇貨として、やはり原子炉、或いは原子炉製造技術を売り捌きたかったのではないだろうか。かくして1958年元旦、原子力推進映画『我が友原子力』は華々しく放映され、米国、米国原子炉製造メーカー、そして正力松太郎の思惑通り、大半の日本人の原子力アレルギーを軽減させることに小成した。時を経ること3年、1961年に京成電鉄が浦安の埋立地にディズニーランドを建設する計画を持ち上げる。この時、京成電鉄の川崎千春とディズニーの間を取り持ったのが、やはり正力松太郎だった。さらに、ディズニー映画の配給元だった大映(1971年倒産)の当時の社長、永田雅一も大いに協心した。そして1983年、構想から22年という長期に亘る紆余曲折、艱難辛苦を乗り越えて「浦安」ディズニーランドは開園を迎えた。開園までの22年間、何か事が起こるたびに、その解決に尽力したのは正力松太郎だったと言われている。一方で正力は、自社の遊戯施設よみうりランド建設に中って、ディズニーの強力なライバルであるユニバーサルスタジオと協力関係を築こうとするが、何故か失敗に終わっている。さて、こういった経緯をたどれば、「浦安」ディズニーランドなるものが、何を企図して造り上げられたものなのかが分かろう。解義の必要も無かろうが、あえてここに記せば、「浦安」ディズニーランドとは、日本への米国製原子炉導入の流れに乗って計画され、CIAの息がかかった米国プロパガンダ施設なのである。福一ボム後、至当なことながら日本の原子力政策は頓挫し、迷走している。しかし「浦安」ディズニーランドは元気そのもの健在だ。日本社会における反米感情を希釈し、親米感情を堅持、あわよくば煽動せんが為に、今日もドナルドダックは尻を揺らして日本の子供達の御機嫌取りに狂奔し、愛想を振りまき、それを見たCIA極東支部の局員は胸を撫で下ろしているのだろう。もう一つ、マクドナルドもウソが常態化している。マクドナルドでコーヒーを頼むと、バカの一つ覚えのように、「コーヒーにお砂糖とミルクはお使いになりますか?」という台詞が返ってくる。これがウソもウソ、大嘘のインチキなのだ。マクドナルドで渡される「ミルク」は全く「ミルク」ではない。あれはミルクどころか、植物油をこねくりまわして着色、味付けし、あたかもミルクのように見せかけた「ニセミルク」 「インチキミルク」に他ならない。私はマクドナルドのようなジャンクフードは極力口にしないようにしているが、周辺にマクドナルドしか無いような地域にいた場合、止むを得ず食すことがある。或る時、マクドナルドのカウンターで、件のマニュアル台詞を吐いた店員に対し、試しに問いかけてみた事がある。「でもこれ、ミルクじゃないですよね?」 「えっ!」 「これって植物油をあーでもないこーでもないといじくりまわしてひねりだしたニセミルク、インチキミルクですよね。そのことを貴方は知らないのですか?」 「知っています」 「じゃあ貴方はそれを知っていて客にウソをついているのですね?」 「ウソ、、、と言いますかマニュアルで決まっているもので、、、、、」、すると、ただならぬ状況を察した店長らしき人物がサルのような素早い身のこなしで私の眼前に現れた。「何か失礼が御座いましたでしょうか?」 「いや、失礼と言うかなんというか、マクドナルドの人達が皆私にウソをつくもので」 「はっ!どういうことでしょうか?」 「ミルクでないインチキミルクをミルクと言うのですよ。これは本当にミルクですか?貴方は自信を持ってこれをミルクと言えますか?」 「いえ、あの、それは、、、、、」 「それ見たことか、言えないでしょう。しかし、貴方は大変真面目な方だ。私もこの場で貴方を問い詰めても仕方が無い事は分かっています。現場で働いている方々にこの質問をぶつけて、どういう反応をするのか知りたかっただけです。お忙しいところ失敬致しました」 するとその店長らしき男は、今度はムササビの如くふわりと身を翻し、束になった商品券だか割引券を私に差し出した。「次回ご来店の際には是非こちらを御利用下さい」 「私はユスリタカリではありませんよ。そのような金品を受け取るわけには参りません。貴方達が一所懸命に作ったジャンクフードを、胃もたれ覚悟で一気食いして御暇致します。では」 。こういう組織で働いている方々は気の毒だ。毎日毎日強制的にウソを言わされ、自分が客に対してウソをついていることに麻痺してしまっている。これが最も恐ろしいことなのである。小さな瑣末なウソであっても、そのウソをひたすら繰り返すことによって自らがウソをつくことへの罪悪感が薄れ、自分の言葉に無責任になってゆく。総理大臣が平気でウソをつき、国会議員が平気でウソをつき、官僚が堂々とウソをつき、電力会社が憎憎しくウソをつき、御用学者がニヤニヤとウソをつき、マスコミがへらへらとウソをつく。結句、オリエンタルランドは「浦安」ディズニーランドを「東京」ディズニーランドとウソを言い張り、マクドナルドは、「インチキニセミルク」を無恥に「ミルク」と叫ぶ。私はオリエンタルランドに「浦安ディズニー米国プロパガンダランド」と名乗って欲しい。なにもやましい事が無いのであるなら正々堂々とそう名乗れる筈だ。そしてマクドナルドは「メニューの写真と実物の見た目が全然違うクウォーターパウンダーのセットですね。プレミアムローストコーヒーとは名ばかりの、麦茶みたいな味がするコーヒーにグラニュー糖とインチキニセミルクはお使いになりますか?あ、それとフライドポテトはアメリカ本国では使用をやめたトランス脂肪酸入りです」と店員に言わせるマニュアルを是非作って欲しい。そうしてくれたなら、私は毎日でもマクドナルドで昼飯を食べるのになあ。そうだ、喫煙席も用意して欲しいなあ。

