2010年8月

幻想に愚弄される霊長

年歯を重ねるにつれ、自らが受けてきた公教育、私教育の殆どが現実と著しく乖離し、虚構で塗り固められた欺瞞に満ちた物である事に刮目し、歎息する。「やれば出来る」、「頑張れば何とかなる」、「努力する事に意義がある」等、これらは私がとりわけ蛇蝎視する言句の典型だ。努力論について今ここに多くのスペースを割くつもりは無いが、端的に言えば、努力とは才能及び運という礎の上で蠢く事によって初めてその意味素が成立するのであって、努力そのものに意味がない事は絶対的である。種の無い畑をいかに必死に耕そうと懸命に水を撒こうと芽はでないし、ガラス玉をどんなに磨こうともダイヤモンドにはならない。一方、種子は芽が出ていなくとも、ダイヤモンドは原石のままでも相応の価値があるのである。成功者は言う。「失敗を恐れず、勇気を持って努力し続けたから成功したのだ。即ち努力する事にこそ大きな意味がある」と。ところが、一見尤もらしい、ややもすると深く頷いてしまいそうなこの言葉は、成功した者にしか吐けない極めて思慮の浅い科白であると同時に、重大な論理矛盾が横たわっている。人は成功という結果を求めて努力する。その結果が無惨にも失敗に終わった場合、それまでの努力は水泡に帰す。現実には、失敗は永遠に恥ずべき失敗のままであり、努力は普く無駄に終わるのだ。成功者による努力は、成功したからこそ恰も肝要に見えるのであり、それはとてつもなくいかがわしい光を放つ麗句に過ぎない。つまりは失敗者の努力のみに真実性が含まれる事になる。そしてその失敗者の努力という真実は、失敗した瞬間に儚くも大気に希釈され遥か彼方に消え去ってしまう。果たして失敗者は、周囲の者から、「もうやるだけやったんだから十分じゃないか」、「結果が全てじゃないよ」、「お前の努力は素晴らしかったよ」「良く頑張ったよ」などという月並みの励言をかけられ、またそれらの励言が全くもって無責任で、なおかつ事実に反する事にうすうす感づきながらも、その周囲の者と同化してしまうのである。周囲と同化する事、それは低俗な帰属意識を充足させる、いかにも甘美で怠惰な楽園なのだ。努力という甚だ取扱いの難しい言葉と同様に、私は愛という思わせぶりで婉曲で抽象的な言葉も究極的に嫌う。愛と嘘は殆ど同義語であるとさえ言える。人間はつまるところ、自己利益に基づいた行動しか執れないという事は、本源的に正しいし、私はそれを体験的に知悉している。貴方が彼女に美味しい仏蘭西料理を馳走するのも、実は彼女に美味しい料理を味わって欲しいからでは全く無く、彼女に美味しい仏蘭西料理を食べさせる事によって、自分への好意を引き続き保ちたいという自己利益に基づいている。その証拠に、食事を終えた彼女が「あー、不味かった。こんな店に二度と連れて来ないで」と言ったら、貴方はひどく腹を立てるだろう。こんな相手の気持ちもわからないような(この言葉も私は大嫌いである)女とは即刻別れようと思うかもしれない。何故だろうか。あんなに好意を持って欲しかったのに。貴方は彼女が何ら自分に利益を齎さない事を悟った。そう、この時貴方は如何なる事由よりも自己利益を優先し、自分に不利益を与える彼女を排除しようとしているのである。貴方が周囲の人々に何時も笑顔を絶やさず礼儀正しく接するのも、良く思われたい、嫌われて不利益を被りたくないという自己利益を求めての事である。他者の為に命を擲つ行為でさえも、それは自らの正義観、生命観を伴う自己美学に則った究極の犠牲的自己利益充足行為であると言わざるを得ない。金銭的寄付行為も、奉仕(実は奉私)活動も、企業が行う慈善(実は偽善)事業も、とどのつまりは完全なる自己利益誘導活動に他ならない。言うなれば、愛と嘘と自己利益という言葉は、完全な同義語とは言えないまでも、異常なまでに緊切した近似値的相関関係におかれている。愛という言葉(概念)が単なる幻想であり、人間が産み出した最も卑劣で悪辣なものであることの証左は、市井の臣の生活の其処此処転がっている。この間まで、あんなに仲の良かった兄弟が遺産相続を巡って骨肉相食むという事態は、なんら珍しいことではない。