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寒中雑感
昔から年末だとか正月だとかいう事に何の感慨も無い。私にとっては万事これ平常なりである。年の瀬だ、新年だと無意味に浮き足立っている諸人に軽侮の眼差しを差し上げているくらいだ。したがって、年賀状は書かない。毎年律儀に送ってくださる方々には欠礼と言う他無いが、だからといって、おめでたいとも何とも思っていないのに「明けましておめでとう御座います」と言うことは私には出来ない。神様にも仏様にも世話になった事は無いし、世話になるつもりも無いので初詣なんてものにも行かない。齢16の或る日、柴又帝釈天に行ってきた友人から交通安全の御守りを貰った。その翌朝、私は車に轢かれた。全身包帯だらけの私を見舞いに来たその友人に「テメェこの野郎!なんだあの御守りは!このザマをよく見ろ!全然効き目がねぇじゃねぇか!」と毒突けば、「いやJ、それは誤解も甚だしいぞ。昨日俺がくれてやったあの御守りのお陰でな、お前は一命を取り留めたんだ。あの御守りが無ければ今頃お前は三途の川を渡ってるところだぞ。感謝したまえ」と返された。こういうのをポジティブシンキングと言うのでしょうか。この反駁を受けて私は、友人が将来大きく飛躍する人物であろう事を予見した。彼は現在、「青汁なんとか」なる、その辺に生えている雑草を搾っただけの苦くて如何にも効きそうな雑草飲料と、グルコサミンコンドロイチンを含んだ「ロイヤルグルコンスーパーV!」という、ゴミ箱から拾ってきた蟹の殻を砕いた大変体に良い粉を売って人々の健康増進に貢献し、インドネシアのお城に住んでいます。お手伝いさんが25人いるそうです。そして今年はあらゆる癌が立ち所に治ってしまうというとても酸っぱいジュースを売り出して人々を幸せにするんだと息巻いています。更に来年は、とても酸っぱいジュースを飲んですっかり癌が治ってしまった人々を不老長寿にしてあげる為の、ゾウガメの糞を海洋深層水に溶かした「タートルウォーターミラクルVX!」の開発を目指し、ゾウガメの糞集めにガラパゴス諸島へ飛ぶそうです。私が柴又帝釈天交通安全御守りもろとも轢傷した次年、別の知友が悪疾に罹り病床に臥した。長期に亘る入院治療を受けるも快方に向かわず、焦燥と失意が混濁した知友を見兼ねて、私は巣鴨の刺抜き地蔵に誘った。なんとか主治医の外出許可を取った友を御茶ノ水の病院まで迎えに行き、二人で巣鴨に出掛けた。老婆でごった返す参道を抜け、患部の痛みを和らげるらしい線香の煙を浴び参詣した後、小さな小さな御札の様な紙を買った。それは切手をもう少し縦長にしたくらいの薄紙に地蔵が描かれている物で、丸めて飲み込むと病や怪我が治るという触れ込みだった。地蔵通り商店街に在る古ぼけた喫茶店に入り、知友は悪疾が治るように、私は交通事故の後遺症状が軽減するように、二人目を見合わせながら薄いコーヒーでそれを飲んだ。友が疲れを訴えたので、帰りはタクシーで病院まで送り届けた。それから一月後、知友は呆気なく、さらりと死んだ。病身をおして、寒中わざわざ参詣に出向いたというのに、神様仏様は少情であった。それゆえ、病に患苦する知友を見放した神や仏に、私は一切世話にはならないのである。過日、前述の愚友が帰国した際に会ってこの話をしたところ、「そうか、昔の話とは言えそれは残念な事があったんだな。その時俺が今開発中のとても酸っぱいジュースがあればなあ」と予想通りに反応した。「よしっ!そういう人達の為にも商品化を急ごう!年内と言わず春までに発売するぞ!」 「別にそんなに急がなくてもいいんじゃないか?」 「何を言う!健康を願う全ての人々に救いの手を差し伸べるのが俺の社会的責務なんだ!違うか?」 「そりゃまた随分と大きく出たな」 「実はな、既に試作品は出来てるんだ。ほらっ!」 「なんか色が悪いな。変な色」 「色なんてのは後から着色料か何か入れりゃ赤でも青でも紫でもどうにでもなるんだよ。試作品なんだからそんなこと気にするな。それ、ちょっと一杯飲んでみれ、ほれほれ!」 「俺は癌じゃないから遠慮するよ」 「おい、お前どうやら怪しんでるな。このとても酸っぱいジュースはだよ、癌の人はすぐ治る。癌じゃない人は癌にならなくなる。そういうモンなんだよ。さっ、一杯御飲みよ」 「じゃ、ちょっとだけ、、、、、。うわっ!ひゃーっ!なんだこれ!梅干の百万倍くらい酸っぱいな!酸っぱくて酸っぱくて涙がでるな」 「どうだ、ビックリしたか。その尋常ならざる酸味が有効成分なんだよ。その酸っぱさでな、癌なんてみんな吹っ飛んじまうんだよ」 「しかしこれ何の実の果汁なんだ?」 「俺もなんだか良くわかんないんだけどな、奄美大島に行くとその辺に生えてる木になってるんだよ。一年中。だからそれを採ってきて搾っただけ。添加物一切無し。しかも原価ゼロ。な、いいだろ!悪い話じゃねえだろ?」 「でも何でこれが癌に効くってわかったんだよ」 「それはな、これから知り合いの大学の先生に幾らか小遣いを渡してちょいと一筆理屈能書きを考えてもらうって訳よ」 「それってちょっとおかしくねえか。順序が逆だろ」 「いやいや効果は確かなんだよ。奄美でこの実を発見した時にな、近くにぐったりと生気の抜けた野良猫が居たんだ。で、その野良猫を取っ捕まえてこれを無理矢理飲ましたら、これがもう効いたのなんのって、今の今までぐったりしてた野良猫が、飲んだ瞬間雄叫びを上げて走り出したんだよ。俺はあの時確信をもったね。これは絶対癌に効くってな」 「、、、、、あのな、これだけ酸っぱいジュースを無理矢理飲ませりゃな、アフリカ象だってゴジラだった走りだすぞ!」 「ま、兎にも角にもお前はもう癌にはならないね。俺に感謝して安心しろ」 「癌にならなくても、酸っぱすぎて胃に穴が開きそうだよ」 「で、次はタートルウォーターミラクルVX!の開発だ」 「その話も前に聞いたよ。しかしどうしてゾウガメの糞と海洋深層水なんだ?スッポンだって効くのは生き血だろ?」 「お前バカだな。生き血を抜くには殺さなきゃならないだろ。ゾウガメってのは捕まえたり殺したりしちゃ駄目なんだよ。まあ天然記念物ってやつだ。あんな物を捕まえてるところを見つかったらお縄だね。だから糞でいいんだよ糞で。生き血だろうが糞だろうがゾウガメの体から出て来るんだから似た様なモンだ。それにこれまた原価ゼロ」 「お前はホントに長生きするよ。俺が保証する」 「何言ってんだ。お前だって長生きするぞ!さっき酸っぱいジュース飲んだんだから少なくとも癌にはならない」 「そうかそうか、感謝感激雨霰だ」 「タートルウォーターミラクルVX!もなるべく急いで作るからさ。またお前に一番先に飲ましてやるよ」 「俺はゾウガメの糞を飲んでまで生きたくないよ」 「お前は理屈をこねる割に解ってねえな。いいか、健康や命ってのは何よりも大切なもんなんだよ!死んじまったらお前の好きな酒もタバコもやれねんだぞ!」 「ははっ!御見逸れ致しました」 「わかりゃいんだよわかりゃ。じゃあ秋までにはタートルウォーターミラクルVX!持ってくるからな!」 「、、、、、、、、」
均質化なる戦慄
若者の自動車離れとやらが叫ばれて久しい。確かに、若年層の著しい低所得化が加速度的に進みつつある現在、自動車にまつわる維持費は重い負担であることは間違い無いだろうし、それがその一因であると言えない事も無い。しかし、私の身近に居る若者達を観ていると、携帯やパソコンといった、私が若い頃には考えられなかった生活コストを支払いながらも、本当に欲しいものはきちんと購入している。それがたとえ奢侈品であっても頑張って購うのである。であるなら、若者の自動車離れの主たる要因は経済的事情だけでは無い筈だ。その主たる要因を端的に述べれば、それは自動車という工業製品のコモディティ化に他ならない。コモディティ化の意味について存知しない読者の為、以下にウィキペデイアから引用しておく。『コモディティ(英:commodity)化は、市場に流通している商品がメーカーごとの個性を失い、消費者にとっては何処のメーカーの品を購入しても大差ない状態のことである。なお英語の「commodity」は日用品程度の意味しかない。これらには、幾つかの要因(後述)があるが、消費者にとっては商品選択の基準が販売価格(市場価格)の違いしかないことから市場原理の常としてメーカー側は「より安い商品」を投入するしかなくなり、結果的にそれら製品カテゴリーに属する製品の値段が安くなる傾向があり、反面企業にしてみれば価格競争で安く商品を提供せざるを得ず、結果的に儲け幅(商品として扱ううまみ)が減ることもあり、企業収益を圧迫する傾向がある。こういったコモディティ化回避の企業戦略としては、付加価値の付与による多機能化など差別化戦略がある訳だが、過剰に機能を追加しても過剰性能で消費者にアピールできない場合もあり、ブランドイメージ戦略も各々のメーカーが同程度の力を注いでいる場合は並列化するまでの時間稼ぎにしかならず、差別化戦略にも限界が存在する』ということである。「最近の車って家電製品みたいだね」と言われるのは、まさにこのコモディティ化そのものを指しているのだ。コモディティ化は、コモディティ(日用品)という言葉が示す通り、単価の安い使い捨て商品から始まる。それが、耐久消費財である自動車にまで波及してきた現状は何を意味するのか。それは究極、或いは極限まで荒みきり、その獰猛性を裸出した凄惨な資本主義社会の到来を告げているのである。たとえば貴方が小型自動車を購入する場合、ビッツであろうとフィットであろうとパッソであろうとスウィフトであろうと、結局のところ自動車のとしての性能差は、取るに足らない程度の些細なものであるわけだから、その選択基準は、色や内装そして価格といった、自動車たる機械の本質とはおよそ懸け離れた要素に収斂して行かざるを得ない。