2013年8月

節介御免

世間一般の視座に立てば、私は著しく不親切な人間の部類に入るであろう。而して、他者から親切にされる事も好まない。その第一義的因由として、私は極めて厳しい自己戒律に則って日常生活を送っている事が挙げられる。連朝の起床直後に行う顔面体操(これは私が幼少時に閃き編み出した比類なき覚醒法であり、この顔面体操を行うやいなや、瞬時にシャッキリと目覚め、全身に膂力が漲るという驚愕の効果を齎す)に始まり、猿股の畳み方まで、私のその行動様式は全てが厳密に決定付けられているのである。私の自己戒律は、その厳しさはもとより、数も膨大で、ここに全てを記すことは到底出来ないが、幾つか具体例を挙げてみたい。毎週火曜日の午前9時15分に私は鼻毛を切る。如何にしてこの曜日時刻に定置されたのか、すっかり失念してしまったが、これは24年に亘って続いている事で、絶対にやめるわけにはいかない。この鼻毛切除に使用する鼻毛鋏は生半な品ではなく、私が東奔西走し、艱難辛苦の果てに探し当てた究極とも云える逸品であり、その鼻毛鋏を巧みに操り、毎週火曜日午前9時15分という刻限(午前9時14分や16分でも駄目である)、己の鼻腔にしつこく蔓延る忌々しい憎き鼻毛を徹底的に滅多斬りとするのである。私は絶命の刻が迫るまで、何が何でも毎週火曜日午前9時15分、鼻毛を斬り続けるであろうから、この傾刻には如何なる予定も割って入ることを断じて赦さない。毎月第一木曜日と第三木曜日の午前8時40分には、愛用するサロメのガスライターにガスを補給し、石の減り具合を点検の後、十回ほど点火⇒消火を繰り返し着火率を検める。着火率が8割を上回れば問題なしと判じ、そのまま継続使用となるが、万が一にも着火率が8割を下回った場合、鞄の中に忍ばせてある全く同じスペアのライターと直ちに交替する。そして厳格なぢろ蔵基準値から外れ、ぢろ蔵の面前にて粗相を犯したその不届きライターに悪罵を浴びせ、即座に修理の手続きを執行する。毎月第一第三木曜日午前8時40分、私は心ノ臓がその動きをやめんとするまで、老いさらばえ痩せ細り石にかじりついても着火率点検を断行する。するとまたしても、毎月第一第三木曜日午前8時40分は、所生長眠となろうが、その決定を猶予することは出来ない。甲州印伝白漆トンボ柄煙草入れのポケットにはそのライターと、江戸印伝白漆トンボ柄楊枝入れが忍ばせてある。江戸印伝白漆トンボ柄楊枝入れには、小舟町さるや謹製特別誂え、全長二寸からなる威風漂う黒文字が六本、更には銀細工両国銀政謹製入魂の作、純和銀楊枝が一本、静かに納まる。何故使い捨ての黒文字と、工芸品ともいえる銀楊枝の二種を携行しているのかと言えば、黒文字は須らく歯糞用、銀楊枝は観賞用なのだ。馴染みのカウンターにて次なる調烹を待つ少時、私はくさぐさの妄想に耽って遣り過ごすが、やがてその妄想にも厭きると、件の銀楊枝を徐に取り出し、ためつすがめつ弄繰り回す。時にはその銀楊枝で己の掌をちょいちょいと突き、その痛みに身命を覚える。私にとってこの銀楊枝は、呑み屋における独酌の無聊を慰める為の、欠くべからざる小道具として重責を担っている。通う呑み屋も曜日毎に確定しており、そのそれぞれの呑み屋から帰宅する徒歩順路も周密に練り上げられた完璧ともいえるものだけに、深夜の道路工事なんぞでぢろ蔵順路を妨害され、迂回を強制された日には、あたかも靴を左右逆に履いているかの様な不快感に襲われると同時に、赦し難い怒りがこみ上げて来る。貧家に戻るや履物を脱ぐが早いか手文庫を開け、使った分の黒文字を補給する。黒文字六本、銀楊枝変わらず一本、元通り雁首揃ったところで90分の書見が始まる。サルトルからのらくろまで、ぢろ蔵の知の蓄積は、斯くなる丑三つ時をもってしめやかに営まれる。カント、キルケゴールなぞは、老来甚だしきぢろ蔵の脳漿にあって、ハラリハラリと頁の二三も捲れば夢中へと誘う恰好の妙薬となる。酒毒に侵されしぢろ蔵の脳が、その失神と同意とも云える漆黒の闇より輪廻流転覚醒するは、決まって虎三つの刻。双眸に行灯の光明を映し己の命脈を検めるや放屁を一つ二つ。此の日もまた生きねばならぬ浮世の辛さ虚しさ怖ろしさにわななきつつも、大欠伸とともに二度寝に落ちる。ぢろ蔵二度目の目覚めはこれまた決まって卯三つの刻。渋渋の離床後、前陳件の顔面体操へ突入する。思いつくままにざっと述べただけで、これほどの自己戒律を挙行せねばならぬ。此の他の戒律を列挙すれば、頭の剃り方、爪を切る日時(手の爪を切る日時と足の爪を切る日時は別である)、洗濯の方法(ぢろ蔵は洗濯の鬼であり、洗濯について、ゆうに一冊の本が書けるほどの鬼気迫る激しき執念を燃やして日々洗濯に臨んでいる)、電子辞書の電池を交換する日時、腕時計のネジを巻く日時、靴を磨く日時、亀のエリザベスに餌をやる日時、空気清浄機のフィルターを交換する日時、音波振動歯ブラシを充電する日時、柳橋小松屋で佃煮を購う日時、アメ横ヤヨイの店員の、アメカジについての薀蓄を聞きに行く日時、職場のプリンターに用紙を補給する日時、自宅の灰皿の吸殻を捨てる日時、靴下に穴があいていないかどうか点検する日時、リステリンを小さな携行ボトルに移し変える日時、週に一度「男はつらいよ」を自宅で観覧する日時(寅さんを週一で観るとちょうど一年で全作となる)、いやはや書いても書いても書ききれない。私の生活は、精緻に練り上げられた、これら無数の決まりごとを厳格に徹底的に完璧に遂行することによって、精神的、肉体的なバランスが絶妙に保持されており、どれか一つが欠けるも断じて容認ならない。もしやその一つでも欠けるや、その精妙かつ繊細な均衡はあっさりと崩れ、私は生地が破れた気球のように失墜し、入れ歯が外れた爺の如く、フガフガになって床に臥してしまうのである。お判り頂けただろうか。私は忙しい。自らに課したこれほどの決まりごとを日夜果敢に、そつなく精確にこなさなければならず、その緊張感や重圧たるや想像を絶するものであり、常人であれば一日と持たず精神破綻することであろう。永年に亘る、極めて厳しくも激しき剣の道に勤しむことによって、尋常ならざる精神力を鍛え上げてきた私でさえも、もう毎日毎日ヘトヘトのクタクタである。斯くなる甚大な事由により、私は他者に対し不親切で冷酷にならざるをえない。他者から親切を受ける暇も、他者に親切にする時間も持ち合わせていない。ぢろ蔵は、真実日々激忙なのである。

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