信じる者は騙される

たとえば、『日本は法治国家である』 『日本は民主主義国家である』 『日本国民は900兆円の借金を抱えている』 『為替レートは市場原理に基づいて変動している』、といった事を殆どの者は一応肯定するだろう。しかしこれらは全て完全なウソ、デタラメ、インチキである。例を挙げながら端的に解説しよう。まず『日本は法治国家である』ならば、福一ボム後、一年以上が経過しているにもかかわらず、何故東京地検は東電を捜査しようともしないのか。東電という民間企業の刑事責任を問わないのか。何故私の基本的人権は毎日のように踏み躙られるのか。交通違反の反則金制度は疑う余地のない異常な二重法律である事は当然として、裁判無しに国民を罰する事が出来ると言う戦慄すべき制度が何故横行しているのか。国家の暴走を縛る為の憲法は蹂躙され、国民の自由を奪う法律ばかりが充実してゆく。また、一度でも日本の刑事裁判に関わった事がある者は、日本の司法制度が呆了するばかりの形骸化した茶番劇である事を実感しただろう。『日本は民主主義国家である』との大嘘は、選挙制度を見れば一目瞭然だ。民主主義とは換言すれば、多数決をよしとするものだ。その多数決制度の根幹である選挙制度に多数決の論理が全く働いていないのである。その元凶が選挙区制度だ。特に小選挙区制度では場合によって、有権者の数パーセントからしか支持を得ていない候補者が当選する。残りの有効投票は全て死に票となって遺棄される。こんなバカな事で政治に民意が反映されよう筈もない。むしろ政治に民意が反映しないように、この選挙制度を採用しているのである。多数決の原理を真摯に受け止めるのであれば、政治に民意を精確に反映させる選挙制度は、死に票が全く発生しない比例代表制しかない。『日本国民は900兆円の借金を抱えている』とは、よくもこれ程までに馬鹿げたデタラメがまかり通るものだと失笑を禁じえない。この900兆円の借金とは当然国債の事であるが、国債とは国民が政府に金を貸した証券である。それが何故いつの間にか国民の借金になってしまうのだろうか。この厚顔無恥で巧妙なトリックについてここでの詳述は避けるが、これは財務省の役人が脈々と受け継いできた、財政不安を国民に植え付け、増税の口実とする悪質な詐欺の手口なのだ。『為替レートは市場原理に基づいて変動している』わけがない。世界の為替レートはIMFとFRB(連邦準備制度)が恣意的に操作している。たとえば現在の円高もFRBの操作によって意図的、恣意的に作り出されたものなのである。たったこの4例を考えてみただけでも、如何に国民が日常的に、根本的なレベルの事象から騙されているかが良く判る。更に卑近な例を示そう。3.11の震災瓦礫処理の問題だ。マスメディアから流される情報に頼っている国民の殆どは、被災地は瓦礫処理に困窮しており、被災地外での広域処理を望んでいると思い込まされているだろう。そしてマスメディアは連日のように、国は被災地外に震災瓦礫の受け入れを要請し、受け入れ地の住民達がそれに強く反対するという構図の報道を流し続けている。ところが、これは明らかな世論誘導であって完全なるウソなのだ。被災地の実態はこれら報道されている事とは正反対としか言いようがない。実は3.11の被災地にとって震災瓦礫は復興に欠かせない宝の山なのである。阪神淡路大震災で発生した瓦礫は2000万トン。これを3年かけて全て被災地内で処理した。神戸空港の埋め立てに有効利用したのだ。これに対して3.11震災瓦礫は2200万トンから2300万トン。このうちの数百万トンを被災地外で広域処理しようと言うのだが、実は被災地としては新規の防潮堤建設や被災各地の埋め立てに震災瓦礫を有効利用したい為、1トンたりとも外に出したくないのが本音であり、被災地外処理など誰も望んでいない。3.11被災地にとって瓦礫処理は、壊滅的な被害を受けた地元経済を立て直すための唯一と言ってもいい絶好の機会であり、頼みの綱なのだ。被災地内での瓦礫処理は、潤沢な復興予算で地元の雇用創出を促し、被災者を経済的に立ち直らせる。ではどうして国は被災地外広域処理をごり押しするのか。これには明確な理由がある。阪神淡路大震災の時、国からおりた復興予算のうち瓦礫処理費用として1トンあたり2万円が認められた。それが3.11の瓦礫処理費用は1トン当たり6万円以上の予算がついているのだ。言うまでもないが実に3倍以上だ。腐りきったこの浮世に数多蔓延る、国から垂れ流される税金にぶら下がって飯を食う被災地外の大資本ハゲタカ企業が、こんな旨みのある話を聞き逃す事など考えられようか。というより、そもそも被災地外の大資本ハイエナ企業に復興予算なる税金を流す為に、1トン当たり6万円という異常に高額の瓦礫処理予算をつけたとも言える。つまり、震災瓦礫広域処理とは、殆どが東京に本拠を置く大資本が、復興予算という巨額資金を被災地から強奪する、鬼畜の所業の如き計略なのだ。被災地では、瓦礫処理に限らず復興事業の殆どが大資本に毟り取られ、地元の建設会社は孫受けの孫受け辺りで、雀の涙ばかりのおこぼれを頂戴しているのが現状だ。まさに泣きっ面に蜂である。こういった苛虐な事実をマスメディアは一切報道しない。大資本に不利益が及ぶような報道は全くせず、「震災後一年以上経っても被災地の瓦礫は全体の6%しか処理が進んでいません!」 「被災地には未だ手付かずの、気が遠くなるような大量の瓦礫が積み上げられています!広域処理は止むを得ないのではないでしょうか!」などと、被災地から復興予算を奪い取り、大資本の黒腹を膨らませるだけのしらじらしいゴマ擂り報道を垂れ流し、無思考型日本国民を洗脳し騙し続ける。ある放送局のニュース番組で、被災地の地元労働者と思しき50代の東北弁を使う男性が、震災瓦礫の広域処理を切実な表情で訴える映像がしきりに流された。私は、この映像が番組制作会社による完全なヤラセであった証拠を掴んでいる。この如何にも地元労働者といった雰囲気を漂わせた50代の男性は、郷愁を誘う東北弁を話す通り、東北出身ではあるものの、実は東京在住で、3.11とは何の関係もない人物だったのである。また、被災地の小中学生を平野復興相に面会させ、震災瓦礫広域処理の早期実現を哀願するという、自己判断力の無い子供を出汁にした厭らしい猿芝居も各局で積極的に放映された。如何だろうか。マスメディアとは、ここまで卑劣な情報操作をやってのけるのである。マスメディアの原動力は、社会正義を保つ精神でも質の高い情報を読者に提供する真摯な気持ちでもない。カネである。そのカネを生み出すのは購読料、視聴率、と広告料だ。インターネットの普及による新聞離れ、テレビ離れと、デフレ不況による広告収入の落ち込みという二重苦を背負い、今や斜陽産業になりつつあるマスメディアが、各社生き残りを賭けて恥も外聞も無く権力や大資本に擦り寄るのは、当然の帰結なのかもしれない。或いは、マスメディアとは元来そういうものなのかもしれない。これらの社会状況が何を意味するのか。それは、『コーポラティズム』だ。『コーポラティズム』とは、政、官、財(大資本)、マスメディアが見事に癒着し、十全な利権構造を擁した国家社会のことである。現在、コーポラティズムが最も進んでいる国はアメリカだ。それに追従するようにコーポラティズムを推進しているのが日本である。コーポラティズムの核をなす4者の利権関係は一朝一夕のものではなく、永い時間をかけて構築されたものであり、これを解体するのは不可能に近い。近代史を遡ってみても、このコーポラティズムの利権構造を完全に解体した例はない。残念ではあるが、コーポラティズムとは資本主義国家あるいは資本主義社会が宿命的、そして最終的に陥る不治の病の末期症状であると言わざるを得ない。この不治の病の末期症状であるコーポラティズムが更に進むと、政、官、財、マスメディアが、己の利権を死守しようとする為、国民の監視、管理体制を益々強めることになる。そして、あらゆる巧妙な手段を行使して国民を欺き続けるのだ。今、私達が生きるこの社会が如何なる状況なのかを示唆する興味深い資料が手元にある。東京新聞に掲載された「原子力業界で多用される主な専門用語」という資料だ。以下にその内容を記してゆく。 《 『事象』⇒危険性を低く見せる為に使う典型的な用語。「事故」や「トラブル」の代わりに使う。  『高経年化』⇒原発の「老朽化」のこと。原発関係者は「老朽化」という言葉は絶対に使わない。  『冠水』⇒福一の廃炉手法。本来は「水棺」というが、「棺」という字を嫌った電力会社が命名した言葉。  『滞留水』⇒建屋などに溜まった「高濃度放射性汚染水」の事。穏やかな表現だが表面線量は毎時2000ミリシーベルト超。  『燃料の損傷』⇒燃料が傷ついているだけの様な印象を与えるが、実際は「メルトスルー」。  『廃スラッジ』⇒ただのゴミのような呼称だが、実は汚染水浄化装置で発生する人が近付く事すら危険な程の超高濃度の放射性汚泥。  『バックエンド』⇒使用済み核燃料の再処理を含む核廃棄物の処理業務全般の事。この言葉からそれが指し示す意味を想像する事は出来ない。  『クリアランス』⇒一定の線量未満の核廃棄物を一般廃棄物扱いにする法制度。「クリア」と言いながら放射性物質を含む。  『MOX燃料』⇒毒性の強いプルトニウムを含むが、それを感じさせないように様にした呼称。  『冷温停止状態』⇒健全な原子炉に使われる「冷温停止」に「状態」を付け、政府が安全性のアピールにフル活用した。》  この資料が、コーポラティズムの極致ともいえる状態の日本を実に率直に物語っているのは明らかではないだろうか。私は、こういう腐敗した社会に生きている事を強く自覚し、思惟を深めずにはいられないのである。

 

 

真実への畏れ

「うーらの畑でポチが鳴くー、正直爺さん掘ったらばー、おーーばーんーこーばーんーがーザーックザーックザックザク」言わずと知れた『花咲か爺』の唄である。こういった昔話の内容の記憶は意外と曖昧になっている場合が多いのではないかと思われる。であるからして、念のためそのあらすじを引用しておこう。《心安らかで堅実に暮らす心優しい老夫婦が、一匹の白い仔犬を拾いわが子同然にかわいがって育てる。あるとき犬は畑の土を掘りながら「ここ掘れワンワン」と鳴き始める。驚いた老人が鍬で畑を掘ったところ、金貨(大判・小判)が掘り出される。 老夫婦は喜んで、近所にも振る舞い物をする。それをねたんだ隣人夫婦は、無理やり犬を連れ去り、財宝を探させようと虐待する。しかし犬が指し示した場所から出てきたのは、期待はずれのガラクタ(ゲテモノ·妖怪欠けた瀬戸物)だった。 隣人夫婦は犬を鍬で殴り殺し、飼い主夫婦にも悪態をついた。わが子同然の犬を失って悲嘆にくれる夫婦は、死んだ犬を引き取り、庭に墓を作って埋める。 そして雨風から犬の墓を守るため、傍らに木を植えた。植えられた木は、短い年月で大木に成長する。やがて夢に犬が現れて、その木を伐り倒して臼を作るように助言する。 夫婦が助言どおりに臼を作り、それで餅を搗くと、財宝があふれ出た。再び隣人夫婦は難癖をつけて臼を借り受けるが、出てくるのは汚物ばかりだった。 激怒した隣人夫婦は、斧で臼を打ち割り、薪にして燃やしてしまう。夫婦は灰を返してもらって大事に供養しようとするが、再び犬が夢に出てきて桜の枯れ木に灰を撒いてほしいと頼む。 その言葉に従ったところ花が満開になり、たまたま通りがかった大名が感動し、老人をほめて褒美を与えた。このときのセリフは『枯れ木に花を咲かせましょう』である。やはり隣人夫婦がまねをするが、花が咲くどころか大名の目に灰が入る。 悪辣な隣人は無礼をとがめられて罰を受ける》。 何処の馬の骨が捻り出した話か知らぬが、こういう安直な美談ほど怪しいものはない。怪しすぎる。まず物語の冒頭、「心優しい老夫婦」は、いきなり大判小判を見つけそれを懐に入れる。私に言わせれば、これは歴とした犯罪であり、「拾得物横領罪」(一年以下の懲役または10万円以下の罰金もしくは科料)である。いかに己の畑から出てきた物であろうと、所有者が判然としない金品をシメシメとばかりネコババしてしまう爺と婆のどこが「心優しい老夫婦」なのであろうか。然るべき所にきちんと届け出るのが筋だろう。冒頭のこの一節で、既にこの昔話の怪しさは頂点に達している。私は、この物語の真相は次の様なものだったのではないかと推察する次第だ。まず、話中の「心優しい老夫婦」を「G老夫婦」、「妬み隣人老夫婦」を「NG老夫婦」とする。《「G老夫婦」は終始穏やかな笑顔を絶やさず、柔らかい物腰を装ってはいたが、その正体たるや甚だ狡猾で卑怯な人物であった。一方、「NG老夫婦」は、その無愛想で陰気な性格が災いして近隣の住民から疎んじられていたが、よくよく話をしてみれば、極めて実直で誠実な人柄であった。或る日、「G老夫婦」が一匹の薄汚い病気持ちの仔犬を拾ってきた。「G老夫婦」は、自らが連れ帰ってきた仔犬であるにもかかわらず、餌をやるでもなく、水をやるでもなくほったらかしていた。それを知った「NG老夫婦」は仔犬を大変不憫に思ったが、下手に餌でもやろうものなら何を言われるか分からないと考え、ただただ傍観するのみだった。すると、空腹に耐えかねた仔犬は時折「NG老夫婦」の畑に侵入し、作物を盗み食いしていた。勿論「NG老夫婦」はそれに気付いていたが、仔犬が喰う量など高が知れていると、黙認していた。或る時、仔犬が飼い主である「G老夫婦」に、たまには餌をよこせとばかりに「ワンワン、ワンワン」としつこくせがんだ。「G老夫婦」は「全くうるさい仔犬だ!それ以上吠えると穴を掘ってうめてしまうぞ!」、と畑に穴を掘り始めた。さてどうした事か、掘り始めた穴からこれでもかと言わんばかりの金子が現れたのである。「G老夫婦」は、その一部始終をじっと見ていた「NG老夫婦」に詰め寄り、「この金子はわしらが昔埋めたものじゃ!自分の物を自分で掘り出して何か悪いか!」、と虚言を弄し恫喝した。「NG老夫婦」は、その恫喝にとりたてて反応する事もなく黙々と野良仕事を続けた。それから暫くの時が経った或る朝、例によって仔犬が「NG老夫婦」の畑に作物のおこぼれにあずかろうとやってきた。ところが、既に収穫を終えてしまった「NG老夫婦」の畑に作物は何も残されていなかった。当てが外れた仔犬は、畑の端に肥壺用の穴を掘っていた「NG老夫婦」の所に来て「ワンワン」と食い物の催促をした。いくら催促されても無い物は無い。「NG老夫婦」はどうする事も出来ず、腹を空かせた仔犬を尻目に肥壺用の穴を掘り続けた。穴を掘っていると、割れた瀬戸物やら壊れた薬缶が出てきた。物を大切にする「NG老夫婦」は、こんなガラクタでも何かに使えないかと、その瀬戸物や薬缶を綺麗に拭いていた。すると、食い物の催促を無視されたと思った仔犬が逆切れし、あろうことか「NG爺」に噛み付こうと襲い掛かったのである。これに驚いた「NG爺」は、襲い掛かる仔犬を振り払おうとしたところ、その手に持っていた薬缶が見事仔犬の脳天に命中してしまった。仔犬は目から星を出してバッタリと倒れ、そのまま昇天した。不測の事態とはいえ、他人様の犬を殺めてしまった「NG老夫婦」は、たいして仔犬の面倒もみていなかったくせにここぞとばかり怒り狂う「G老夫婦」に平伏して侘びを入れ、せめてもの贖罪をと全財産をはたいて仔犬の墓を建てた。しかしそれでも良心の呵責に苛まれた「NG老夫婦」は、自分達の土地に生えていた一番太い木を切り倒し、立派な臼を拵えて一所懸命に餅を搗いた。そして搗いた餅を町で売り、金子に換え、「G老夫婦に」侘び金として届け続けた。来る日も来る日も餅を搗き続けた結果、とうとう臼がパッカンと二つに割れてしまった。「NG老夫婦」の土地に臼に出来るような大木はもう生えていない。止むを得ず餅を搗く事を諦め、臼を燃やして灰にした。灰が樹木の肥やしになることを知っていた「NG老夫婦」は、「G老夫婦」の庭の、手入れ不足で枯れかかっていた木の根元に丁寧にその灰を撒いた。灰の効果は覿面で、みるみるうちに枯れ木は甦り、数え切れないほどの大きな花をつけた。そこに通りかかった大名がその花に感銘を受け、「G老夫婦」にこれまた金子を与えた。「G老夫婦」は、そのついでに仔犬の一件を大名に告げ口した。犬好きで知られる大名は、この話を聞いて怒髪を振り乱し、「NG老夫婦」を御縄にしてしまった。そして「G老夫婦」は、「NG老夫婦」の田地畑、家屋敷を全てせしめてしまったとさ》チャンチャン。 言うまでもないが『花咲か爺』はフィクションである。仮に『花咲か爺』が実話であったとしても、私の推論もそれはそれで成立するのである。一般に語られる『花咲か爺』と、私の『推論花咲か爺』と、読者諸賢はどちらに信憑性を見出すだろうか。世の中に数多蔓延る情報の中から真実を選び取るのは大変なことである。しかし、国民の大多数が永年に亘りその手間と努力を惜しみ、真実から目を背けてきたからこそ原発事故が起こったのである。今や国民総被曝国家となってしまったこの国において、「絆」などという甘ったるい言葉が、なんと虚しく響くことであろうか。「絆」で真実は見えない。真実を見極める土台となるものは「理」と「知」でしかありえないのだ。