車好きの視点で見れば、これら大衆車にも僅かな差異、優劣はあろう。しかし、そんな瑣末な違いは一般の者にとってはどうでもいい事であり、選択基準足り得ない。そんな些少なことはどうでもいいから一万円でも安くしてくれ、というわけである。一見コモディティ化とは無縁に見える高級車も例外ではない。私があらゆる現行モデルの中で、その造り、性能、質感の何れをとってもこれは間違いなく本物の高級車だと認めるのは、トヨタのセンチュリーのみである。センチュリーの他は、それが如何に高額の超高級スポーツカーであってもコモディティ化している。フェラーリの現行モデルなど、我々プロの職人が見れば、呆れるばかりの粗雑な造り、構造の部位が数限りなくある。現在のフェラーリは既に単なるブランドになりさがっており、フェラーリの現行モデルの購買層は自動車を買っているのではなく、フェラーリというブランドに大枚をはたいているに過ぎない。フェラーリモデナは、フェラーリのエンブレムが貼り付いているから、フェラーリなのであって、モデナにダイハツのエンブレムが貼り付いていたら絶対に許せないのだ。馬鹿馬鹿しいとしか言いようが無い。だた、引用したウィキペディアの説明にも記述があるように、このブランド、ブランディングという抗コモディティ化とも思える泡銭を産むビジネス手法も、実はコモディティ化の大波に飲み込まれてしまうのである。コモディティ化してしまった自動車は、個性が無く、魅力が無く、面白くない。それは言ってみれば石鹸やトイレットペーパーと同質の商品になってしまった事であり、手が洗えて尻が拭ければそれで良いということなのである。而して、真の車好きは魅力溢れるビンテージカーに走る。ビンテージカーの、あの工芸品とも言える凝った造りの部品群。そしてその部品を瞼に映し、指先で触れるたびに、それを拵えた職人の矜持を感じる愉しみ。更には、時間という厳しい試練に耐え忍び、生き残ってきた本物だけが持ちうるその圧倒的な存在感に、敬意にも似た感情を覚えるのだ。これは決して安直な懐古趣味ではあり得ず、現状に対するアンチテーゼとして心中に存し、カタルシスとして作用するものなのである。コモディティ化は自動車業界より遥か以前から、食品、外食産業で始まっていた。牛丼、ファミレス、居酒屋といった外食チェーンにおいて日々繰り返されている激烈な価格の叩き合いを目の当たりにすれば納得できよう。何処の外食チェーンに行っても出てくる料理は化学調味料塗れの冷凍食品ばかり。客もそれを百も承知で行くわけであるから、安いに越したことは無い。もう既に外食チェーンという存在は、酒や料理を提供することが主なる業務ではなく、その本質は単に場所を提供することに変質しているのだ。これは、ペットボトルビジネスと同位である。ペットボトル飲料は、実は中身である飲料を売りたいわけでは全く無く、あれはペットボトルを買ってもらいたいだけなのだ。ただ、空のペットボトルを買ってくれる客はいないであろうから、仕方なく何らかの飲料を入れる。少しでもペットボトルが売れるように中身を工夫する。そういうビジネスである。外食チェーンも全く同様になっている。衣料品業界のコモディティ化も激しい。今や高級ブランドの衣料品でさえ、その殆どが中国製だ。コモディティ化が進んだ結果、ブルックスブラザースのポロシャツとユニクロのポロシャツの品質は全く変わらなくなった。むしろユニクロの方が明らかに品質が良い物さえある。数年前、私が、ある知人からプレゼントされたブルックスブラザースのレザーグローブはイタリア製であったが、一ヶ月で破けた。流石イタリア製だと一笑に付したが、その後、別の知人から頂いたユニクロのグローブは数年の時を経てもなんとも無い。要するに、現在のブルックスブラザースは、コモディティ化にすら付いて行けなくなっているのである。コモディティ化の波は、恐ろしいことに人間そのものまでも飲み込もうとしている。いや、既に飲み込まれてしまっていると言ってもいいだろう。現代社会においては、就職や経済的将来性という視座で見れば、大学を卒業することに意味が無くなりつつある。もう少し精確に述べれば、東大、京大、慶応(経済)、早稲田(政経、理工)以外の大学を卒業しても就職に有利性が発することは殆ど無い。何故なら、労働者の労働力のコモディティ化が進んでしまった結果、極めて単純化して言えば、中途半端な能力の労働者は、企業から全く必要とされなくなったのである。苛烈を極める現在の市場競争の中で足掻く企業には新入社員を丁寧に教育し育てる時間的、コスト的有余は無い。企業が欲しいのは即戦力のみだ。組織体系もどんどん変わっている。自社商品がコモディティ化している企業は従来型のヒエラルキーを保つことは出来ない。前述した東大、京大、慶応、早稲田、などを出た小数のエリートが頭脳となり、それ以下の全ての労働者はマニュアル化された、いわば誰でも出来る単純労働に従じるというひょうたん型の組織体系をなす。なんの技術も身に付かない単純労働を続けていても、収入は一向に上がらず、年齢だけを重ねてゆく。就職の際に少しでも有利になればと考えて頑張ったTOEICも全くの無意味だ。日本人より低賃金で働く英語ぺらぺらの中国人は無尽蔵に居る。そう、労働力のコモディティ化により、名の通った企業でも外国人との就職戦争が始まっている。このままであれば、人間の生活全てがコモディティ化される日もそう遠くはないだろう。ホンの一部のエリートを除く全ての人が、朝起きると山崎パンを食べ、ユニクロの服を着て仕事に出掛ける。誰でも出来る単純労働をし、吉野家に行列して昼食の牛丼を食べる。午後も単純労働を繰り返し、帰路の途中コンビニで弁当を買って夕食とする。発泡酒を片手に「家政婦のミタ」を観る。仕事の後、たまに同僚と呑みに行くのは人数が多ければ和民、少数であればお疲れ様セット1000円の立ち飲み屋と決まっている。これが一億総コモディティ化である。既にそうなっているではないか、という声が聞こえてきそうだ。その通り、日本はそうなっている。後はどれだけコモディティ化人が増えるかだけの問題である。人間がコモディティ化し均質化することはなんたる恐怖であろうか。人間のコモディティ化から逃れるには、中国製品を買わないこと、コモディティ商品を生産している企業に就職しないこと、牛丼を食べないこと、ペットボトル飲料を買わないこと、テレビを見ないこと、新聞を読まないことから始めるのがよかろう。こんなことを言うと、「え、なんで?ユニクロの服いいじゃん、吉野家だって旨いじゃん、コンビニだって便利だよ、家政婦のミタなんて凄く面白かったよ」という反駁があろう。この反駁に、私は返す言葉を知らない。宛がい扶持の低劣な幸福感に甘んじ,それを十全としている人間に、どんなに大きな姿見を与えようが、己の醜行は映らないのだ。
悪事無くして事業は拡大ならず
連年招待状を拝戴しながら、一度も会場に足を運んだ事が無い催事がある。東京モーターショーだ。もとより、祭りや催事を厭悪している私ではあるが、それに加えて、新しいものに全く興味が無いということも大きな因由と言える。20年程前からであろうか、自動車であれ他の工業製品であれ、大規模製造業に属する大企業が生産する製品の殆どは、多大な社会的責任を負う大企業にあるまじき、「ただ売れれば良い」 「ただ儲かれば良い」という近視眼的営利に溺没した土左衛門の如きものばかりで、露ほどの魅力も感ずることはない。至当であろう。現在の大メーカーは、自らが世に送り出した製品を消費者に末永く大切に使ってもらうという、モノ造りに携わる者が本来持って然るべき精神を完全に消滅せしめている。大メーカーは、消費者に新製品を購わせ、あとは如何に早く廃棄させ、買い替えサイクルを短縮させるかに悪知恵を絞るばかりだ。こんなことでは製造現場で腕を揮う職人の矜持など保てるはずも無く、企画立案者にしても己の生み出した製品に営利以外の意義素を見出すことすら困難であろう。それもこれも、グローバリゼーションなる似非看板を背負ってはいるが、その正体は他者利益強奪型アメリカナイゼーションの根幹である市場原理主義とやらの所行に他ならない。工業製品だけではない。外食産業界のとある経営者は、「美味しいものが売れるのではない。売れるものが美味しいのだ」と全く悪びれる様子も無く言い放ったそうな。なるほど、この経営者に代表される、自職に関する倫理観や自負心を微塵も持ち合わせていないような人物が蔓延る現実を直視すれば、本当に良い車、永きに亘って多くの人に愛される魅力的な車など出来よう筈もないことが容易に理解できるのではなかろうか。ある自動車メーカーは、下請け業者に極限までのコストカットを求め、限界を超えた納入価格を強要する。下請け企業の社長は悩み苦しんだ挙句、自尽して果てる。メーカーの担当者は、下請け社長の失命を前にしても眉毛一つ動かすことも無く、代わりの下請け業者に仕事を移すのみである。結果、メーカーの内部留保は膨張を続ける。人命を犠牲にしてでもコストカットを要求する、その鉄面皮とも言える飽くなき営利追及は留まる所を知らない。いかに法律的には合法組織であっても、この様な大企業の横暴野蛮極まりない振る舞いはマフィアと同断だろう。現代では当然のビジネス手法となっているが、後進国との通貨格差を奇貨として悪用する海外生産の実態も凄まじいものだ。驚くなかれ、スニーカーブランドのナイキが生産委託するインドネシア工場における末端労働者の日収は1.25ドル(なんと約100円!)である。