この時、今までの兄弟愛は、家族愛はどこへ行ってしまったのだろうか。ほんの数日前まで仲睦まじかった恋人がはっきりとした理由も告げず、ある日突然目の前から去って行き貴方は呆然とする。二人で誓ったあの愛は何だったんだろうか。どこへ行ってしまったんでしょうか。彼女の言葉は嘘だったんでしょうか。そう、嘘だったんです。彼女は愛と近似値的相関関係にある自己利益に忠実に従い、貴方の前から消えたのです。さて時は過ぎ、貴方は50歳を越え、定年まで数えるほどとなりました。今日は日曜日、休日です。貴方は発泡酒片手に笑点を観始めました。(チャンチャカスチャラカスッチャンチャン)実にささやかな楽しみです。「うーん。やっぱり歌丸の司会はまだまだ板についてないな」観始めて5分と経たないうちに妻が声をかけてきました。「あなたちょっと話があるの」「あははは!今笑点観てるんだよ。うるさいなあ」「笑点なんて毎週やってるでしょ!大事な話なのよ!」妻はいきなりテレビのスイッチを切り画面の前に立ちはだかりました。「なんだよっ、笑点見せろよ!」っと言いながら、貴方は不穏な空気を察知しました。おかしいなあ。なんかヤバイ事でもバレたのかなあ、、、、、。「わかった、わかった。聞くよ。話を聞けばいいんだろう。はいはい、なんで御座いましょうか」「なによ、その言い方。真面目に聞きなさいよ。大事な話なんだから」「はい、、、、」「花子もお嫁に行って2年になるわね」「うん、そんなとこかな。早いもんだな」「太郎も去年就職して頑張ってるみたいね」「そうだな。頑張ってる。先週八重洲で一緒に呑んだよ。でもなんだよ。そんなこと改めて言わなくたってわかってるよ」「そこでね、子供もみんな独立した事だし、あたしリセットしたいのよ」「リセット?何だか良く判んないけど、いいんじゃない、どんどんリセットすれば」「あなたあたしの言ってる意味わかってんの?」「うーん、まあね。まあ気持ちはわかるけど、その歳でエステとかいっても芳しい結果は望めないと思いますよ」「違うわよ。あなた馬鹿じゃないの!私はね、人生をリセットしたいのよ!」「人生をリセット?どうやって?それはちと難しいんじゃないの。今さら」「あなたは本当に馬鹿ね!」「あんまりバカバカっていうと俺だってそのうち怒るぞ!」「それじゃあはっきり言わせてもらいます。離婚して欲しいの!お願いします」「、、、、、、、、、、、、、」5分以上無言の時が流れました。「俺は厭だ。絶対に別れん!!」「離婚してよ!」「厭だ!そんなに離婚したいならお前が出て行け!!」すると妻は、まるでこの流れを予測していたように、急に冷静になり「あなた判ってませんね。このマンションの半分は私のものですよ」「そんなの認めん!」「あなたが認めなくたってね、法律はそうなってるのよ」「そんなこと知ってるけど認めん!許さん!!駄目だ!!」しかし妻は貴方の反撃など歯牙にもかけず静かに話し続ける。「それでね、このマンション今売れば3000万位にはなるらしいのよ。不動産屋さんで調べてもらったの」「何をー!くそー!!ローンだってまだ6年ものこってるんだぞ!」「だからね早くこのマンション売って、貯金とあなたの退職金とを合わせて半分ずつにすれば、あたしも当分は生活に困らないでしょ。あたしが生活に困らないってことは、あなたに迷惑かけないってことなのよ。わかる?あ、そうそう、近いうちにメルセデスも査定してきてね」憤激と混乱に塗れた貴方は、餌を求める鯉のように口をぱくぱくさせるだけで、全く二の句が継げない。「あとね、弁護士さんもなるべく早い方がいいでしょうって」もう貴方は失神寸前である。愛と近似値的相関関係にある自己利益を真摯に追い求める妻の態度は、恐ろしく人間的であり、ひたすら正しい。貴方は30余年に渡って騙され続けていたのである。勝者は妻であり、貴方は惨敗者なのだ。努力や愛というものの正体は斯様に無慈悲で残虐だ。若かりし頃、愛などというものを大真面目に信じた貴方が馬鹿だった。迂闊だった。この世の殆どは嘘や出鱈目で構成されているのである。