寒中雑感

昔から年末だとか正月だとかいう事に何の感慨も無い。私にとっては万事これ平常なりである。年の瀬だ、新年だと無意味に浮き足立っている諸人に軽侮の眼差しを差し上げているくらいだ。したがって、年賀状は書かない。毎年律儀に送ってくださる方々には欠礼と言う他無いが、だからといって、おめでたいとも何とも思っていないのに「明けましておめでとう御座います」と言うことは私には出来ない。神様にも仏様にも世話になった事は無いし、世話になるつもりも無いので初詣なんてものにも行かない。齢16の或る日、柴又帝釈天に行ってきた友人から交通安全の御守りを貰った。その翌朝、私は車に轢かれた。全身包帯だらけの私を見舞いに来たその友人に「テメェこの野郎!なんだあの御守りは!このザマをよく見ろ!全然効き目がねぇじゃねぇか!」と毒突けば、「いやJ、それは誤解も甚だしいぞ。昨日俺がくれてやったあの御守りのお陰でな、お前は一命を取り留めたんだ。あの御守りが無ければ今頃お前は三途の川を渡ってるところだぞ。感謝したまえ」と返された。こういうのをポジティブシンキングと言うのでしょうか。この反駁を受けて私は、友人が将来大きく飛躍する人物であろう事を予見した。彼は現在、「青汁なんとか」なる、その辺に生えている雑草を搾っただけの苦くて如何にも効きそうな雑草飲料と、グルコサミンコンドロイチンを含んだ「ロイヤルグルコンスーパーV!」という、ゴミ箱から拾ってきた蟹の殻を砕いた大変体に良い粉を売って人々の健康増進に貢献し、インドネシアのお城に住んでいます。お手伝いさんが25人いるそうです。そして今年はあらゆる癌が立ち所に治ってしまうというとても酸っぱいジュースを売り出して人々を幸せにするんだと息巻いています。更に来年は、とても酸っぱいジュースを飲んですっかり癌が治ってしまった人々を不老長寿にしてあげる為の、ゾウガメの糞を海洋深層水に溶かした「タートルウォーターミラクルVX!」の開発を目指し、ゾウガメの糞集めにガラパゴス諸島へ飛ぶそうです。私が柴又帝釈天交通安全御守りもろとも轢傷した次年、別の知友が悪疾に罹り病床に臥した。長期に亘る入院治療を受けるも快方に向かわず、焦燥と失意が混濁した知友を見兼ねて、私は巣鴨の刺抜き地蔵に誘った。なんとか主治医の外出許可を取った友を御茶ノ水の病院まで迎えに行き、二人で巣鴨に出掛けた。老婆でごった返す参道を抜け、患部の痛みを和らげるらしい線香の煙を浴び参詣した後、小さな小さな御札の様な紙を買った。それは切手をもう少し縦長にしたくらいの薄紙に地蔵が描かれている物で、丸めて飲み込むと病や怪我が治るという触れ込みだった。地蔵通り商店街に在る古ぼけた喫茶店に入り、知友は悪疾が治るように、私は交通事故の後遺症状が軽減するように、二人目を見合わせながら薄いコーヒーでそれを飲んだ。友が疲れを訴えたので、帰りはタクシーで病院まで送り届けた。それから一月後、知友は呆気なく、さらりと死んだ。病身をおして、寒中わざわざ参詣に出向いたというのに、神様仏様は少情であった。それゆえ、病に患苦する知友を見放した神や仏に、私は一切世話にはならないのである。過日、前述の愚友が帰国した際に会ってこの話をしたところ、「そうか、昔の話とは言えそれは残念な事があったんだな。その時俺が今開発中のとても酸っぱいジュースがあればなあ」と予想通りに反応した。「よしっ!そういう人達の為にも商品化を急ごう!年内と言わず春までに発売するぞ!」 「別にそんなに急がなくてもいいんじゃないか?」 「何を言う!健康を願う全ての人々に救いの手を差し伸べるのが俺の社会的責務なんだ!違うか?」 「そりゃまた随分と大きく出たな」 「実はな、既に試作品は出来てるんだ。ほらっ!」 「なんか色が悪いな。変な色」 「色なんてのは後から着色料か何か入れりゃ赤でも青でも紫でもどうにでもなるんだよ。試作品なんだからそんなこと気にするな。それ、ちょっと一杯飲んでみれ、ほれほれ!」 「俺は癌じゃないから遠慮するよ」 「おい、お前どうやら怪しんでるな。このとても酸っぱいジュースはだよ、癌の人はすぐ治る。癌じゃない人は癌にならなくなる。そういうモンなんだよ。さっ、一杯御飲みよ」 「じゃ、ちょっとだけ、、、、、。うわっ!ひゃーっ!なんだこれ!梅干の百万倍くらい酸っぱいな!酸っぱくて酸っぱくて涙がでるな」 「どうだ、ビックリしたか。その尋常ならざる酸味が有効成分なんだよ。その酸っぱさでな、癌なんてみんな吹っ飛んじまうんだよ」 「しかしこれ何の実の果汁なんだ?」 「俺もなんだか良くわかんないんだけどな、奄美大島に行くとその辺に生えてる木になってるんだよ。一年中。だからそれを採ってきて搾っただけ。添加物一切無し。しかも原価ゼロ。な、いいだろ!悪い話じゃねえだろ?」 「でも何でこれが癌に効くってわかったんだよ」 「それはな、これから知り合いの大学の先生に幾らか小遣いを渡してちょいと一筆理屈能書きを考えてもらうって訳よ」 「それってちょっとおかしくねえか。順序が逆だろ」 「いやいや効果は確かなんだよ。奄美でこの実を発見した時にな、近くにぐったりと生気の抜けた野良猫が居たんだ。で、その野良猫を取っ捕まえてこれを無理矢理飲ましたら、これがもう効いたのなんのって、今の今までぐったりしてた野良猫が、飲んだ瞬間雄叫びを上げて走り出したんだよ。俺はあの時確信をもったね。これは絶対癌に効くってな」 「、、、、、あのな、これだけ酸っぱいジュースを無理矢理飲ませりゃな、アフリカ象だってゴジラだった走りだすぞ!」 「ま、兎にも角にもお前はもう癌にはならないね。俺に感謝して安心しろ」 「癌にならなくても、酸っぱすぎて胃に穴が開きそうだよ」 「で、次はタートルウォーターミラクルVX!の開発だ」 「その話も前に聞いたよ。しかしどうしてゾウガメの糞と海洋深層水なんだ?スッポンだって効くのは生き血だろ?」 「お前バカだな。生き血を抜くには殺さなきゃならないだろ。ゾウガメってのは捕まえたり殺したりしちゃ駄目なんだよ。まあ天然記念物ってやつだ。あんな物を捕まえてるところを見つかったらお縄だね。だから糞でいいんだよ糞で。生き血だろうが糞だろうがゾウガメの体から出て来るんだから似た様なモンだ。それにこれまた原価ゼロ」 「お前はホントに長生きするよ。俺が保証する」 「何言ってんだ。お前だって長生きするぞ!さっき酸っぱいジュース飲んだんだから少なくとも癌にはならない」 「そうかそうか、感謝感激雨霰だ」 「タートルウォーターミラクルVX!もなるべく急いで作るからさ。またお前に一番先に飲ましてやるよ」 「俺はゾウガメの糞を飲んでまで生きたくないよ」 「お前は理屈をこねる割に解ってねえな。いいか、健康や命ってのは何よりも大切なもんなんだよ!死んじまったらお前の好きな酒もタバコもやれねんだぞ!」 「ははっ!御見逸れ致しました」 「わかりゃいんだよわかりゃ。じゃあ秋までにはタートルウォーターミラクルVX!持ってくるからな!」 「、、、、、、、、」 