いくら後進国といえども、日給100円とは信じられようか。まともな労働法も整備されていない後進国に、市場原理主義に毒された先進国大企業が進出すれば、こうなるのは当然の帰結ではないか。有力企業の海外進出は現地の雇用創出の源泉であるなどと尤もらしい事が言われるが、そんなものは見え透いた口実であり、その実態は奴隷労働の温床なのだ。昔から、東京のカフェでコーヒーを一杯飲むとブラジルのコーヒー農園で働く奴隷が一人増えると言われてきた。まさに現代は、この悪しき産業構造が全世界的に波及し、なおかつ正当化されてしまったのである。東京でナイキのスニーカーを一足買えば、少なく見積もってもインドネシアの奴隷労働者が3人は増えるだろう。中国製の服を買えば中国人奴隷労働者が一人増えるだろう。ベトナムでタイでインドでカンボジアで全く同様の事態が広がりつつある現実を正視すべきだ。しかし、こういったマフィア大企業商法にもどうすることも出来ない欠点がある。それは前述した様に、出来上がった製品にモノとしての魅力が全く無いのである。マーケットリサーチを最重視し、必要以上に消費者の顔色を窺い、媚び諂って造られた現行車は、開発者が懸命に熱弁を振るおうと、私の目にはユニクロの商品と同程度にしか映らない。そんなユニクロレベルの安物を並べ立てているだけの東京モーターショーなど誰が行くものか。いや、高級車も並んでいるではないか、と言われる向きもあろう。黙りなさい、私はプロなんである。時価数千万円のイタリア製スーパーカーの作りや精度が国産の軽自動車以下であることも、一千万円オーバーの国産高級車ブランドが、実は100万円台の大衆車用部品を多数流用していることも知っている。東京モーターショーの「公称」観客動員数は、自動車各社と電通の担当者が東奔西走し、死に物狂いでタダ券をバラマキまくって作り上げられた数字であって、自らチケットを購買し、自発的に来場している者など、タダ券を入手する術を知らないホンの一部のニューモデルマニアにすぎないのである。更に、私があの手のモーターショーで吐き気を催すほど嫌忌するのは、イベントコンパニオンと呼ぶのだろうか、あの毎度おなじみの、女を侍らすという前時代的で品性下劣な演出だ。何故モーターショーに女を侍らす必要があるのか。何故展示車に女をしな垂れかからせる必要があるのか。しかもそのコンパニオンとやらは、今にもパンツが見えそうな短いスカートを穿き、新大久保の立ちんぼの様な、性根が腐り、堕ち切った視線を観客に送る。バカじゃないだろうか。催事では、とにかく肌を露出させた若い女を侍らせば、場が華やかになるという猥褻で下品で貧困な発想から抜け出せないのだ。結局、自動車メーカー幹部の品性やメンタリティは未だにこの程度の、時代錯誤も甚だしい低次元で下賤なものでしかない。そんなに女が好きならば、今すぐにキャバクラか淫売屋でも行けばよいではないか。まさに閉口頓首、辟易とする。私がこんなことを言うと、「もしかして、、、、、」と良からぬ事を考える者もあろうが、私は断じてホモではない。オカマバーは好きであるが断じてホモではない。ノンケである。何故私はオカマバーが好きなのか。それは、オカマは知的水準が高いからである。オカマバーに行ったことがない者は知る由も無いだろうが、彼ら社会的マイノリティーの思考は深い。被抑圧者特有の鋭敏な視座、思考の深さとインテリジェンスを併せ持ち、しかも決して卑屈になることなく、あらゆる悲哀を発笑に転換する機知に富んだ切り返しを身に付けている。オカマ話芸の意外な切り口と、辛辣さと口の悪さは、この私と互角に渡り合うレベルのものであり、とどめに、日陰者ならではの妙な迫力を伴う説得力も持ち合わせている。私は鋭利な刃物を更に研ぐが如く、即時的論理構築能力を鍛えんが為にオカマバーに通うのである。さて本題に戻るが、自動車メーカーは「若者の自動車離れ」などと見当外れな事を言って嘆いているが、現実を知らないバカの極みである。クルマが大好きな若者はまだまだ沢山いる。メーカーがつまらぬクルマばかり造るから、現行車に興味が失せているだけだ。トヨタが「86」というネーミングでFRのニューモデルを出すそうである。過去の名車のネーミングを再利用するようでは、既にトヨタの発想力が硬直化し、腐乱ていることを臆面も無く晒しているのと同篇と言えよう。水面に屍が浮いてもコストカットの手を緩めない様なマフィアの如く冷酷非情な組織に、客が心から満足するようなクルマを造ることは絶対に出来ない。東京モーターショーなどという馬鹿げた下らぬ、女侍らし系お祭り騒ぎを何度繰り返そうが、棄擲してしまった、モノづくりの原点に立ち返るという可逆反応は、もはや永遠に観られないであろう。さあ、そろそろ私も終業時刻が近付いてきました。今宵は行きつけの洋食屋で腹を満たした後、オカマの鈴香ママに論戦を挑む所存です。激しい夜になりそうです。
Bな国ニッポン!
B層。この素晴らしき単語が世に出回ってからどれほどの歳月を経たであろうか。当ブログの読者諸賢であれば、この単語の示す意味を知らぬ人は居ないと思うが、私がここでいちいち説明するのも面倒なので、手抜きと自覚しつつも念の為ウィキから引用しておく。『B層(―そう)とは、郵政民営化の広報企画にあたって小泉政権の主な支持基盤として想定された、「具体的なことはよくわからないが小泉純一郎のキャラクターを支持する層」のこと。広義には政策よりもイメージで投票を行うなどポピュリズム政治に吸引される層を意味する。2005年、小泉内閣の進める郵政民営化政策に関する宣伝企画の立案を内閣府から受注した広告会社「スリード」が、小泉政権の主な支持基盤として想定した概念である。その後、ポピュリズムに動員される国民層を揶揄する意味合いで使われるようになった』という事である。なんと見事に的を射た分析と命名だろう。私はこのB層という単語とその意味を知った時、暫しの間笑いが止まらなかった。そして、では日本社会に跳梁跋扈するB層人とは、このウィキぺディアの解説より更に具体的に如何なる人たちなのか、自らの日常生活の中で調査したのである。以下にその具体例を述べてゆこう。まずは近時の例を挙げよう。Bな人その1。3.11の震災後思わず節電してしまった人。ただ、これに会社ぐるみでの節電などは含まれない。組織的意思と個人的意思は別だからである。Bな人とは、東電や政府が発する情報を鵜呑みにし、本気で節電してしまった人なのだ。(ヤラセ停電節電に関しては、当ブログhttp://www.ontario-ss.com/blog/2011/06/を参照) これらの人たちは批判的精神と自己判断能力が完全に欠落しており、B層の典型と言える。Bな人その2。これもやはり震災を機に、「やっぱり太陽光発電だ!」と思ってしまった人。これはエントロピー増大の法則やエネルギー保存の法則という最も基礎的な物理原則を全く理解できていない人達である。そもそも再生可能エネルギーなど地球上に存在しない事は言うまでもないだろう。再生可能エネルギーなる言葉は、政治家と官僚、体制べったりの悪徳大企業が国民を欺くために作り出した荒唐無稽な妄言としか言い様がなく、ある日突然「やっぱり地球の形状は球体ではなく立方体です」と喧伝しているに等しい。ソーラーパネルを置けば、日陰が出来るという極めて単純な事も想像出来ないのである。Bな人その3。これもまたエネルギー絡みであるが、ハイブリッドカーや電気自動車を買ってしまった人。この場合も、ハイブリッドカーや電気自動車のメカニズムそのものに興味を抱いて買った人や、インチキとは判っていても社会的立場上似非エコを標榜しなければならない人は別だ。Bな人とはこういった自動車を本当にエコだと考えて乗っている人なのだ。電力というものは、何らかのエネルギー源を燃焼、或いは運動(運動も燃焼の一種であるが)させなければ発生出来ない二次的エネルギーであり、近代社会において利用されてきたエネルギーの中で最も効率の悪いエネルギーであることは、どこからどう見ても疑いようの無い事実だろう。ところがBな人は、自動車メーカーの巧妙な宣伝に乗せられてディーラーのショールームに出掛け、ハイブリッドカーや電気自動車の新車を前にすると、前述した科学的常識など何処へやら、契約書にサインしてしまうのだ。Bな人その4。最近スティーブジョブズの伝記を買って読んでしまった人。もうなんと申しましょうか、ミーハーと言おうか、浅はかと言おうか、浮薄と言おうか。この手合は、現代に語り継がれる坂本竜馬や戦国武将の伝記伝説を事実の如く信じ込んでいるおめでたい者と、ほぼ同列の心的傾向にある。代表的な名を挙げれば、司馬遼太郎や武田鉄矢といったところであろうか。歴史上、盛名を馳せた人才について、後年書かれた記録や書物というものは、喩え如何に高名な識者が著そうが、その殆どが書き手の主観に基づく思い込みや想像(創造とも言える)の産物であり、インチキ、ウソ、デタラメを並べ立てた完全なファンタジーとして棄去せざるをえないのは至極当然であろう。「尊敬する人物は?」と問われて、真面目な顔で「織田信長です」と答える様な人は、既に全てが終了しており、ロボトミー手術でも受けない限りB層から脱却する事は不可能なのである。Bな人その5。マイケルサンデルの著作を買って読んでしまった人。スティーブジョブズの伝記を読んでしまった人よりは幾分マシかと感ずるが、これもやはりB層に属する。マイケルサンデルの活動は到底哲学者などと言えるものではなく、あれは『哲学的』テーマを低レベルで論議する、来場者参加型トークショーレベルの単なるエンターテイメントなのだ。あんなものを聴いたり読んだりして哲学を解ったつもりになることほど恐ろしい事は無い。