残懐なる変遷

私の夜の生息地域である日本橋界隈、とりわけ人形町付近に、昨今やたらとお洒落な飲食店が繁茂している。まあ本当に毎週の如く次々と斯様なお洒落系飲食店が開店している。この間まで人形町はあほらしいドラマの舞台になっていたみたいだし。なにやら胡乱な仕掛け人の指矩らしいがうんざりである。私はね、お洒落系飲食店が大嫌いなんですよ。ウィンドウ越しに、そこで働いている人達を見ていると、芸能界に憧れる浅短な若者と同一の精神構造であることが透けて見えます。飲食店というものは、徹底的に清潔で料理が抜群に旨ければそれで良し。それだけで確実に客は入ります。それ以外には何も必要ありません。無愛想な店主でも結構。いちいち話しかけてくる店主よりよほど宜しい。そもそも店舗内装を必要以上にお洒落にするという事は、料理人の自信の無さのあらわれなのではないでしょうか。お洒落系飲食店の店主は30代後半から40代前半で実年齢よりとても若く見えます。髪型はお洒落坊主である事が多く、好い塩梅で日焼けしており、そこはかとなく海老蔵の香りを漂わせています。店の内装はどこもとてもシックです。黒やダークブラウンを基調としています。そして、それに合わせるかの様に店員の服装は暗色系のパンツにロングエプロン、エプロンと同色のキャスケットやハンティングを被っていたりします。照明は間接照明がメインで店内はかなり暗めです。イタリア料理店だろうがフランス料理店だろうがスペイン料理店だろうが焼き鳥屋だろうが、何故かBGMはジャズです。カンツォーネやシャンソンでは、ちときついという事なのでしょうか。しかし店主(絶対に誰にも見つからないようにこっそりとレオンをチェックしている)は、実はあまりジャズに詳しくないので有線放送かネットラジオです。勢い、ゲッツとかロリンズとかハービーとかサラとかエバンスとかパウエルとかマイルスのプレスティッジ盤とか、超の上に超がつくベタジャズを流してしまいます。更に、大抵とても読みにくいフォントのメニューが置いてあります。異様に大きな皿の真ん中にちょこんと料理がのっています。店員のチームワークもばっちりで、開店前の15分ミーティングも欠かしません。だからどの店員もとてもにこやかで楽しそうに働いています。既に私はげっぷが出そうです。このように考察してゆくと、お洒落店にしようとすればするほど実は定型化してしまうのです。どうしてもっと普通に出来ないのかなあ、フツーに。そういう店に居ると客の方が照れ臭くなってしまいます。結句、このようなお洒落系飲食店には、20代から30代前半のOLが溜まるようになります。OLが溜まっている飲食店は旨くないという事は世界的常識なのですから、須く料理は旨い筈がありません。何故なのか。まず、OLはスタバやベローチェといったカフェチェーン店のコーシーを好んで飲みます。あの手のコーシーを旨いと感じている時点で既に終了しています。また、女性は店舗内装や食器、店員の服装などの雰囲気にとても飲まれやすい。そして決定的な理由は、OLは可処分所得が低いという事です。可処分所得の低い者(パパがいるOLは除く)は普段から旨いものを食っていませんので料理の微妙な味など全くわかりません。あなたの周りに出没するOLに対し試しに、今が旬の魚を5種類挙げよ、と質問してみればよい。返答に窮する事は目に見えています。その点、可処分所得の高いオヤジ(オヤジでも可処分所得の低い人は居ますが)は違います。普段から自腹で旨いものを食っております。したがって心なしかオイリーかつチョイエロですが、それは仕方がない。店舗内装や食器などというフンイキモノには絶対に騙されません。「俺は昨日水谷行って、当てで鮪と鰹をたらふく食ってきたんだかんな。当てだよ当て。握りじゃないよ。だからね、いくら綺麗に盛り付けても、こんなカルパッチョ全然駄目。話になんね。オヤジをなめんなよ」ってな具合です。店であれ服装であれ、お洒落に見えないのが洒脱なんであって、一見して洒落て見えるのは、垢抜けず、無様な事の証左なのである。一見何の変哲もないポロシャツ(実はフレッドペリーのビンテージ)を着て、一見どうってことないデニム(実は47の501)を穿き、フツーのブーツ(実はジョブマスターのセカンドモデルで、既に10回以上リソールしている)を履いて、明治時代から続いている洋食屋でひなかから江戸団扇で扇ぎながらビーフカツレツで呑む。本当はこんなのが一番洒落ているのです。日本橋はそんな街だったのです。誰に申し上げてよいのか判りかねますが、もうこれ以上日本橋をオサレエリアにしないで下さい。そういう店をやりたい人(そういう店が好きな客)は、港区か、渋谷区や目黒区で思う存分オサレパワー全開の店をやって下さい。決して中央区には来ないで下さい。千代田区にも来ないで下さい。台東区にも来ないで下さい。江東区にも来ないで下さい。墨田区にも来ないで下さい。どうか御願いいたします。

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