均質化なる戦慄

若者の自動車離れとやらが叫ばれて久しい。確かに、若年層の著しい低所得化が加速度的に進みつつある現在、自動車にまつわる維持費は重い負担であることは間違い無いだろうし、それがその一因であると言えない事も無い。しかし、私の身近に居る若者達を観ていると、携帯やパソコンといった、私が若い頃には考えられなかった生活コストを支払いながらも、本当に欲しいものはきちんと購入している。それがたとえ奢侈品であっても頑張って購うのである。であるなら、若者の自動車離れの主たる要因は経済的事情だけでは無い筈だ。その主たる要因を端的に述べれば、それは自動車という工業製品のコモディティ化に他ならない。コモディティ化の意味について存知しない読者の為、以下にウィキペデイアから引用しておく。『コモディティ(英:commodity)化は、市場に流通している商品がメーカーごとの個性を失い、消費者にとっては何処のメーカーの品を購入しても大差ない状態のことである。なお英語の「commodity」は日用品程度の意味しかない。これらには、幾つかの要因(後述)があるが、消費者にとっては商品選択の基準が販売価格(市場価格)の違いしかないことから市場原理の常としてメーカー側は「より安い商品」を投入するしかなくなり、結果的にそれら製品カテゴリーに属する製品の値段が安くなる傾向があり、反面企業にしてみれば価格競争で安く商品を提供せざるを得ず、結果的に儲け幅(商品として扱ううまみ)が減ることもあり、企業収益を圧迫する傾向がある。こういったコモディティ化回避の企業戦略としては、付加価値の付与による多機能化など差別化戦略がある訳だが、過剰に機能を追加しても過剰性能で消費者にアピールできない場合もあり、ブランドイメージ戦略も各々のメーカーが同程度の力を注いでいる場合は並列化するまでの時間稼ぎにしかならず、差別化戦略にも限界が存在する』ということである。「最近の車って家電製品みたいだね」と言われるのは、まさにこのコモディティ化そのものを指しているのだ。コモディティ化は、コモディティ(日用品)という言葉が示す通り、単価の安い使い捨て商品から始まる。それが、耐久消費財である自動車にまで波及してきた現状は何を意味するのか。それは究極、或いは極限まで荒みきり、その獰猛性を裸出した凄惨な資本主義社会の到来を告げているのである。たとえば貴方が小型自動車を購入する場合、ビッツであろうとフィットであろうとパッソであろうとスウィフトであろうと、結局のところ自動車のとしての性能差は、取るに足らない程度の些細なものであるわけだから、その選択基準は、色や内装そして価格といった、自動車たる機械の本質とはおよそ懸け離れた要素に収斂して行かざるを得ない。車好きの視点で見れば、これら大衆車にも僅かな差異、優劣はあろう。しかし、そんな瑣末な違いは一般の者にとってはどうでもいい事であり、選択基準足り得ない。そんな些少なことはどうでもいいから一万円でも安くしてくれ、というわけである。一見コモディティ化とは無縁に見える高級車も例外ではない。私があらゆる現行モデルの中で、その造り、性能、質感の何れをとってもこれは間違いなく本物の高級車だと認めるのは、トヨタのセンチュリーのみである。センチュリーの他は、それが如何に高額の超高級スポーツカーであってもコモディティ化している。フェラーリの現行モデルなど、我々プロの職人が見れば、呆れるばかりの粗雑な造り、構造の部位が数限りなくある。現在のフェラーリは既に単なるブランドになりさがっており、フェラーリの現行モデルの購買層は自動車を買っているのではなく、フェラーリというブランドに大枚をはたいているに過ぎない。フェラーリモデナは、フェラーリのエンブレムが貼り付いているから、フェラーリなのであって、モデナにダイハツのエンブレムが貼り付いていたら絶対に許せないのだ。馬鹿馬鹿しいとしか言いようが無い。だた、引用したウィキペディアの説明にも記述があるように、このブランド、ブランディングという抗コモディティ化とも思える泡銭を産むビジネス手法も、実はコモディティ化の大波に飲み込まれてしまうのである。コモディティ化してしまった自動車は、個性が無く、魅力が無く、面白くない。それは言ってみれば石鹸やトイレットペーパーと同質の商品になってしまった事であり、手が洗えて尻が拭ければそれで良いということなのである。而して、真の車好きは魅力溢れるビンテージカーに走る。ビンテージカーの、あの工芸品とも言える凝った造りの部品群。そしてその部品を瞼に映し、指先で触れるたびに、それを拵えた職人の矜持を感じる愉しみ。更には、時間という厳しい試練に耐え忍び、生き残ってきた本物だけが持ちうるその圧倒的な存在感に、敬意にも似た感情を覚えるのだ。これは決して安直な懐古趣味ではあり得ず、現状に対するアンチテーゼとして心中に存し、カタルシスとして作用するものなのである。コモディティ化は自動車業界より遥か以前から、食品、外食産業で始まっていた。牛丼、ファミレス、居酒屋といった外食チェーンにおいて日々繰り返されている激烈な価格の叩き合いを目の当たりにすれば納得できよう。何処の外食チェーンに行っても出てくる料理は化学調味料塗れの冷凍食品ばかり。客もそれを百も承知で行くわけであるから、安いに越したことは無い。もう既に外食チェーンという存在は、酒や料理を提供することが主なる業務ではなく、その本質は単に場所を提供することに変質しているのだ。これは、ペットボトルビジネスと同位である。ペットボトル飲料は、実は中身である飲料を売りたいわけでは全く無く、あれはペットボトルを買ってもらいたいだけなのだ。ただ、空のペットボトルを買ってくれる客はいないであろうから、仕方なく何らかの飲料を入れる。少しでもペットボトルが売れるように中身を工夫する。そういうビジネスである。外食チェーンも全く同様になっている。衣料品業界のコモディティ化も激しい。今や高級ブランドの衣料品でさえ、その殆どが中国製だ。コモディティ化が進んだ結果、ブルックスブラザースのポロシャツとユニクロのポロシャツの品質は全く変わらなくなった。むしろユニクロの方が明らかに品質が良い物さえある。数年前、私が、ある知人からプレゼントされたブルックスブラザースのレザーグローブはイタリア製であったが、一ヶ月で破けた。流石イタリア製だと一笑に付したが、その後、別の知人から頂いたユニクロのグローブは数年の時を経てもなんとも無い。要するに、現在のブルックスブラザースは、コモディティ化にすら付いて行けなくなっているのである。コモディティ化の波は、恐ろしいことに人間そのものまでも飲み込もうとしている。いや、既に飲み込まれてしまっていると言ってもいいだろう。現代社会においては、就職や経済的将来性という視座で見れば、大学を卒業することに意味が無くなりつつある。もう少し精確に述べれば、東大、京大、慶応(経済)、早稲田(政経、理工)以外の大学を卒業しても就職に有利性が発することは殆ど無い。何故なら、労働者の労働力のコモディティ化が進んでしまった結果、極めて単純化して言えば、中途半端な能力の労働者は、企業から全く必要とされなくなったのである。苛烈を極める現在の市場競争の中で足掻く企業には新入社員を丁寧に教育し育てる時間的、コスト的有余は無い。企業が欲しいのは即戦力のみだ。組織体系もどんどん変わっている。自社商品がコモディティ化している企業は従来型のヒエラルキーを保つことは出来ない。前述した東大、京大、慶応、早稲田、などを出た小数のエリートが頭脳となり、それ以下の全ての労働者はマニュアル化された、いわば誰でも出来る単純労働に従じるというひょうたん型の組織体系をなす。なんの技術も身に付かない単純労働を続けていても、収入は一向に上がらず、年齢だけを重ねてゆく。就職の際に少しでも有利になればと考えて頑張ったTOEICも全くの無意味だ。日本人より低賃金で働く英語ぺらぺらの中国人は無尽蔵に居る。そう、労働力のコモディティ化により、名の通った企業でも外国人との就職戦争が始まっている。このままであれば、人間の生活全てがコモディティ化される日もそう遠くはないだろう。ホンの一部のエリートを除く全ての人が、朝起きると山崎パンを食べ、ユニクロの服を着て仕事に出掛ける。誰でも出来る単純労働をし、吉野家に行列して昼食の牛丼を食べる。午後も単純労働を繰り返し、帰路の途中コンビニで弁当を買って夕食とする。発泡酒を片手に「家政婦のミタ」を観る。仕事の後、たまに同僚と呑みに行くのは人数が多ければ和民、少数であればお疲れ様セット1000円の立ち飲み屋と決まっている。これが一億総コモディティ化である。既にそうなっているではないか、という声が聞こえてきそうだ。その通り、日本はそうなっている。後はどれだけコモディティ化人が増えるかだけの問題である。人間がコモディティ化し均質化することはなんたる恐怖であろうか。人間のコモディティ化から逃れるには、中国製品を買わないこと、コモディティ商品を生産している企業に就職しないこと、牛丼を食べないこと、ペットボトル飲料を買わないこと、テレビを見ないこと、新聞を読まないことから始めるのがよかろう。こんなことを言うと、「え、なんで?ユニクロの服いいじゃん、吉野家だって旨いじゃん、コンビニだって便利だよ、家政婦のミタなんて凄く面白かったよ」という反駁があろう。この反駁に、私は返す言葉を知らない。宛がい扶持の低劣な幸福感に甘んじ,それを十全としている人間に、どんなに大きな姿見を与えようが、己の醜行は映らないのだ。