哲学とは社会にとって何の益も齎さない事は勿論、でありながら超の上に超が付くほど難解極まる学問であって、常人の及ぶところではない。たった一つの哲学用語を巡って、様々な学者の見解が百出する奇奇怪怪なる世界なのである。ソクラテスの時代から始まる無数の哲学専門用語を極力精確に領会体得し、哲学特有の論理構築技術を無尽に揮い、狂界を彷徨いながら生涯を賭けて真理に近づかんとする数少ない本物の哲学者に比して、マイケルサンデルの議論、著作はあまりに軽い。それはせいぜい漫才、漫談の類といったところか。いや、優れた漫才や漫談であれば、マイケルサンデルより余程真理に近付いているのかもしれない。しかしながら、マイケルサンデルの著作を嬉々として熟読してしまった者は、その知的好奇心、或いは知的向上心を保持しているという点において、ロボトミー手術勧奨型スティーブジョブズ伝記読者より救いがある。ロボトミー手術とまではいかなくとも、脳に一定度の刺激(かなり強力な電気的刺激と予察される)を与えれば、B層からの脱離は十分に可能である。しかしまあ書店に行けば上記2著が平積みになっているわけであるから、間違いなく売れているのだろう。とてもではないが、私にはこの2著を自分の本棚に並べる勇気は無い。Bな人その6。プロジェクトXを観て感動してしまった人。これは危ない。かなり深刻な、B層の一翼を担うレギュラー陣だ。テレビ番組とは、ニュース番組であろうと報道番組であろうとドキュメンタリー番組であろうと総じて、画面に映り出る全ての出演者を『役者』とする完全な『お芝居』なのだ。番組制作会社は、予め用意された企画意図や台本に沿うように事実を歪曲し、改竄、捏造しながら無理往生とも言える手段を講じ、その企図を達する事が使命なのである。プロジェクトXにしてもそれは全く同様で、あれは実在の人物をモデルにした完全なフィクショナルサクセスストーリーであって、その『作品』は事実とは懸け離れているにもかかわらず、視聴者に対して事実と虚構を混同させる手練手管の限りを尽くして作り上げられた安手の『ドラマ』に過ぎない。そしてその本質は、シルベスタースタローンやスティーブンセガール、チャックノリスといったB級オヤジアクション映画と、さして変わることは無いのである。Bな人その7。大晦日には必ず紅白を観ている人。ヤバイ。極めて重度のB層である。紅白の司会者の、あの小恥ずかしくも異様に晴れがましい所作や、出演者全員の著しく不自然で不気味な笑顔。それは悉皆NHK特有の、気色悪いほどに幼稚な演出の成果であり、その表出なのであろうが、あのテレビの画面から放たれる、えも言われぬ気持ち悪さに、何ら違和感を覚えることなく受容出来る無神経性及び無思考性がB層に突出する性向と言えるのではなかろうか。紅白→行く年来る年コースを漫然と毎歳繰り返しているBな人の目には、この国の現状は決して映らないのである。大晦日の夜、家族で炬燵に入り所在無く紅白を観続けるその光景を想察するに、私は、自らの靭性によって社会を変革することをあっさりと絶念し、その結果としてひたすらの国家への隷属を唯一の生存手段として生きるBな人達に対し、嘆息を伴う限りなき憐憫の情を覚えると同時に、その背後に絶望を観てしまう。Bな人その8。ガンマGTPや尿酸値といった健康診断の結果を必要以上に気にしている人。これは比較的軽度のB層人である。誰しも、病院であれこれ体を調べられ、その結果を盾にこのままでは肝硬変になるぞ、痛風になるぞと脅されれば流石に心配になるのが人情というものだ。しかしその瞬間よく考えなければならない。戦後、日本人の健康状態は飛躍的に向上し、寿命も延びた。健康状態が芳しいということは、病気の人が少ないということである。病気の人が少ないと病院は儲からない。厚生労働省も予算がとれない。困った厚生労働省と病院は、病気でもなんでもない健康な人達を捕まえて無理矢理検査をさせた挙句、自分たちが勝手にでっち上げた健康基準から少しでも外れた結果が出るとあーでもないこーでもないと因縁をつけ、やれ再検査だ、やれ精密検査だと何度も何度も執拗に金を毟り取る。私の周囲には信じられない尿酸値を叩き出しながらも痛風なんぞ何処吹く風、平然とビールをがぶ飲みし、至って健康な人物が何人もいるし、耳を疑いたくなるようなガンマGTPを記録しながら、甚だ健やかに焼酎をあおり続ける猛者は幾らでもいる。尿酸値やガンマGTPという、厚生労働省と医療界が結託し、金欲しさからひり出したガセデータに一喜一憂することの愚かしさに気づきさえすれば、その人はB層から脱することが出来る。更にその時、個人の肉体の健康状態という超トップシークレットである筈の個人情報が、会社や病院が問答無用に押付ける健康診断によって盗み取られていることにも注目しなければならない。そもそも、普段から自分の体調にある程度敏感になっていれば、杓子定規な健康診断など行かなくても比較的早い段階でその異変に気づくであろうし、異変に気づいたら、その時点で病院に行けば良いのである。それで手遅れであったなら、それはそれで仕方が無いし、厚生労働省に食い物にされ、医療界のモルモットにされるより、遥かに健全な人生ではないだろうか。Bな人その9。妻が自分の健康状態を心配してくれる事に一抹の喜びを感じている人。結論を先んずれば、妻が貴方の体を案じているのは、断じて貴方を心配しているのではなく、貴方が働けなくなる事によって収入が絶たれるのを恐れているのである。ウソだと思うなら、今、貴方の近くで夕食後の片付けをしている妻の目をじっと見つめてみるがいい。その妻の目が、僅かにでも泳いだり、狼狽の色を見せたのであるならば、それは私の指摘の正当性を体現したことに他ならない。妻は貴方が死んでしまう事は一向に構わない。むしろそれを望みながらほくそ笑んでいるかもしれない。貴方がポクリと死ねば、しっかりかけていた生命保険金が入る、企業年金も入る、その上遺族年金も入る、更に貴方の献身的な労働によって蓄えられた幾ばくかの預貯金、資産も全て独占できる。それらを合わせて上手く運用すれば、貴方亡き後の妻の人生は順風満帆、安泰なのだ。妻にとって最も困るのは、貴方が中途半端な慢性病に罹患し、元気でもなく死ぬでもなく、会社を首になり、働くに働けない状態で命にしがみ付き、フラフラしながらしぶとく生き続けるという凄惨な事態であろう。妻はそれを極度に恐れるが為に、貴方の健康を気遣うのである。いざとなれば、即座に出奔可能な準備を、妻は常に調えている。夫婦愛や家族愛などどいう砂上の楼閣を頭から信じてノホホンと生きている人は、やはりBな人と言わざるをえない。Bな人その10。健康食品が好きな人。まずもう、「健康食品」という言葉自体がいかにも官僚崩れが捻出した不可解な言葉であることに気づかねばならない。「健康食品」なるものが存在するのであれば、その他の食品は全て「不健康食品」となってしまう。この論理を否定するなら、米も小麦粉も大豆も、いや水でさえ「健康食品」として指定されなければおかしい。「健康食品」とは、厚生労働省がお墨付きを与え、日本健康食品協会なる業界団体が管理する、特段何の効果も発揮することの無い単なる加工食品である。因みに、トクホと言われる特定保健用食品も大同小異だ。言わずもがな、この日本健康食品協会は厚生労働省の天下り団体だ。厚生労働省と日本健康食品協会との間でどのような金が流れているのか、読者諸賢であれば容易に察することが出来るのではないだろうか。健康食品のルーツは、食品を加工する際に止むを得ず生まれる産業廃棄物の有効活用であることを知る人は少ない。こんなモノに高い金を払って健康が保たれていると思っている人は、残念だがベタベタのB層人なのです。B層が大半を占めるこの軽佻浮薄な社会の将来を、私は常に暗澹たる思いで見つめています。しかしながら、最後に思い切って告白致しますと、実のところ私は、スティーブンセガールとチャックノリスの大ファンなのです。かたじけない。
乞食現る
疎遠になっていた愚友から電話があった。「よお、久し振りだな」 「そうだな、久し振りだ。なんか用か」 「なんだよ、久方振りに電話したってのに、すげない返事だな」 「俺は何時だってすげない人間だ」 「そうだな、お前は冷たい奴だもんな」 「その通り、とても冷たいね」 「まあ、なんだ、最近なにしてる?」 「決まってるだろう。働いてるよ」 「あの変なチッコイ車の修理か?」 「そうだよ、悪いか?それしか出来ないんだから仕方ないだろう。お前みたいに目端が利く性分じゃねえんだ。お前は相変わらずか?」 「まあな」 「あの詐欺みたいな商売まだやってんのか?」 「おい、お前人聞きの悪い事言うなよ。俺の仕事のどこが詐欺なんだよ。人々を幸せな世界に誘う神聖な仕事なんだぞ。愛のキューピット業と言って欲しいね」 「何とでも好きに言えよ。そう言えば6リッターのAMGはどうした?まだ乗ってんのか?」 「ああ、あれな。首都高でダンプのケツに突っ込んで、とうの昔にお釈迦になっちまったよ。でもな、あれ、つまんねえ車だったけど安全性だけは凄い車だぞ。かなりのスピードで突っ込んだんだけど、俺かすり傷一つなかったからな。メルセデスじゃなかったら今頃俺の頭の上にはワッカが付いてただろうな」 「もううっすらワッカが見えてるよ。それで今何乗ってるんだ?」 「ダッジバイパー」 「奢侈な野郎だ」 「シャシってなんだ?」 「お前は相も変わらずモノを知らねえな。贅沢って意味だよ贅沢!たまには本の一冊も読めよ」 「本なんか幾ら読んだって銭にならねえから読まねえよ。それよりなんだ!テメエこそ気取った言葉を使いやがって。素直に贅沢って言やあいいじゃねえか贅沢って」 「しかしまあ、AMGをぶっ潰してダッジバイパーに乗り換えるって、随分と景気の好い話だな。お前のそのお見合いパーティー企画業ってのはよっぽど儲かるんだな」 「なんか棘のある言い方だな。俺が悪い事して稼いでるみたいじゃねえか」 「そうだよ、だから俺は詐欺みたいなもんだって言ったんだ」 「あっ、お前また詐欺って言いやがったな!もう一度言ったら承知しねえぞ!」 「上等だ。大抵の人間はな、後ろ暗い、痛い所を衝かれると己を正当化しようと必死になるんだな。お前もまだまだ半ちく野郎だ。俺なんかな、相手に何を言われようと全て認めてしまうんだな。その通りですってな。だから他人に何を言われても動じないでいられるんだ」 「また何時もの小理屈が始まったな。つまらねえ野郎だ」 「そうだ。俺はつまらない人間だ」 「あー憎たらしい!」 「仰せの通り。俺は憎憎しい人間だね」 「くそったれ!気に入らねえが今日のところは勘弁してやろう」 「勘弁して頂かなくて結構」 「勝手にしろ!ところでな、今度年収2000万以上の男を集めてな、それに群がってくる女とのお見合いパーティーをやるんだよ」 「ほーう」 「それでな、まあとにかく年収2000万以上だからさ、BGMに生の弦楽四重奏かなんか入れたいわけよ。クラシックってやつな。そこでだ、お前にその弦楽四重奏団を紹介して欲しいんだよ。お前そういうの知ってるだろ?弦楽四重奏できる奴ら」 「知ってるよ」 「じゃ、紹介してくれよ」 「ヤダね」 「即答でNGはねーだろ。ホントテメエは冷てえ奴だな」 「俺が冷たいって事はさっき既に認めてるだろう。何度も言わなくても分かってるよ」 「はいはい、わかりましたよ。まあ、四の五の言わずに兎に角紹介しろっ、弦楽四重奏をさ」 「詐欺の片棒担ぐのは御免蒙るね」 「だから詐欺じゃねえって!こりゃあ歴としたビジネスなんだよ!」 「ビジネスねえ。大したもんだよ蛙の小便。じゃあな、紹介しても良いが条件がある」 「金か?金なら少ししか出せねえぞ。お前にがっぽり取られたら俺の儲けが少なくなっちまうからな」 「バカ野郎。お前みたいな吝嗇から金を取ろうなんて考えてねえよ」 「じゃあ何だ。何が条件なんだ?」 「、、、、、、、俺をそのお見合いパーティーに参加させろ」 「おいおい、お前無茶言うなよ。俺の話聞いてなかったのか?年収2000万以上の男しか駄目なんだぞ。お前みたいな貧乏人無理に決まってるだろ!それにお前昔っからパーティー毛嫌いしてたじゃねえか!無理無理」 「見損なって貰っちゃあ困るぞ。俺が鼻の下伸ばして本気でお見合いしようとなんて思ってるわけねえだろ。俺はな、見合いなんてものをしなけりゃ女の一人も捕まえられない様な年収2000万以上のむくつけき男にだよ、どんな馬鹿面提げた女達がたかって来るのか見てみたいんだよ。向学の為にな。この目で」 「そりゃな、確かにお前の言うとおり面白えもんだよ。俺もな、一応司会者って立場で何時も現場に居るけどな、それはそれは腹抱えて笑いたくなるような事もしばしばだよ」 「それみろ、やっぱり面白えんじゃねえか。詐欺師の馬脚を露しやがったな!参画せんとの思い益々強くなりけり。参加させろ」 「うーん、困ったなあ。どう見てもお前が年収2000万以上の男というには無理がある。だいだいお前はその風情が貧乏臭えんだよ。なんて言うのかなあ、そこはかとない貧乏臭さが体に纏わりついているっつうのかな。しかしなあ、弦楽四重奏団を紹介してもらわなきゃマズイしなあ。あ、それにお前タキシードとか持ってんのか?」 「タキシードぐらい持ってるよ。昔浅草橋で買った赤いやつ」 「ホントにテメエは人を舐めてんな。赤のタキシードだと?そんなもん今時キャバクラの呼び込みだって着てねえよ。お前は高島忠夫か!このバカ!」 「まあさ、なりなんてどうでもいいじゃねえか。端っこの方で大人しくしてるからさ。参加させろよ」 「仕方ねえなあ、ホントに大人しくしてろよ。なんかちょっとでもやらかしたらつまみ出すからな!」 「はい、大人しくしています」 とまあ斯様な顛末の後、私は『年収2000万オーバージェントルマンVSそれに群がるフーリッシュレディのお見合いバトルパーティー』の末席を汚す事になったのである。端からタキシードなんぞ着込んで行くつもりはなく、私は銀座のザラで買った3000円位のポロシャツにマッコイズのジーンズ、それにミルリーフのスニーカーという恐ろしくラフな出で立ちで会場に向かった。ただ、いくらなんでもこのザマで年収2000万以上と言い張るには説得力に欠けると考えた私は、時計コレクターの金満友人からゴールドのパテックフィリップを無理矢理拝借し、ちゃっかり右手首に巻き付けていたのである。さて、会場である都内某ホテルに着くとその入り口で、「おいJ!ちょっと待て!お前どっかで着替えるんだろうな!まさかその恰好で入ろうったって俺が入れねえぞ!ドレスコードってもんを知らねえのか!」、と企画及び司会者である愚友から待ったがかかった。「まあ、待て待て。落ち着きたまえ。私の右手首を見たまえ、ほれ!」 「あ!パテック!スゲエ!お前こんなの持ってたの?」 「ふふふ、恥ずかしながら借り物です。でもさ、このカジュアルな服装にパテックってのがそれとなく年収2000万以上の雰囲気を醸し出してるだろ?」 「うむむ、そう言われてみればそう見えんこともないような気がするなあ」 「そうだろ?俺だってちゃあんと考えて来たんだ」 「そうか、じゃ、その借り物のパテックに免じて入場を許可する」 「偉そうな言い方しやがって。今日の弦楽四重奏は誰が呼んだと思ってるんだ!」 「わかってるよ、感謝してるよ。ところでお前車何処に停めてきた?」 「車?自転車だよ自転車。通りの標識にくくり付けてきた」 「お前なあ、みんな運転手付の車で来てるんだぞ。お前にそこまで要求しないけど、せめてハイヤーで来いよ。誰が見てるか分かんないぞ」 「それは気が付かなくてスマンスマン。つい何時もの癖で自転車に跨ってしまった」 「まあ兎に角名札付けて中に入って座ってろ。一番奥の端だぞ端!」 「了解了解」 私が会場に入ると既にメニーマニージェントルマンはお揃いの様で、その人数は6人。私を入れて7人である。思っていたより年齢層は高い。皆40代後半以上と見られ、どう見ても私が一番年下だ。私は軽く会釈をしながら自席に着いたが、特に誰も私の服装を気に留めることも無く談笑を続けていた。司会である愚友のアナウンスが入った。「それでは皆さん。男性陣がお揃いの様ですので、女性陣に入場していただきます。拍手でお迎えください!」 パチパチパチパチ。来ました!来ました!馬鹿馬鹿しいくらいに着飾った乞食根性丸出しのタカリ女達がぞろぞろと!数えたところ11人。御面相にバラつきはあるが年齢層は男性陣に比して若い。25~30歳前後といったところか。女性陣着席の後、お互いに簡単な自己紹介を済ませ軽い食事が始まる。向かい合わせに座った男性陣と女性陣。明らかに場違いで貧相な私に話しかけてくる女性などいないだろうと、チーズでも齧りながら末席で聞き耳を立てるのを楽しみにしていたのだが、それは甘かった。男性陣より女性陣のほうが人数が多い為、どうしても止むを得ず私のようなカス男にも話しかけてくる。その勢いたるや、まあ貪欲なこと凄まじい。(さては、これが近頃巷で噂の肉食系女子って奴だな) 「初めましてEです」 「あ、どうも初めましてYです」 「素敵なデザインのポロシャツですね」 「えっ、これ安物ですよ。銀座のザラで3000円くらいで買ったんですよ」(あっ、イカンイカン、ホントのこと言っちゃったよ。貧乏がバレちゃうよ) 「え~、でも似合ってれば値段なんて関係ないですよ~。とってもお似合いですよ」(けっ!この女かなり場馴れしてるな) 「安物着ててもそんな風に言ってくれるなんて優しいなあ、ハハハ」 「どちらにお住まいなんですか?」(はい、出ました。いきなりの資産チェック) 「広尾です」 「すごお~い!広尾なんて住んでみたいな~」(ウソに決まってんだろアホ!) 「昔から広尾なんですか?」 「いえ、生まれたのは成城で、ずっと成城に居たかったんですが仕事が忙しくなってきたので都心に近いほうが便利かなあと。それで6年前に広尾に家を建てたんです」 「えっ、一戸建てなんですか~、素敵すぎる~」(大ウソだよ大ウソ。バーカ) 「車屋さんって言ってましたけど、やっぱり車好きなんですか?愛車は何ですか?」(ったく、このバカ女金目の物にしか興味ねーのかよ!) 「勿論車は大好きですよ。僕の愛車はブロンプトンです」 「へえ~、ブロンプトンっていう車があるんですね!知らなかった~外車ですか?」(ブロンプトンは車じゃねーよ!チャリだよチャリ!) 「イギリス車です」 「イギリス車っていうとジャガーとかアストンマーチンしか知らなかったです~。私車のことあんまり詳しくないから」(だからチャリだっつーの!) 「ブロンプトンって速いんですか?」 「まあ、それは乗り手の腕次第じゃないでしょうか」 「Yさんって車屋さんだから運転上手いんじゃないですか?速そう」 「僕がキレると速いですよ」 「キレると速いって、、、、Yさん面白い~」 「いや、別に笑わせようと思って言ったんじゃなくて、僕がキレると速いってのはホントですよ。外堀通りのね、水道橋から御茶ノ水にかけての上り坂なんて、ブロンプトンでグイグイ上っちゃいますね」 「あの~、さっきから気になってたんですけど、その時計パテックフィリップですよね?」(この銭ゲバ女め!やはり目ざといな。始めから気付いてやがる!) 「そうです。二十歳の誕生日に祖父からプレゼントされた物です。それ以来ずっと使ってます。もう古いばかりで」 「そういうお話って素敵ですね。良いものを永く使うってすばらしい事だと思うんです」(おいおい、こんな成金時計ウチのジーサンが買ってくれる訳ねーだろ。ウチのジーサンは俺が二十歳の時にゃ既にあの世に逝ってたよ。ダチに無理矢理借りてきたんだよ!このオタンコナス!あー、もういい加減バカらしくなってきた。適当なところで切り上げよう) 「すみません。ちょっと御不浄に失礼します」 私は手水場に行くふりをして席を立った。入り口付近でタバコを吸っていた司会者愚友を捕まえ、「いやー、堪能させてもらったよ。面白かった」 「なんだ、もう帰るのか」 「うん、もう十分十分。あんな金の亡者のすれっからしバカ女とな、これ以上話してるとこっちの脳ミソまで腐っちまいそうだよ。大変勉強になりました。ありがとよ」 「まあ、お前は元々ここに居る筈のない男だからな。帰るなりなんなり好きにしろよ」 「はい、では御暇致します。ではこれにて」 「じゃあな」 私は愛車ブロンプトンに跨り会場を後にした。短時間とは言え、物乞い女達との陰湿な戦いに疲れ果てた私が帰路、水道橋から御茶ノ水にかけての上り坂を、愛車ブロンプトンで全く上れなかったのは言うまでもないだろう。それにしても、浮世とは謎多き園である。あんな寄生虫の如き女たちと所帯を持たんとする男達が蠢いているのだから。破鍋に綴じ蓋、蓼食う虫も好き好き、といったところでしょうか。