悪事無くして事業は拡大ならず

連年招待状を拝戴しながら、一度も会場に足を運んだ事が無い催事がある。東京モーターショーだ。もとより、祭りや催事を厭悪している私ではあるが、それに加えて、新しいものに全く興味が無いということも大きな因由と言える。20年程前からであろうか、自動車であれ他の工業製品であれ、大規模製造業に属する大企業が生産する製品の殆どは、多大な社会的責任を負う大企業にあるまじき、「ただ売れれば良い」 「ただ儲かれば良い」という近視眼的営利に溺没した土左衛門の如きものばかりで、露ほどの魅力も感ずることはない。至当であろう。現在の大メーカーは、自らが世に送り出した製品を消費者に末永く大切に使ってもらうという、モノ造りに携わる者が本来持って然るべき精神を完全に消滅せしめている。大メーカーは、消費者に新製品を購わせ、あとは如何に早く廃棄させ、買い替えサイクルを短縮させるかに悪知恵を絞るばかりだ。こんなことでは製造現場で腕を揮う職人の矜持など保てるはずも無く、企画立案者にしても己の生み出した製品に営利以外の意義素を見出すことすら困難であろう。それもこれも、グローバリゼーションなる似非看板を背負ってはいるが、その正体は他者利益強奪型アメリカナイゼーションの根幹である市場原理主義とやらの所行に他ならない。工業製品だけではない。外食産業界のとある経営者は、「美味しいものが売れるのではない。売れるものが美味しいのだ」と全く悪びれる様子も無く言い放ったそうな。なるほど、この経営者に代表される、自職に関する倫理観や自負心を微塵も持ち合わせていないような人物が蔓延る現実を直視すれば、本当に良い車、永きに亘って多くの人に愛される魅力的な車など出来よう筈もないことが容易に理解できるのではなかろうか。ある自動車メーカーは、下請け業者に極限までのコストカットを求め、限界を超えた納入価格を強要する。下請け企業の社長は悩み苦しんだ挙句、自尽して果てる。メーカーの担当者は、下請け社長の失命を前にしても眉毛一つ動かすことも無く、代わりの下請け業者に仕事を移すのみである。結果、メーカーの内部留保は膨張を続ける。人命を犠牲にしてでもコストカットを要求する、その鉄面皮とも言える飽くなき営利追及は留まる所を知らない。いかに法律的には合法組織であっても、この様な大企業の横暴野蛮極まりない振る舞いはマフィアと同断だろう。現代では当然のビジネス手法となっているが、後進国との通貨格差を奇貨として悪用する海外生産の実態も凄まじいものだ。驚くなかれ、スニーカーブランドのナイキが生産委託するインドネシア工場における末端労働者の日収は1.25ドル(なんと約100円!)である。いくら後進国といえども、日給100円とは信じられようか。まともな労働法も整備されていない後進国に、市場原理主義に毒された先進国大企業が進出すれば、こうなるのは当然の帰結ではないか。有力企業の海外進出は現地の雇用創出の源泉であるなどと尤もらしい事が言われるが、そんなものは見え透いた口実であり、その実態は奴隷労働の温床なのだ。昔から、東京のカフェでコーヒーを一杯飲むとブラジルのコーヒー農園で働く奴隷が一人増えると言われてきた。まさに現代は、この悪しき産業構造が全世界的に波及し、なおかつ正当化されてしまったのである。東京でナイキのスニーカーを一足買えば、少なく見積もってもインドネシアの奴隷労働者が3人は増えるだろう。中国製の服を買えば中国人奴隷労働者が一人増えるだろう。ベトナムでタイでインドでカンボジアで全く同様の事態が広がりつつある現実を正視すべきだ。しかし、こういったマフィア大企業商法にもどうすることも出来ない欠点がある。それは前述した様に、出来上がった製品にモノとしての魅力が全く無いのである。マーケットリサーチを最重視し、必要以上に消費者の顔色を窺い、媚び諂って造られた現行車は、開発者が懸命に熱弁を振るおうと、私の目にはユニクロの商品と同程度にしか映らない。そんなユニクロレベルの安物を並べ立てているだけの東京モーターショーなど誰が行くものか。いや、高級車も並んでいるではないか、と言われる向きもあろう。黙りなさい、私はプロなんである。時価数千万円のイタリア製スーパーカーの作りや精度が国産の軽自動車以下であることも、一千万円オーバーの国産高級車ブランドが、実は100万円台の大衆車用部品を多数流用していることも知っている。東京モーターショーの「公称」観客動員数は、自動車各社と電通の担当者が東奔西走し、死に物狂いでタダ券をバラマキまくって作り上げられた数字であって、自らチケットを購買し、自発的に来場している者など、タダ券を入手する術を知らないホンの一部のニューモデルマニアにすぎないのである。更に、私があの手のモーターショーで吐き気を催すほど嫌忌するのは、イベントコンパニオンと呼ぶのだろうか、あの毎度おなじみの、女を侍らすという前時代的で品性下劣な演出だ。何故モーターショーに女を侍らす必要があるのか。何故展示車に女をしな垂れかからせる必要があるのか。しかもそのコンパニオンとやらは、今にもパンツが見えそうな短いスカートを穿き、新大久保の立ちんぼの様な、性根が腐り、堕ち切った視線を観客に送る。バカじゃないだろうか。催事では、とにかく肌を露出させた若い女を侍らせば、場が華やかになるという猥褻で下品で貧困な発想から抜け出せないのだ。結局、自動車メーカー幹部の品性やメンタリティは未だにこの程度の、時代錯誤も甚だしい低次元で下賤なものでしかない。そんなに女が好きならば、今すぐにキャバクラか淫売屋でも行けばよいではないか。まさに閉口頓首、辟易とする。私がこんなことを言うと、「もしかして、、、、、」と良からぬ事を考える者もあろうが、私は断じてホモではない。オカマバーは好きであるが断じてホモではない。ノンケである。何故私はオカマバーが好きなのか。それは、オカマは知的水準が高いからである。オカマバーに行ったことがない者は知る由も無いだろうが、彼ら社会的マイノリティーの思考は深い。被抑圧者特有の鋭敏な視座、思考の深さとインテリジェンスを併せ持ち、しかも決して卑屈になることなく、あらゆる悲哀を発笑に転換する機知に富んだ切り返しを身に付けている。オカマ話芸の意外な切り口と、辛辣さと口の悪さは、この私と互角に渡り合うレベルのものであり、とどめに、日陰者ならではの妙な迫力を伴う説得力も持ち合わせている。私は鋭利な刃物を更に研ぐが如く、即時的論理構築能力を鍛えんが為にオカマバーに通うのである。さて本題に戻るが、自動車メーカーは「若者の自動車離れ」などと見当外れな事を言って嘆いているが、現実を知らないバカの極みである。クルマが大好きな若者はまだまだ沢山いる。メーカーがつまらぬクルマばかり造るから、現行車に興味が失せているだけだ。トヨタが「86」というネーミングでFRのニューモデルを出すそうである。過去の名車のネーミングを再利用するようでは、既にトヨタの発想力が硬直化し、腐乱ていることを臆面も無く晒しているのと同篇と言えよう。水面に屍が浮いてもコストカットの手を緩めない様なマフィアの如く冷酷非情な組織に、客が心から満足するようなクルマを造ることは絶対に出来ない。東京モーターショーなどという馬鹿げた下らぬ、女侍らし系お祭り騒ぎを何度繰り返そうが、棄擲してしまった、モノづくりの原点に立ち返るという可逆反応は、もはや永遠に観られないであろう。さあ、そろそろ私も終業時刻が近付いてきました。今宵は行きつけの洋食屋で腹を満たした後、オカマの鈴香ママに論戦を挑む所存です。激しい夜になりそうです。

 

Bな国ニッポン!