清爽な悪
幼少の頃より、私は苦しい事や辛い事、嫌いな事、要するに精神的或いは肉体的苦痛を伴う行為から徹頭徹尾逃げ回ってきた。逃げて逃げて逃げまくってきた。少し取り組んでみて出来そうにない事は即座に諦め、面倒な事は全て他者に任せ、ちょっとでも気に入らない物は張り倒されても絶対に食べず、叱られそうになるとその場から消える。家にクーラーなる物が導入された時は衝撃的だった。私の幼時は、クーラーと言えばデパートかタクシーにしかなく、自宅にクーラーがある奴は一定度の金持ちだった。あの夏の卒倒しそうな暑さから放免され、クーラーの清涼感や快暢を我が家で味わえる事は、著しい怠け者の私にとってこの上ない僥倖であった。爾来、夏はクーラーがある部屋から殆ど出ようとせず、冬は常時炬燵に潜り込み顔だけを外に出してほくそ笑んでいた。こういった生活態度を如何にたしなめられようとも頑として譲らず、決して革める事はなかった。であるからして、自分の眼前で繰り広げられるありとあらゆる光景が不思議で仕方がなかった。何故逆上がりをやらなければならないのか。出来ないと何か問題でもあるのか。何故跳び箱を跳ばなければならないのか。跳び箱を跳ぶ事に何の意味があるのか。痩せている子供は易々とこなし、肥満児が出来ないのは当たり前であるのに、何故肥満児に逆上がりを無理強いし、跳べる訳がない跳び箱に挑ませるのか。いくらやっても出来ない事は誰が見ても火を見るより明らかなのに、それを皆の前で繰り返しやらせるという事は、単なる嫌がらせではないのか。休み時間になると校庭に飛び出し、暴れまわる友人達を教室の窓から眺め、なんの必要があってあんなに奇声を上げて暴れるのか理解できなかった。給食も嫌だった。ブタの餌を入れる様な食缶で運ばれてくる料理は、とても人間の食べ物とは思えず、使われている食器もまるで刑務所の囚人にあてがう様な物で、何故自分がこんな屈辱的な状況で食事をしなければならないのか得心がいかなかった。朝礼、運動会の練習、卒業式の練習、マラソン大会、草むしり、全て逃げた。夏休みの宿題など殆どやった事がない。担任の教師に怒鳴られようが、ビンタされようが全面拒否してやらなかった。運動会や卒業式などは、練習しなければならないような性質のものではない。式次第をトラブルなく円滑に進行させようとする先生達(大人)の都合を子供達に押し付けているだけなのだ。大量の宿題を強制される様な夏休みは、ちっとも休みではないではないか。そもそも、何故毎日毎日学校に行かなければならないのか判然としなかった。学校などというものは、読み書き算盤だけ教えてくれれば十分、あとは余計な御世話、お節介なのである。そうだとすれば週に三日も行けば十分事足りるだろう。友達が多い事は善いことで、少ないことは悪い事。勉強が出来る子は良い子で、出来ない子は頭の悪い子。そんな事は持って生まれたものなのだから仕方ないではないか。内向的な性格も、頭の悪さも動物的遺伝である。父親がヤクザだったり、母親が売春婦だったりしても、それは子供のせいではないのと同じだ。そして、ここまで述べてきたような画一的で浅短な、教育という美名のもとに遂行される洗脳を受ける事が、私は嫌で嫌でしょうがなかった。したがって、好きな事だけに注力し、苦しい事、苦手な事から逃げに逃げて来たのである。私も既にオヤジと言われて久しい齢であるから、遂に逃げ切ったと言ってもよかろう。その結果私はどうなったか。幼少の頃から、苦難を避け逃げ回ってきた事に起因する問題が何か発生したか。答えは否である。はい、特に何も問題はありませんでした。オマエは本当に救いようのないバカだ。オマエみたいな卑怯な奴はいつかきっとバチがあたるぞ。オマエの将来は野垂れ死にだ。そう言われてきたが、実際はそうでもなかった。要するに、好きな事のみに没入していれば、その他の苦難や煩雑な事象から全て逃避しても、全然オッケー!なのである。ただ、こういった私のような生き方をするには、一般的に言って少々強い精神力が要求されるようだ。他者から誹謗中傷を受けたり、批判、批難されたりするとすぐにカッとなったり、反対に憔悴したりしてしまう者には無理であるからお勧めしない。そういう者は先生の言うことをよく聞いて良い子でいるしかない。しかし、斯く申す私も実はさして強い精神力を保持している訳ではない。私の場合はやや変わっている様で、他者からの誹謗中傷罵詈雑言批判批難を難なく認めてしまうのである。バカヤロウ!と言われれば、そうだよなあ、俺はバカだよなあ、と心から思うし、この卑怯者!と言われれば、そうか、俺は卑怯な人間なんだ、と率直に認諾する。私は、自分がバカで卑怯で陰湿で狡猾で臆病な人間であることを遥か昔から自認しているから、それを他者から指弾されても黙諾するしかない。そんな分かりきった事を、子供の時から言われてきた事を、いくら面罵されても立腹の余地はないのだ。その通りなんだから。そしてそんなことよりも、私を批難する相手の思考回路や精神構造の方に興味が湧くのである。この人にはどういった背景があり、いったいいかなる事由で私を批難しているのか。その精神の奥底に、澱になり溜まっているものは果たしてルサンチマンなのか、いやそうではないのか。つまりは君主道徳に属するものなのか、奴隷道徳に属するものなのかといった事がどうしても気になってしまう。私にとってはそういう事が極めて重要なのです。私はこのブログで、世の中において社会通念上(私が最もバカにしている言葉ではありますが、大変便利な言葉ですので時々利用しています)、善とされている事を鵜呑みにし、盲信する行為の危険性を様々な角度から訴えてきましたが、「逃避」という社会通念上悪とされる行為も、実はその手法によっては大変価値あるものに変わりうる可能性を内包している事に気付くべきだと思うのです。ただしかし、東電の前社長清水正孝の様な逃げ方はいけません。カッコ悪すぎる。頭が悪すぎる。みっともないったらありゃしない。同じ逃避であってもスマートにクレバーに、気が付いたら「あれっ、アイツ居ないね」と言われるような逃げ方こそ本物の逃避なのです。さあ、貴方も逃げましょう!苦手な事から、嫌な事から、辛い事から、ドンドン逃げましょう!そして得意な事だけに専念しましょう!辛い仕事から、嫌な上司から、小遣いを3万円しかくれない妻から、勉強もろくに出来ないくせに大学に行きたがっている子供から、手切れ金を要求されている愛人から、借金取りから、警察から、逃げて逃げて逃げ切ってやりましょう。逃げ方が分からない人は、遠慮なく私にお問い合わせ下さい。喜んで御指南致します。しかしその結果、貴方が乞食になっても、匕首で刺し殺されても、地下鉄のホームから突き落とされても、私は一切責任を負いませんし、その事について関知致しません。何故なら、それは貴方に「逃避」の才能が無かっただけの事なのですから。そして、自分の行為の結果は全て自分に責任があるという態度がとれる事が大人という事なのですから。
悪魔との対話
月に何度か仕事の後に訪れている児童養護施設での事である。子供達に器楽演奏の指導をしている私の背後で、一人の男子が施設の先生に叱喝されていた。「何か悪戯でもしたのだろう」、私はさほど気にする事も無く、指導を続けていた。すると程なくしてその先生が男子に向かって、「お前は自分さえ良ければそれでいいのか!」、と怒声を上げたのである。これはいけない。聞き捨てならない。私の耳に入る様な状況で、こいういった愚昧で決まり文句の様な科白を吐いてはならない。思慮が浅く愚かなこの先生は、私の逆鱗に触れてしまったのである。「皆さん、一所懸命に練習しているところ申し訳ありませんが、手を止めて私の話を聞いて下さい。世の中には、音楽などよりもずっと大切な事があります。今、私の後ろで、先生が赦し難い嘘を言っているのが聞えました。それを聞き流す事はできませんので、今日は楽器の練習をやめてその話をします」私は愚かなる先生に詰め寄り、「貴方は今、その子供にとんでもない嘘をつきましたね!聞えてしまった以上、私はそれを赦す事が出来ません。貴方の様な低劣な思考回路しか持たない人間に子供を教育する資格などありません。頭を丸めて明日にでも出家したら如何ですか」 「何をいきなり失礼な!Yさんはこの子が何をしたか知っているんですか!余計な口出しはしないで下さい!」 嗚呼、哀れなり。この蒙昧先生は自分か如何にバカな事を子供に言っているのか全く解っていない。このレベルで脳の発達が止まってしまった大人と話をしても不毛である。 こういう人は社会に対して何の疑問も抱かずに生きてきたのであろう。 「お前は自分さえ良ければそれでいいのか!」 そうである。それでいいのである。何故なら日本は資本主義国家だからである。市場原理に基づく資本主義社会とは、「自分さえ良ければいい」 という原理原則によってのみ成立しうる。「自分さえ儲かればいい」 「他人などどうなっても構わない」。甚だ残念ではあるが、これが資本主義社会の正体であり、動かし難い現実だ。そもそも資本主義とは、数の決まった椅子を奪い合う椅子取りゲームではないか。誰かが儲かれば、必ずそれより多くの人が損をしている。資本主義経済社会において共存共栄など完全な絵空事、全く以て不可能なのだ。聞こえの良い、しらじらしい社是を対外的に掲げている企業も、常にライバル企業を蹴落とす事に血道を上げ、あわよくば潰れる事を願っている。会社の中でもそうだ。大企業の社長ともなれば、平社員の数百倍の給与を手にしている。F1レーサーや売れっ子の芸能人であるなら兎も角、一人の人間の労働力など大して差は無い筈であるのに、これはちょっと貰い過ぎだろう。社長自ら、社員と一丸となって汗を流して働いている中小零細企業の社長は別として、大企業の社長は、「自分さえ良ければいい」という原理原則で動いている資本主義社会に最も上手く適応した人間であり御手本なのである。私の親族にもそういう社長がいた。仕事が出来、人望もあり、ここぞという時には大胆な決断を下し、そつなく成果を上げる。豪放磊落でありながら時折細やかな気遣いを見せるという嫌らしい人誑しの術も勿論身に付けている。部下をとても可愛がると同時に慕われている。しかし、如何にこういった好人物を装ってはいても、腹の底では「自分さえ良ければいい」と思っているのだ。何故なら、彼は自社の社員が毎日満員電車に揺られて痛勤している事を知りながら、自分は運転手付きのレクサスで悠々と出勤しているからである。昼休みに社員が吉野家に行列しているのを尻目に、自分は取引先の社長と旨い物を食っているからである。社員が立ち呑み屋で憂さを晴らし、終電に駆け込まんとしている時に、自分はレクサスのコノリーレザーのリヤシートに身を沈めて鼻提灯を膨らまし、目が覚めれば世田谷の豪邸に着いているからである。こういう行為は、普段から「自分さえ良ければいい」と思っているからこそ出来るのであるし、レクサスのスモークガラスの向こうに、土砂降りの中傘をさして歩く社員を認めても「俺は社長で奴は平社員だ。悔しかったら社長になってみろ。だからこれでいいのだ。自分さえ良ければそれでいいのだ」と言えるからこそ出来るのである。或るラーメン屋は、向かいのラーメン屋に行列が出来ている事を妬み、ある鮨屋は、向かいの鮨屋が食中毒を出すと喜ぶ。受験とてそうだ。「自分さえ東大法学部に合格すればいい」のであり、「自分さえ慶応の経済に受かればいい」のであり、「自分さえ早稲田の理工に合格すればいい」のだ。「えっ、貴方も東大の法学部受けるんですか。そうですか、、、ただでさえ倍率高いですからね、じゃあ私は受けるのやめますから貴方どうぞどうぞ」なんて言う人は居る訳ないのである。私だって、貴方だって、「自分さえ良ければいい」人として生きている。貴方は宝くじを買う。そう、「自分さえ当たればいい」。外れた人に「貴方外れたんですか。御気の毒に。可哀そうだから私の当選券差し上げますよ」とは絶対に言わない。私は目当ての人気割烹に走る。そう、「自分さえ呑めればいい」。後から来て入れなかった客に「あれ、満席みたいですね。それでは私は遠慮しますので、貴方ゆるりと呑んで下さい。ささっ、如何にも」とは口が裂けても言わない。「自分さえ一流企業から内定をもらえればいい」し、「自分さえ高収入の男と結婚できればいい」。「自分さえ良ければいい」から、戦争がおこる。真実や本質を覆い隠し、建前や理想だけを子供達に押しつける事は、到底教育とは言えない。人間とは美しいものでも崇高なものでもなく、下品下劣で醜く、利己的で身勝手な惨たらしい生き物である事を子供達に徹底して叩き込むのが教育の第一歩なのである。そして大人達がライバルの不幸を願い、金に振り回され、欲得ずくで見苦しく這いずり回る資本主義社会のさもしい実態やその惨状を嫌と言うほど見せつけるのだ。このように、人間が根源的に内包する浅ましさや破廉恥性を子供達に強烈に自覚させ、その上で、地獄の如き浮世を如何に生きるべきかを自分の脳で考えさせる事こそが真の教育とは言えないだろうか。思いやりや謙譲といった、似非教育者が金科玉条の如く宣う精神は、自分と極近しい対人関係の範囲でしか通用しない。全ての人を思いやり、全ての人に先を譲れば自分が生きる方処は無くなる。この世に正義など存在しない。欺瞞と裏切りで充満している。だからこそ、人間とはどうあるべきなのかを、子供であっても誰に頼る事無く、自身の脳で勘考し考え尽くさなければならない。こういう話を、私は子供達が何とか理解出来るレベルまで噛み砕き、時間をかけて話した。一時間くらい話したであろうか。私が話をしている間、子供達は最後まで一言の私語も発せず、真剣な眼差しで話を聞いていた。話が終わると子供達は私に問いかけてきた。「大人は大変なんだね」 「うん、凄く大変だよ」 「生きてて楽しい?」 「楽しくなんかないよ」 「苦しい?」 「苦しくて苦しくて逃げ出したくなるよ」 「なんで逃げないの?」 「何処へ逃げても結局同じだからだよ」 「どうしたら苦しくなくなるの?」 「死ぬしかないね」 「じゃあ死んじゃえば?」 「そうだね、別に今すぐ死んでも良いんだけどもう少し後にするよ」 「どうして?死んだら苦しくなくなるんだったら今すぐ死んじゃった方がいいじゃん。なんで後にするの?」 「今すぐ死ぬのは怖いからだよ」 「死ぬのが怖いから生きてるの?」 「その通りだよ。おじさんは死ぬのが怖いから、死ぬ勇気がないから生きてるだけなんだよ。ただね、もう少し色々な事を勉強すれば、死ぬのが怖くなくなると思うんだな。それで死ぬのが怖くなくなったら、おじさんは死ぬね」 「死ぬと楽なの?」 「そりゃあそうだよ。全ての苦痛から解放されるんだからね」 「解放ってどういう意味?」 「自由になるってことだよ」 「自由って楽しいの?」 「どうだろう、それはおじさんにも解らないよ」 「どうして?」 「おじさんは死んだ事がないからだよ」 「大人になるの嫌だな」 「おじさんも嫌だよ」 「だっておじさんはもう大人でしょ?」 「そう、だから自分が嫌なんだよ。でもね、君達子供だって悪魔なんだよ。君達はまだ未熟だから大したことは出来ないけれど、頭の中では悪い事を一杯考えているだろう?ズルイ事ばかり考えているだろう?おじさんは知っているよ。おじさんだって昔は子供だったんだからね」 「僕はズルクないよ!!」 「いや、君はズルイね。ズルイ筈だ」 「なんで!!ズルクなんかないし、悪い事もしていないよ!!」 「気をつけた方がいいね。自分が正しいなんて思いこむ事は最も恐ろしいことだよ。人間は皆ズルイし悪いものなんだ。だからね、そのズルサや悪さをどうやって押さえ込むかが大切なんじゃないかな」 「どうすればいいの?」 「それはどんなに時間がかかっても自分で考えるしかないね」 「教えてくれないの?」 「嫌だね」 「おじさんは意地悪だね」 「そうだね、とても意地悪だね」 「友達に嫌われるよ」 「友達はいないよ」 「ふーーーん」 おわり。
屑の一分
東京電力前社長清水正孝は、人類史上最大最悪の福島第一原子力発電所メルトスルー事故を発生させておきながら、事故当時、刻々と悪化の一途を辿る事故現場から事故収束作業員を全員撤退させようとした。メルトダウンどころか既にメルトスルーという人類が嘗て経験した事の無い驚駭の事態に陥っている事実を知った清水は事故を放擲し、東電社員諸共、尻尾を巻いて現場から逃げ出そうとしたのである。「無責任」、「卑怯者」といった言葉は、正に清水正孝の為に存在するのであろう。これを聞いた前首相菅直人は激昂し、東電本社に乗り込み「撤退などありえない。命がげでやれ」と東電幹部社員を一喝した。この一件は、各メディアによって広く報道されただけに、読者諸賢も須く存知している事だろう。この一点のみをとっても、私は菅直人という男に首相としての及第点を与えたい。加えて、福島第一原子力発電所メルトスルー事故という未来永劫取り返しのつかない大人災と引き換えにしても、脱原発を宣言した事は大きな足跡として一定の歴史的価値を認めても良いのではないだろうか。私は常々、政治家とは一人の例外も無く全て人間のクズだと断じているから、菅直人とてそのクズの一員としか思っていない。しかし、東電とドブン、ザブン(官僚が使う隠語。意味は文脈から解りますね)の関係にある他の民主党議員が内閣総理大臣であった場合、果して菅と同様の決断が可能だったであろうか。ましてや、党自体が東電と切っても切れないズブズブの愛人関係にある自由民主党が政権を担っていたとしたら、如何なる手段を講じても東電を原発を擁護したに違いない。このような事実を鑑みれば、菅直人というクズもまあ少しは気概を見せたのだと考えてもあながち間違ってはいないだろう。さて、過日出張先で投宿した安旅籠にて、寝台に転がりながらテレビのスイッチを入れると、引き摺り降ろされたばかりの菅直人が、利口そうに見えて実はノータリンの女性キャスターから単独インタビューを受けていた。インタビューの内容自体は実の無いものであったが、私はなんとなく見続けていた。