B層。この素晴らしき単語が世に出回ってからどれほどの歳月を経たであろうか。当ブログの読者諸賢であれば、この単語の示す意味を知らぬ人は居ないと思うが、私がここでいちいち説明するのも面倒なので、手抜きと自覚しつつも念の為ウィキから引用しておく。『B層(―そう)とは、郵政民営化の広報企画にあたって小泉政権の主な支持基盤として想定された、「具体的なことはよくわからないが小泉純一郎のキャラクターを支持する層」のこと。広義には政策よりもイメージで投票を行うなどポピュリズム政治に吸引される層を意味する 2005年小泉内閣の進める郵政民営化政策に関する宣伝企画の立案を内閣府から受注した広告会社スリード」が、小泉政権の主な支持基盤として想定した概念である。その後、ポピュリズムに動員される国民層を揶揄する意味合いで使われるようになった』という事である。なんと見事に的を射た分析と命名だろう。私はこのB層という単語とその意味を知った時、暫しの間笑いが止まらなかった。そして、では日本社会に跳梁跋扈するB層人とは、このウィキぺディアの解説より更に具体的に如何なる人たちなのか、自らの日常生活の中で調査したのである。以下にその具体例を述べてゆこう。まずは近時の例を挙げよう。Bな人その1。3.11の震災後思わず節電してしまった人。ただ、これに会社ぐるみでの節電などは含まれない。組織的意思と個人的意思は別だからである。Bな人とは、東電や政府が発する情報を鵜呑みにし、本気で節電してしまった人なのだ。(ヤラセ停電節電に関しては、当ブログhttp://www.ontario-ss.com/blog/2011/06/を参照) これらの人たちは批判的精神と自己判断能力が完全に欠落しており、B層の典型と言える。Bな人その2。これもやはり震災を機に、「やっぱり太陽光発電だ!」と思ってしまった人。これはエントロピー増大の法則やエネルギー保存の法則という最も基礎的な物理原則を全く理解できていない人達である。そもそも再生可能エネルギーなど地球上に存在しない事は言うまでもないだろう。再生可能エネルギーなる言葉は、政治家と官僚、体制べったりの悪徳大企業が国民を欺くために作り出した荒唐無稽な妄言としか言い様がなく、ある日突然「やっぱり地球の形状は球体ではなく立方体です」と喧伝しているに等しい。ソーラーパネルを置けば、日陰が出来るという極めて単純な事も想像出来ないのである。Bな人その3。これもまたエネルギー絡みであるが、ハイブリッドカーや電気自動車を買ってしまった人。この場合も、ハイブリッドカーや電気自動車のメカニズムそのものに興味を抱いて買った人や、インチキとは判っていても社会的立場上似非エコを標榜しなければならない人は別だ。Bな人とはこういった自動車を本当にエコだと考えて乗っている人なのだ。電力というものは、何らかのエネルギー源を燃焼、或いは運動(運動も燃焼の一種であるが)させなければ発生出来ない二次的エネルギーであり、近代社会において利用されてきたエネルギーの中で最も効率の悪いエネルギーであることは、どこからどう見ても疑いようの無い事実だろう。ところがBな人は、自動車メーカーの巧妙な宣伝に乗せられてディーラーのショールームに出掛け、ハイブリッドカーや電気自動車の新車を前にすると、前述した科学的常識など何処へやら、契約書にサインしてしまうのだ。Bな人その4。最近スティーブジョブズの伝記を買って読んでしまった人。もうなんと申しましょうか、ミーハーと言おうか、浅はかと言おうか、浮薄と言おうか。この手合は、現代に語り継がれる坂本竜馬や戦国武将の伝記伝説を事実の如く信じ込んでいるおめでたい者と、ほぼ同列の心的傾向にある。代表的な名を挙げれば、司馬遼太郎や武田鉄矢といったところであろうか。歴史上、盛名を馳せた人才について、後年書かれた記録や書物というものは、喩え如何に高名な識者が著そうが、その殆どが書き手の主観に基づく思い込みや想像(創造とも言える)の産物であり、インチキ、ウソ、デタラメを並べ立てた完全なファンタジーとして棄去せざるをえないのは至極当然であろう。「尊敬する人物は?」と問われて、真面目な顔で「織田信長です」と答える様な人は、既に全てが終了しており、ロボトミー手術でも受けない限りB層から脱却する事は不可能なのである。Bな人その5。マイケルサンデルの著作を買って読んでしまった人。スティーブジョブズの伝記を読んでしまった人よりは幾分マシかと感ずるが、これもやはりB層に属する。マイケルサンデルの活動は到底哲学者などと言えるものではなく、あれは『哲学的』テーマを低レベルで論議する、来場者参加型トークショーレベルの単なるエンターテイメントなのだ。あんなものを聴いたり読んだりして哲学を解ったつもりになることほど恐ろしい事は無い。哲学とは社会にとって何の益も齎さない事は勿論、でありながら超の上に超が付くほど難解極まる学問であって、常人の及ぶところではない。たった一つの哲学用語を巡って、様々な学者の見解が百出する奇奇怪怪なる世界なのである。ソクラテスの時代から始まる無数の哲学専門用語を極力精確に領会体得し、哲学特有の論理構築技術を無尽に揮い、狂界を彷徨いながら生涯を賭けて真理に近づかんとする数少ない本物の哲学者に比して、マイケルサンデルの議論、著作はあまりに軽い。それはせいぜい漫才、漫談の類といったところか。いや、優れた漫才や漫談であれば、マイケルサンデルより余程真理に近付いているのかもしれない。しかしながら、マイケルサンデルの著作を嬉々として熟読してしまった者は、その知的好奇心、或いは知的向上心を保持しているという点において、ロボトミー手術勧奨型スティーブジョブズ伝記読者より救いがある。ロボトミー手術とまではいかなくとも、脳に一定度の刺激(かなり強力な電気的刺激と予察される)を与えれば、B層からの脱離は十分に可能である。しかしまあ書店に行けば上記2著が平積みになっているわけであるから、間違いなく売れているのだろう。とてもではないが、私にはこの2著を自分の本棚に並べる勇気は無い。Bな人その6。プロジェクトXを観て感動してしまった人。これは危ない。かなり深刻な、B層の一翼を担うレギュラー陣だ。テレビ番組とは、ニュース番組であろうと報道番組であろうとドキュメンタリー番組であろうと総じて、画面に映り出る全ての出演者を『役者』とする完全な『お芝居』なのだ。番組制作会社は、予め用意された企画意図や台本に沿うように事実を歪曲し、改竄、捏造しながら無理往生とも言える手段を講じ、その企図を達する事が使命なのである。プロジェクトXにしてもそれは全く同様で、あれは実在の人物をモデルにした完全なフィクショナルサクセスストーリーであって、その『作品』は事実とは懸け離れているにもかかわらず、視聴者に対して事実と虚構を混同させる手練手管の限りを尽くして作り上げられた安手の『ドラマ』に過ぎない。そしてその本質は、シルベスタースタローンやスティーブンセガール、チャックノリスといったB級オヤジアクション映画と、さして変わることは無いのである。Bな人その7。大晦日には必ず紅白を観ている人。ヤバイ。極めて重度のB層である。紅白の司会者の、あの小恥ずかしくも異様に晴れがましい所作や、出演者全員の著しく不自然で不気味な笑顔。それは悉皆NHK特有の、気色悪いほどに幼稚な演出の成果であり、その表出なのであろうが、あのテレビの画面から放たれる、えも言われぬ気持ち悪さに、何ら違和感を覚えることなく受容出来る無神経性及び無思考性がB層に突出する性向と言えるのではなかろうか。紅白→行く年来る年コースを漫然と毎歳繰り返しているBな人の目には、この国の現状は決して映らないのである。大晦日の夜、家族で炬燵に入り所在無く紅白を観続けるその光景を想察するに、私は、自らの靭性によって社会を変革することをあっさりと絶念し、その結果としてひたすらの国家への隷属を唯一の生存手段として生きるBな人達に対し、嘆息を伴う限りなき憐憫の情を覚えると同時に、その背後に絶望を観てしまう。Bな人その8。ガンマGTPや尿酸値といった健康診断の結果を必要以上に気にしている人。これは比較的軽度のB層人である。誰しも、病院であれこれ体を調べられ、その結果を盾にこのままでは肝硬変になるぞ、痛風になるぞと脅されれば流石に心配になるのが人情というものだ。しかしその瞬間よく考えなければならない。戦後、日本人の健康状態は飛躍的に向上し、寿命も延びた。健康状態が芳しいということは、病気の人が少ないということである。病気の人が少ないと病院は儲からない。厚生労働省も予算がとれない。困った厚生労働省と病院は、病気でもなんでもない健康な人達を捕まえて無理矢理検査をさせた挙句、自分たちが勝手にでっち上げた健康基準から少しでも外れた結果が出るとあーでもないこーでもないと因縁をつけ、やれ再検査だ、やれ精密検査だと何度も何度も執拗に金を毟り取る。私の周囲には信じられない尿酸値を叩き出しながらも痛風なんぞ何処吹く風、平然とビールをがぶ飲みし、至って健康な人物が何人もいるし、耳を疑いたくなるようなガンマGTPを記録しながら、甚だ健やかに焼酎をあおり続ける猛者は幾らでもいる。尿酸値やガンマGTPという、厚生労働省と医療界が結託し、金欲しさからひり出したガセデータに一喜一憂することの愚かしさに気づきさえすれば、その人はB層から脱することが出来る。更にその時、個人の肉体の健康状態という超トップシークレットである筈の個人情報が、会社や病院が問答無用に押付ける健康診断によって盗み取られていることにも注目しなければならない。そもそも、普段から自分の体調にある程度敏感になっていれば、杓子定規な健康診断など行かなくても比較的早い段階でその異変に気づくであろうし、異変に気づいたら、その時点で病院に行けば良いのである。それで手遅れであったなら、それはそれで仕方が無いし、厚生労働省に食い物にされ、医療界のモルモットにされるより、遥かに健全な人生ではないだろうか。Bな人その9。妻が自分の健康状態を心配してくれる事に一抹の喜びを感じている人。結論を先んずれば、妻が貴方の体を案じているのは、断じて貴方を心配しているのではなく、貴方が働けなくなる事によって収入が絶たれるのを恐れているのである。ウソだと思うなら、今、貴方の近くで夕食後の片付けをしている妻の目をじっと見つめてみるがいい。その妻の目が、僅かにでも泳いだり、狼狽の色を見せたのであるならば、それは私の指摘の正当性を体現したことに他ならない。妻は貴方が死んでしまう事は一向に構わない。むしろそれを望みながらほくそ笑んでいるかもしれない。貴方がポクリと死ねば、しっかりかけていた生命保険金が入る、企業年金も入る、その上遺族年金も入る、更に貴方の献身的な労働によって蓄えられた幾ばくかの預貯金、資産も全て独占できる。それらを合わせて上手く運用すれば、貴方亡き後の妻の人生は順風満帆、安泰なのだ。妻にとって最も困るのは、貴方が中途半端な慢性病に罹患し、元気でもなく死ぬでもなく、会社を首になり、働くに働けない状態で命にしがみ付き、フラフラしながらしぶとく生き続けるという凄惨な事態であろう。妻はそれを極度に恐れるが為に、貴方の健康を気遣うのである。いざとなれば、即座に出奔可能な準備を、妻は常に調えている。夫婦愛や家族愛などどいう砂上の楼閣を頭から信じてノホホンと生きている人は、やはりBな人と言わざるをえない。Bな人その10。健康食品が好きな人。まずもう、「健康食品」という言葉自体がいかにも官僚崩れが捻出した不可解な言葉であることに気づかねばならない。「健康食品」なるものが存在するのであれば、その他の食品は全て「不健康食品」となってしまう。この論理を否定するなら、米も小麦粉も大豆も、いや水でさえ「健康食品」として指定されなければおかしい。「健康食品」とは、厚生労働省がお墨付きを与え、日本健康食品協会なる業界団体が管理する、特段何の効果も発揮することの無い単なる加工食品である。因みに、トクホと言われる特定保健用食品も大同小異だ。言わずもがな、この日本健康食品協会は厚生労働省の天下り団体だ。厚生労働省と日本健康食品協会との間でどのような金が流れているのか、読者諸賢であれば容易に察することが出来るのではないだろうか。健康食品のルーツは、食品を加工する際に止むを得ず生まれる産業廃棄物の有効活用であることを知る人は少ない。こんなモノに高い金を払って健康が保たれていると思っている人は、残念だがベタベタのB層人なのです。B層が大半を占めるこの軽佻浮薄な社会の将来を、私は常に暗澹たる思いで見つめています。しかしながら、最後に思い切って告白致しますと、実のところ私は、スティーブンセガールとチャックノリスの大ファンなのです。かたじけない。

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2005年小泉内閣の進める郵政民営化政策に関する宣伝企画の立案を内閣府から受注した広告会社スリード」が、小泉政権の主な支持基盤として想定した概念である。その後、ポピュリズムに動員される国民層を揶揄する意味合いで使われるようになった[要出典]

なお、スリードの代表を、時の特命担当大臣経済財政政策担当金融担当郵政民営化担当)竹中平蔵に引き合わせたのは秘書官・岸博幸だという[要出典]

スリード社の企画書では国民を「構造改革に肯定的か否か」を横軸、「IQ軸(EQITQを含む独自の概念とされる)」を縦軸として分類し、「IQ」が比較的低くかつ構造改革に中立ないし肯定的な層を「B層」とした。主に主婦や教育レベルの低い若年層、高齢者層を指すものとされる。

上記の企画書がネット等を通じて公に流布されたため、資料中に使用された「IQ」の語や露骨なマーケティング戦略が物議を醸すところとなり、国会でも取り上げられた(後述)。 