すると或る時菅の顔がアップになったのだが、その時私は息を呑んで飛び起きた!なんと、菅の左の鼻の穴から申し訳なさそうに太い鼻毛と細い鼻毛が一本ずつ計二本飛び出していたのである!菅の鼻の穴は大層小さく、その飛び出していた二本の鼻毛も、常人であれば何ら気付かず見落としてしまうレベルであったが、私はそれを毅然として赦さなかった。なにしろ、実は私は全三巻の大著『鼻毛飛び出し論』の著者であり、鼻毛飛び出し論そのものの創始者なのである。私の鼻毛飛び出し論を知らぬ者は、己の無知を恥じて欲しいところだが、寛大な私は簡潔に御説明差し上げる。『鼻毛飛び出し論』の主題は、自分が相対する者の鼻の穴から鼻毛が飛び出ていた場合に、どう対処する事が道徳的善、及び倫理的善であるかを哲学的見地から精緻かつ徹底的に分析し論じたものである。そのスケールたるや極めて壮大で、ヘーゲル体系をもあっさりと凌駕する程の比類なき広がりを持っている。また、その難解さも極め付きで、カントの「純粋理性批判」に比肩、或いは凌駕する水準と言われており、『鼻毛飛び出し論』を読み解くには、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル等のドイツ観念論は勿論、フォイエルバッハ、エンゲルス、マルクスの唯物論やクロポトキン、プルードン、バクーニンといったアナーキズムまでを精確に理解し、身に付けていることが最低条件となる。そして、『鼻毛飛び出し論』は従来の哲学的常識を遥かに超越している。観念論と唯物論の間を縦横無尽に行き来し、その時の都合の好い方にめまぐるしく主張が変節する為、その哲学的立場も曖昧模糊としている事や、論理の飛躍が著しく、少しでも気を抜いて読もうものなら何を言っているのかさっぱり分からなくなってしまい、支離滅裂に感じてしまうのだ。更に、『鼻毛飛び出し論』は、私が最も得意とするスワヒリ語で書かれている事も、その難解さに輪をかけている。『鼻毛飛び出し論』とは、斯くも厳しく激しい超難解書なのである。菅直人の僅かに飛び出た鼻毛を断じて見逃さなかった私は、自らの犀利で機敏な心神が保持されている事を自負したと同時に、自身の胸中に『鼻毛飛び出し論』に対する熱い情念が、未だぐらぐらと滾っている事実を改めて自覚した。旅先で見たテレビの中に、元宰相の飛び出し鼻毛を目敏く発見するという偶発的な事象ではあったが、これを奇貨とし、遂に私は『鼻毛飛び出し論』を更に発展させ、『鼻毛飛び出し論』とは対極的視座からそれを論ずる『実践鼻毛飛び出し論批判』(『鼻毛飛び出し論』第四巻にあたる)の執筆に着手する事を決意したのである。これは持論を自ら批判するという無謀とも言える挑戦であり、悲惨な結末になるのではないかと按ずる向きもあるかと思うが、どうか私を止めないでほしい。何年かかろうと、艱難辛苦を乗り越えて、何としても私は脱稿する所存である。そして、私の『鼻毛飛び出し論』に対する情熱を再燃させてくれた前内閣鼻毛飛び出し総理大臣、菅直人に万謝を捧げたい。菅直人の飛び出した二本の鼻毛に、私は屑の一分を見たのである。皆さん、私は自分が何故こんな事を書いているのか解らなくなってきました。そういう事情でありますから、本稿はこれにて仕舞と致します。ごきげんよう。
新たなる課題の発生
湯にも入った!腹も減ってる!左手も震えてきた!よーし!何時もの調子だ!煙草と携帯と僅かばかりの酒手を小さな呑み呑みバッグに入れる。「きょうのーーーーーしごとはつらかったーーーーあーとはーーーーしょうちゅうー(チャンチャン)あおるだけーー。なんか余にぴったりの唄じゃのう。岡林信康って好い詩を書くなあ。さてと、今宵は清濱で走りの土瓶蒸しでも喰うかな」 割烹清濱の暖簾を目途に、美禄を焦るあまり蹴躓きそうになりながらも小走りで、大字日本橋字堀留村椙森神社を抜けようとしたその刹那!漆黒の闇に浮かぶ何やら奇怪な人影が二つ!ややっ!賽銭泥棒か!!私は鞍馬天狗よろしく翻り、玉垣の陰に身を潜めた。息を殺して玉垣の間から賊を窺うがさしたる動きは無い。さては、、、掠めた賽銭でも勘定しているに違いない。いくら浮世が不景気とは言え、賽銭を掠め取るとは不届き千万。字堀留村の岡っ引き、このジロ蔵が成敗してくれる!「やややぁ!!火付け盗賊許すまじ!」頃合いを見計らって賊の面前に躍り出た。しかしながら二人の賊に動きは無い。此奴、このジロ蔵の見参にも怯まぬところを見るに、かなりの大物。並みの賊ではない。ますます怪しい。心してかからねば。「えいっ!これでも食らえ!」 ジロ蔵のシュアファイアーM6(強力な懐中電灯です)が火を吹いた。「ピカリ!」 シュアファイアーM6の無慈悲な閃光が闇夜を切り裂き、賊二人の面体を容赦無く照破した。「ああぁぁ!!」 なんとふしだらな!二人はチューをしていますよ!しかもかなり強烈に。しかもユーカリの木にしがみつくコアラの様にしっかと抱きあって。うぬぬ、、、、。この罰当たりめ。事もあろうに大字日本橋七福神の一つ、江戸富籤発祥の地、字堀留村椙森神社恵比寿の神の御前にて接吻なる淫らな行為に及ぶとは何たる恥知らず。賽銭泥棒より質が悪い。何としてもこの破廉恥行為をやめさせねば。しからばこうしてくれよう!ジロ蔵は疾風の如く神社の階段を駆け上がり、鈴の緒を諸手で掴んで揺らし、力一杯大鈴を鳴らしてやった。「ガランガランガラガラガラーン!!!」字堀留村椙森神社晩夏の宵、二つの大鈴の音が静謐を打ち破る! これには熱烈接吻不埒者二人も流石に参ったらしく、おもむろに身を離し、こちらに眉目を向けた。その面相を検めようと、ジロ蔵は再応シュアファイアーM6で憤怒の撃光を浴びせる。「ピカピカピカリ!!」先程まではチューをしていた為に接吻賊の横顔しか見えなかったが今度は真正面。チューチューラバーズの顔貌が闇夜にくっきりと映し出された。「あわわわわ!」 これがまあ何と申しましょうか、どうしたらこんな顔の女が生まれてくるのかオトータマ、オカータマに詰問したくなる程の、もんの凄いブス。歳の頃なら中年間、カツラを被ったオオサンショウウオの様な顔でふてぶてしく此方を睨んでいます。写真でも撮ろうものならカメラが壊れてしまいそうな形相です。片や男の方はと言えば、これまた何か退っ引きならぬ悩みでも抱えているのでしょうか、脱毛症の鶏の如く貧相極まりない輩です。斯様な、世にも稀に見る醜女醜男による炎の接吻を目撃してしまったジロ蔵は、誂えたばかりの草履で犬のウンコを踏んでしまった時と同様の、哀しくも虚しく切ない心持ちとなってしまいました。しかし、これ程までの醜劇を見せつけられても引き下がらないのがジロ蔵。萎える気持ちを奮い立たせて一喝した!「あのー、、、、シモシモ、、、其処の御両人シモシモ、、、、、。お取り込みのところ失敬致すが、此処は由緒正しき神社でありますぞ。神様の前でその様な卑猥な情事に没入するとは何たる事ぞ!恥を知れ!恵比寿の神もさぞや悲しんでおられるじゃろう。情史情話は即刻結了とし、直ちに此の場を立ち去れい!!」 するとカツラオオサンショウウオ、「何よ!このオッサンバカじゃないの!」ときた。貧脱毛系鶏男は身じろぎもしない。常時のジロ蔵であれば、すかさず反駁の怒号を浴びせるか、百叩きを呉れてやるところだが、何故か押し黙ってしまった。ジロ蔵には、先程のカツラオオサンショウウオの反撃の中に、「カツラオオサンショウウオがチューしたって良いじゃない!何が悪いのよ!」という被抑圧者の痛切な心の叫び、或いは声なき声が聞えてしまったのである。「そうか。確かに某はバカかもしれぬ。では好きになされよ」 ジロ蔵は、憤然と立ち尽くすカツラオオサンショウウオと、おどおどした脱毛鶏の面前を横切り、清濱に向かってトボトボと歩みを進めた。その晩は、あまり酒も進まず、早々に清濱を切り上げ床に就いた。翌晩、ジロ蔵は気を取り直して近傍の鰻屋へ足を運んだ。鰻が焼けるまでの間、肝焼きで酒を舐めていると、「あっ!!!あれは!!」 奥の板場にカツラオオサンショウウオらしき影が!いやいや何かの間違いだろう。ジロ蔵は高鳴る鼓動を押さえつつ思案する。此処はもう十年近く通っているが、カツラオオサンショウウオなど今まで見た事は無い。それに家族経営で、主人は何時も他人を雇うのは嫌だと言っている。一緒に働いているのは息子夫婦の筈だ。やはり見間違いだろう。昨夜の一件が尾を引いているな。っと思ったら板場の奥に再びカツラオオサンショウウオがチラリ。「はっ!!!」 驚きのあまり肝焼きが喉に詰まりむせてしまったジロ蔵は、「女将!水水!」 「あれあれジロ蔵さん、むせてしまいましたか。はい水ですよ。ゆっくり飲んで下さい」 「っあーっ助かった助かった。時に女将、先程板場の奥に見慣れぬ女を見留めたが誰じゃ」 「それはちょっと、、、、、」 「何じゃ言えぬのか」 「いえ、そういう事ではないんですが」 「では教えてくれ」 「、、、、、、、娘です」 「な、な、何!あのカツラオオ、、、あ、いやいや、あの女が此処の娘じゃと!」 「はい」 「今まで居なかったではないか。さては、、、、、出戻りか!」 「はい。辱しながら、、、」 ジロ蔵は鰻丼を掻き込み、そそくさと見世を出た。此処の鰻屋の主人はきりっと引きしまった男前。女将もまあ器量好しとは言えぬが十人並みである。どうしたらこの夫婦からあのカツラオオサンショウウオが発生するのであろうか。この歴然たる事実に、ジロ蔵は遺伝子の不思議を感じずにはいられないのであった。そして、大字日本橋字小舟村におけるカツラオオサンショウウオ誕生の謎を何としても突き止めんと誓った事は申すまでもないだろう。
節電するバカ
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