 

乞食現る

疎遠になっていた愚友から電話があった。「よお、久し振りだな」 「そうだな、久し振りだ。なんか用か」 「なんだよ、久方振りに電話したってのに、すげない返事だな」 「俺は何時だってすげない人間だ」 「そうだな、お前は冷たい奴だもんな」 「その通り、とても冷たいね」 「まあ、なんだ、最近なにしてる?」 「決まってるだろう。働いてるよ」 「あの変なチッコイ車の修理か?」 「そうだよ、悪いか?それしか出来ないんだから仕方ないだろう。お前みたいに目端が利く性分じゃねえんだ。お前は相変わらずか?」 「まあな」 「あの詐欺みたいな商売まだやってんのか?」 「おい、お前人聞きの悪い事言うなよ。俺の仕事のどこが詐欺なんだよ。人々を幸せな世界に誘う神聖な仕事なんだぞ。愛のキューピット業と言って欲しいね」 「何とでも好きに言えよ。そう言えば6リッターのAMGはどうした?まだ乗ってんのか?」 「ああ、あれな。首都高でダンプのケツに突っ込んで、とうの昔にお釈迦になっちまったよ。でもな、あれ、つまんねえ車だったけど安全性だけは凄い車だぞ。かなりのスピードで突っ込んだんだけど、俺かすり傷一つなかったからな。メルセデスじゃなかったら今頃俺の頭の上にはワッカが付いてただろうな」 「もううっすらワッカが見えてるよ。それで今何乗ってるんだ?」 「ダッジバイパー」 「奢侈な野郎だ」 「シャシってなんだ?」 「お前は相も変わらずモノを知らねえな。贅沢って意味だよ贅沢!たまには本の一冊も読めよ」 「本なんか幾ら読んだって銭にならねえから読まねえよ。それよりなんだ!テメエこそ気取った言葉を使いやがって。素直に贅沢って言やあいいじゃねえか贅沢って」 「しかしまあ、AMGをぶっ潰してダッジバイパーに乗り換えるって、随分と景気の好い話だな。お前のそのお見合いパーティー企画業ってのはよっぽど儲かるんだな」 「なんか棘のある言い方だな。俺が悪い事して稼いでるみたいじゃねえか」 「そうだよ、だから俺は詐欺みたいなもんだって言ったんだ」 「あっ、お前また詐欺って言いやがったな!もう一度言ったら承知しねえぞ!」 「上等だ。大抵の人間はな、後ろ暗い、痛い所を衝かれると己を正当化しようと必死になるんだな。お前もまだまだ半ちく野郎だ。俺なんかな、相手に何を言われようと全て認めてしまうんだな。その通りですってな。だから他人に何を言われても動じないでいられるんだ」 「また何時もの小理屈が始まったな。つまらねえ野郎だ」 「そうだ。俺はつまらない人間だ」 「あー憎たらしい!」 「仰せの通り。俺は憎憎しい人間だね」 「くそったれ!気に入らねえが今日のところは勘弁してやろう」 「勘弁して頂かなくて結構」 「勝手にしろ!ところでな、今度年収2000万以上の男を集めてな、それに群がってくる女とのお見合いパーティーをやるんだよ」 「ほーう」 「それでな、まあとにかく年収2000万以上だからさ、BGMに生の弦楽四重奏かなんか入れたいわけよ。クラシックってやつな。そこでだ、お前にその弦楽四重奏団を紹介して欲しいんだよ。お前そういうの知ってるだろ?弦楽四重奏できる奴ら」 「知ってるよ」 「じゃ、紹介してくれよ」 「ヤダね」  「即答でNGはねーだろ。ホントテメエは冷てえ奴だな」 「俺が冷たいって事はさっき既に認めてるだろう。何度も言わなくても分かってるよ」 「はいはい、わかりましたよ。まあ、四の五の言わずに兎に角紹介しろっ、弦楽四重奏をさ」 「詐欺の片棒担ぐのは御免蒙るね」 「だから詐欺じゃねえって!こりゃあ歴としたビジネスなんだよ!」 「ビジネスねえ。大したもんだよ蛙の小便。じゃあな、紹介しても良いが条件がある」 「金か?金なら少ししか出せねえぞ。お前にがっぽり取られたら俺の儲けが少なくなっちまうからな」 「バカ野郎。お前みたいな吝嗇から金を取ろうなんて考えてねえよ」 「じゃあ何だ。何が条件なんだ?」 「、、、、、、、俺をそのお見合いパーティーに参加させろ」 「おいおい、お前無茶言うなよ。俺の話聞いてなかったのか?年収2000万以上の男しか駄目なんだぞ。お前みたいな貧乏人無理に決まってるだろ!それにお前昔っからパーティー毛嫌いしてたじゃねえか!無理無理」 「見損なって貰っちゃあ困るぞ。俺が鼻の下伸ばして本気でお見合いしようとなんて思ってるわけねえだろ。俺はな、見合いなんてものをしなけりゃ女の一人も捕まえられない様な年収2000万以上のむくつけき男にだよ、どんな馬鹿面提げた女達がたかって来るのか見てみたいんだよ。向学の為にな。この目で」 「そりゃな、確かにお前の言うとおり面白えもんだよ。俺もな、一応司会者って立場で何時も現場に居るけどな、それはそれは腹抱えて笑いたくなるような事もしばしばだよ」 「それみろ、やっぱり面白えんじゃねえか。詐欺師の馬脚を露しやがったな!参画せんとの思い益々強くなりけり。参加させろ」 「うーん、困ったなあ。どう見てもお前が年収2000万以上の男というには無理がある。だいだいお前はその風情が貧乏臭えんだよ。なんて言うのかなあ、そこはかとない貧乏臭さが体に纏わりついているっつうのかな。しかしなあ、弦楽四重奏団を紹介してもらわなきゃマズイしなあ。あ、それにお前タキシードとか持ってんのか?」 「タキシードぐらい持ってるよ。昔浅草橋で買った赤いやつ」 「ホントにテメエは人を舐めてんな。赤のタキシードだと?そんなもん今時キャバクラの呼び込みだって着てねえよ。お前は高島忠夫か!このバカ!」 「まあさ、なりなんてどうでもいいじゃねえか。端っこの方で大人しくしてるからさ。参加させろよ」 「仕方ねえなあ、ホントに大人しくしてろよ。なんかちょっとでもやらかしたらつまみ出すからな!」 「はい、大人しくしています」 とまあ斯様な顛末の後、私は『年収2000万オーバージェントルマンVSそれに群がるフーリッシュレディのお見合いバトルパーティー』の末席を汚す事になったのである。端からタキシードなんぞ着込んで行くつもりはなく、私は銀座のザラで買った3000円位のポロシャツにマッコイズのジーンズ、それにミルリーフのスニーカーという恐ろしくラフな出で立ちで会場に向かった。ただ、いくらなんでもこのザマで年収2000万以上と言い張るには説得力に欠けると考えた私は、時計コレクターの金満友人からゴールドのパテックフィリップを無理矢理拝借し、ちゃっかり右手首に巻き付けていたのである。さて、会場である都内某ホテルに着くとその入り口で、「おいJ!ちょっと待て!お前どっかで着替えるんだろうな!まさかその恰好で入ろうったって俺が入れねえぞ!ドレスコードってもんを知らねえのか!」、と企画及び司会者である愚友から待ったがかかった。「まあ、待て待て。落ち着きたまえ。私の右手首を見たまえ、ほれ!」 「あ!パテック!スゲエ!お前こんなの持ってたの?」 「ふふふ、恥ずかしながら借り物です。でもさ、このカジュアルな服装にパテックってのがそれとなく年収2000万以上の雰囲気を醸し出してるだろ?」 「うむむ、そう言われてみればそう見えんこともないような気がするなあ」 「そうだろ?俺だってちゃあんと考えて来たんだ」 「そうか、じゃ、その借り物のパテックに免じて入場を許可する」 「偉そうな言い方しやがって。今日の弦楽四重奏は誰が呼んだと思ってるんだ!」 「わかってるよ、感謝してるよ。ところでお前車何処に停めてきた?」 「車?自転車だよ自転車。通りの標識にくくり付けてきた」 「お前なあ、みんな運転手付の車で来てるんだぞ。お前にそこまで要求しないけど、せめてハイヤーで来いよ。誰が見てるか分かんないぞ」 「それは気が付かなくてスマンスマン。つい何時もの癖で自転車に跨ってしまった」 「まあ兎に角名札付けて中に入って座ってろ。一番奥の端だぞ端!」 「了解了解」 私が会場に入ると既にメニーマニージェントルマンはお揃いの様で、その人数は6人。私を入れて7人である。思っていたより年齢層は高い。皆40代後半以上と見られ、どう見ても私が一番年下だ。私は軽く会釈をしながら自席に着いたが、特に誰も私の服装を気に留めることも無く談笑を続けていた。司会である愚友のアナウンスが入った。「それでは皆さん。男性陣がお揃いの様ですので、女性陣に入場していただきます。拍手でお迎えください!」 パチパチパチパチ。来ました!来ました!馬鹿馬鹿しいくらいに着飾った乞食根性丸出しのタカリ女達がぞろぞろと!数えたところ11人。御面相にバラつきはあるが年齢層は男性陣に比して若い。25~30歳前後といったところか。女性陣着席の後、お互いに簡単な自己紹介を済ませ軽い食事が始まる。向かい合わせに座った男性陣と女性陣。明らかに場違いで貧相な私に話しかけてくる女性などいないだろうと、チーズでも齧りながら末席で聞き耳を立てるのを楽しみにしていたのだが、それは甘かった。男性陣より女性陣のほうが人数が多い為、どうしても止むを得ず私のようなカス男にも話しかけてくる。その勢いたるや、まあ貪欲なこと凄まじい。(さては、これが近頃巷で噂の肉食系女子って奴だな) 「初めましてEです」 「あ、どうも初めましてYです」 「素敵なデザインのポロシャツですね」 「えっ、これ安物ですよ。銀座のザラで3000円くらいで買ったんですよ」(あっ、イカンイカン、ホントのこと言っちゃったよ。貧乏がバレちゃうよ) 「え~、でも似合ってれば値段なんて関係ないですよ~。とってもお似合いですよ」(けっ!この女かなり場馴れしてるな) 「安物着ててもそんな風に言ってくれるなんて優しいなあ、ハハハ」 「どちらにお住まいなんですか?」(はい、出ました。いきなりの資産チェック) 「広尾です」 「すごお~い!広尾なんて住んでみたいな~」(ウソに決まってんだろアホ!) 「昔から広尾なんですか?」 「いえ、生まれたのは成城で、ずっと成城に居たかったんですが仕事が忙しくなってきたので都心に近いほうが便利かなあと。それで6年前に広尾に家を建てたんです」 「えっ、一戸建てなんですか~、素敵すぎる~」(大ウソだよ大ウソ。バーカ) 「車屋さんって言ってましたけど、やっぱり車好きなんですか?愛車は何ですか?」(ったく、このバカ女金目の物にしか興味ねーのかよ!) 「勿論車は大好きですよ。僕の愛車はブロンプトンです」 「へえ~、ブロンプトンっていう車があるんですね!知らなかった~外車ですか?」(ブロンプトンは車じゃねーよ!チャリだよチャリ!) 「イギリス車です」 「イギリス車っていうとジャガーとかアストンマーチンしか知らなかったです~。私車のことあんまり詳しくないから」(だからチャリだっつーの!) 「ブロンプトンって速いんですか?」 「まあ、それは乗り手の腕次第じゃないでしょうか」 「Yさんって車屋さんだから運転上手いんじゃないですか?速そう」 「僕がキレると速いですよ」 「キレると速いって、、、、Yさん面白い~」 「いや、別に笑わせようと思って言ったんじゃなくて、僕がキレると速いってのはホントですよ。外堀通りのね、水道橋から御茶ノ水にかけての上り坂なんて、ブロンプトンでグイグイ上っちゃいますね」 「あの~、さっきから気になってたんですけど、その時計パテックフィリップですよね?」(この銭ゲバ女め!やはり目ざといな。始めから気付いてやがる!) 「そうです。二十歳の誕生日に祖父からプレゼントされた物です。それ以来ずっと使ってます。もう古いばかりで」 「そういうお話って素敵ですね。良いものを永く使うってすばらしい事だと思うんです」(おいおい、こんな成金時計ウチのジーサンが買ってくれる訳ねーだろ。ウチのジーサンは俺が二十歳の時にゃ既にあの世に逝ってたよ。ダチに無理矢理借りてきたんだよ!このオタンコナス!あー、もういい加減バカらしくなってきた。適当なところで切り上げよう) 「すみません。ちょっと御不浄に失礼します」 私は手水場に行くふりをして席を立った。入り口付近でタバコを吸っていた司会者愚友を捕まえ、「いやー、堪能させてもらったよ。面白かった」 「なんだ、もう帰るのか」 「うん、もう十分十分。あんな金の亡者のすれっからしバカ女とな、これ以上話してるとこっちの脳ミソまで腐っちまいそうだよ。大変勉強になりました。ありがとよ」 「まあ、お前は元々ここに居る筈のない男だからな。帰るなりなんなり好きにしろよ」 「はい、では御暇致します。ではこれにて」 「じゃあな」 私は愛車ブロンプトンに跨り会場を後にした。短時間とは言え、物乞い女達との陰湿な戦いに疲れ果てた私が帰路、水道橋から御茶ノ水にかけての上り坂を、愛車ブロンプトンで全く上れなかったのは言うまでもないだろう。それにしても、浮世とは謎多き園である。あんな寄生虫の如き女たちと所帯を持たんとする男達が蠢いているのだから。破鍋に綴じ蓋、蓼食う虫も好き好き、といったところでしょうか。

 

清爽な悪

幼少の頃より、私は苦しい事や辛い事、嫌いな事、要するに精神的或いは肉体的苦痛を伴う行為から徹頭徹尾逃げ回ってきた。逃げて逃げて逃げまくってきた。少し取り組んでみて出来そうにない事は即座に諦め、面倒な事は全て他者に任せ、ちょっとでも気に入らない物は張り倒されても絶対に食べず、叱られそうになるとその場から消える。家にクーラーなる物が導入された時は衝撃的だった。私の幼時は、クーラーと言えばデパートかタクシーにしかなく、自宅にクーラーがある奴は一定度の金持ちだった。あの夏の卒倒しそうな暑さから放免され、クーラーの清涼感や快暢を我が家で味わえる事は、著しい怠け者の私にとってこの上ない僥倖であった。爾来、夏はクーラーがある部屋から殆ど出ようとせず、冬は常時炬燵に潜り込み顔だけを外に出してほくそ笑んでいた。こういった生活態度を如何にたしなめられようとも頑として譲らず、決して革める事はなかった。であるからして、自分の眼前で繰り広げられるありとあらゆる光景が不思議で仕方がなかった。何故逆上がりをやらなければならないのか。出来ないと何か問題でもあるのか。何故跳び箱を跳ばなければならないのか。跳び箱を跳ぶ事に何の意味があるのか。痩せている子供は易々とこなし、肥満児が出来ないのは当たり前であるのに、何故肥満児に逆上がりを無理強いし、跳べる訳がない跳び箱に挑ませるのか。いくらやっても出来ない事は誰が見ても火を見るより明らかなのに、それを皆の前で繰り返しやらせるという事は、単なる嫌がらせではないのか。休み時間になると校庭に飛び出し、暴れまわる友人達を教室の窓から眺め、なんの必要があってあんなに奇声を上げて暴れるのか理解できなかった。給食も嫌だった。ブタの餌を入れる様な食缶で運ばれてくる料理は、とても人間の食べ物とは思えず、使われている食器もまるで刑務所の囚人にあてがう様な物で、何故自分がこんな屈辱的な状況で食事をしなければならないのか得心がいかなかった。朝礼、運動会の練習、卒業式の練習、マラソン大会、草むしり、全て逃げた。夏休みの宿題など殆どやった事がない。担任の教師に怒鳴られようが、ビンタされようが全面拒否してやらなかった。運動会や卒業式などは、練習しなければならないような性質のものではない。式次第をトラブルなく円滑に進行させようとする先生達(大人)の都合を子供達に押し付けているだけなのだ。大量の宿題を強制される様な夏休みは、ちっとも休みではないではないか。そもそも、何故毎日毎日学校に行かなければならないのか判然としなかった。学校などというものは、読み書き算盤だけ教えてくれれば十分、あとは余計な御世話、お節介なのである。そうだとすれば週に三日も行けば十分事足りるだろう。友達が多い事は善いことで、少ないことは悪い事。勉強が出来る子は良い子で、出来ない子は頭の悪い子。そんな事は持って生まれたものなのだから仕方ないではないか。内向的な性格も、頭の悪さも動物的遺伝である。父親がヤクザだったり、母親が売春婦だったりしても、それは子供のせいではないのと同じだ。そして、ここまで述べてきたような画一的で浅短な、教育という美名のもとに遂行される洗脳を受ける事が、私は嫌で嫌でしょうがなかった。したがって、好きな事だけに注力し、苦しい事、苦手な事から逃げに逃げて来たのである。私も既にオヤジと言われて久しい齢であるから、遂に逃げ切ったと言ってもよかろう。その結果私はどうなったか。幼少の頃から、苦難を避け逃げ回ってきた事に起因する問題が何か発生したか。答えは否である。はい、特に何も問題はありませんでした。オマエは本当に救いようのないバカだ。オマエみたいな卑怯な奴はいつかきっとバチがあたるぞ。オマエの将来は野垂れ死にだ。そう言われてきたが、実際はそうでもなかった。要するに、好きな事のみに没入していれば、その他の苦難や煩雑な事象から全て逃避しても、全然オッケー!なのである。ただ、こういった私のような生き方をするには、一般的に言って少々強い精神力が要求されるようだ。他者から誹謗中傷を受けたり、批判、批難されたりするとすぐにカッとなったり、反対に憔悴したりしてしまう者には無理であるからお勧めしない。そういう者は先生の言うことをよく聞いて良い子でいるしかない。しかし、斯く申す私も実はさして強い精神力を保持している訳ではない。私の場合はやや変わっている様で、他者からの誹謗中傷罵詈雑言批判批難を難なく認めてしまうのである。バカヤロウ!と言われれば、そうだよなあ、俺はバカだよなあ、と心から思うし、この卑怯者!と言われれば、そうか、俺は卑怯な人間なんだ、と率直に認諾する。私は、自分がバカで卑怯で陰湿で狡猾で臆病な人間であることを遥か昔から自認しているから、それを他者から指弾されても黙諾するしかない。そんな分かりきった事を、子供の時から言われてきた事を、いくら面罵されても立腹の余地はないのだ。その通りなんだから。そしてそんなことよりも、私を批難する相手の思考回路や精神構造の方に興味が湧くのである。この人にはどういった背景があり、いったいいかなる事由で私を批難しているのか。その精神の奥底に、澱になり溜まっているものは果たしてルサンチマンなのか、いやそうではないのか。つまりは君主道徳に属するものなのか、奴隷道徳に属するものなのかといった事がどうしても気になってしまう。私にとってはそういう事が極めて重要なのです。私はこのブログで、世の中において社会通念上(私が最もバカにしている言葉ではありますが、大変便利な言葉ですので時々利用しています)、善とされている事を鵜呑みにし、盲信する行為の危険性を様々な角度から訴えてきましたが、「逃避」という社会通念上悪とされる行為も、実はその手法によっては大変価値あるものに変わりうる可能性を内包している事に気付くべきだと思うのです。ただしかし、東電の前社長清水正孝の様な逃げ方はいけません。カッコ悪すぎる。頭が悪すぎる。みっともないったらありゃしない。同じ逃避であってもスマートにクレバーに、気が付いたら「あれっ、アイツ居ないね」と言われるような逃げ方こそ本物の逃避なのです。さあ、貴方も逃げましょう!苦手な事から、嫌な事から、辛い事から、ドンドン逃げましょう!そして得意な事だけに専念しましょう!辛い仕事から、嫌な上司から、小遣いを3万円しかくれない妻から、勉強もろくに出来ないくせに大学に行きたがっている子供から、手切れ金を要求されている愛人から、借金取りから、警察から、逃げて逃げて逃げ切ってやりましょう。逃げ方が分からない人は、遠慮なく私にお問い合わせ下さい。喜んで御指南致します。しかしその結果、貴方が乞食になっても、匕首で刺し殺されても、地下鉄のホームから突き落とされても、私は一切責任を負いませんし、その事について関知致しません。何故なら、それは貴方に「逃避」の才能が無かっただけの事なのですから。そして、自分の行為の結果は全て自分に責任があるという態度がとれる事が大人という事なのですから。

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